彼女の紡いだ物語
森の一軒家は濃い緑の匂いに包まれていた。
全ては太陽と共に目覚め、月と共に眠りに就く。
遠くの一本杉の方から聞こえてくるフクロウの鳴き声を聴きながら、女性は隣で眠る娘の髪をなでた。
柔らかな長い髪は娘の生きてきた日々を束にしたかのように繊細で、美しかった。
ベッドに腰掛けたまま、月の光が差し込む窓から夜空を見上げていると、忍び足でやって来た夫が女性の肩にそっと手を置いた。夫もまた女性と同じように夜空を見上げる。
言葉もなく、互いの顔もぼやける暗闇の中で、二つの心が互いの存在を確かめ合うように寄り添っている。
『あの星は――』女性は、見つけた星に娘の名前をつけた。幻想の海を漂うような、意味もない戯れ事だ。
『その右隣が私、左隣が――』囁くように言って夫の顔を見る。彼の唇は星を照らす三日月の形で微笑んでいた。
娘の名をつけた星を眺めながら、女性は宵闇のような黒髪から覗く、白い星のような娘の頬に触れ、その柔らかさを感じていた。
狼の遠吠えが聞こえ、それに応えるようにフクロウが鳴いた。
その数日後に、夫と娘は小さな二つの星となった。
* * *
藤巻は宮内アヤカの書いた小説を読み進める。
その物語は、一人の女性の喪失から始まる。主人公である女性の姿に、作者である宮内アヤカの姿を重ね合わせてしまうのは当然の心情だろう。
* * *
唐突に最愛の夫と娘を失った女性は、心臓が抉り取られたような喪失感に苛まれる。
そして、心臓を無くしながらも生き長らえている自らの身体に、腐敗した肉体で歩き回る不死の怪物のような嫌悪感を覚えた。
何故、自分は生きていられるのだろうか。
全てを投げ出したい気持ちに駆られ、ベッドの上で漫然と夜空を眺めていた時、雲の切れ間から娘と夫の名前をつけたあの星を見つける。
小さな光を放ち、自らの存在を主張する二つの星。このままではいけない、そんな気がした。
ある日、女性の元を訪れた友人が『これは噂だけど』という前置きの上で、こんな話をした。
西の森に、条件次第で何でも願いを叶えてくれる魔女が住んでいるらしい。
女性は藁にも縋る思いだった。もう一度娘と夫に会えるのなら、どんな悪魔の囁きにすら耳を傾けようと思っていた。
地を這いずるような捜索の末、女性は西の森に住む魔女の元へと辿り着く。
夫と娘を生き返らせて欲しい。
そう懇願する女性を蔑むような目で見つめていた魔女は、皺だらけの醜い口元を歪ませて言った。
『そこまで望むなら、夫と娘を生き返らせてやってもいい。だが、一つだけ条件がある』
『どんな条件ですか?』答えを急ぐ女性に対し、魔女はもったいぶるように、血のように赤い舌で唇を湿らせて言った。
『お前の、その幸せな思い出とやらと、引き換えだ』
戸惑う女性を前に、魔女はにやにやと笑っていた。
『幸せな思い出を私のものにして、私がお前の代わりとなる。お前の代わりに妻となり、そして母になる。その条件を呑むなら、二人を生き返らせてやってもいい』
魔女の空洞のような目から、女性の思い出に対する嫉妬心と共に、平凡な幸せに憧れる一人の女の悲しみが見えた気がした。
魔女として人々から忌み嫌われる自分には、一生手に入れられないはずだった幸せ。不用意に飛び出してきた美味そうな獲物を眺めながら、魔女は舌舐めずりをする。
この人も悲しい人だ、女性はそう感じた。
悪人でも異常者でもなく、ただ悲しい人だ。
『私の代わりとなって、二人を幸せにすると、約束してくれますか?』
動揺を打ち消し、相手の目を真っすぐに見据え問いかける。魔女は無言で、しかし、しっかりと頷いた。
思い出を失うとは、どういうことなのだろうか。
もし二人が蘇ったとしても、自分の中の二人は完全に息絶える事になるのではないか。
自分は、愛するものを2度失う苦しみを、味わわなければならないのではないか。
涙を流しすぎて乾ききった心に、恐怖という黒い濁り水が浸透して行く。
しかし黒い水面に、夫と娘の顔が映りこんだ。小さな波にさえ打ち消されてしまうほど、その姿は酷く弱々しい。
このまま二人を消し去ってはいけない。
自分の壊れかけた心で弱々しく生き、そしていずれは死に絶えてしまう、そんな存在にしてはいけない。二人にはまだやりたい事も、その先に広がっている無限の可能性も、あったはずだ。
女性は魔女の条件を受け入れた。
呪いのカラスが女性の思い出を徐々に啄ばみ、無造作に乱暴に引きちぎっていくーーそんな呪術を魔女は女性にかけた。
* * *
ここまでがこの小説のプロローグだった。
本編では森の一軒家に戻った女性が、呪いのカラスに思い出を徐々に啄ばまれながらも、別れを惜しむように思い出を反芻する日々がつづられている。
女性は追い立てられるように過去を思い起こす。
全てが消えてしまう前に、幸せだった日々にもう一度触れようとする。
そして女性は気付く。
忘れたくない思い出があまりにも多すぎる事。それら全てを反芻する時間は自分には残されていないという事。
幸せな思い出は特別なものではない。
天気のいい朝の日差しや、それを見て目を細める娘の表情や、おいしそうに朝食を頬張る夫の顔や、シンクの食器がぶつかり合う音や、洗濯物の匂いや、外で遊んだ娘の髪から漂う砂の匂いや、雲に太陽が隠れ不満そうな娘の表情や、雨の音や、蛙の鳴き声や、絵本を読み聞かせる声や、やがてうつらうつらと眠りに就いた娘の寝息や、夕食の匂いや、一日働いてきた夫の汗の匂いや、風呂の湯気や、石鹸の匂いや、夜空の星や、娘の髪の手触りや、肩に置かれた夫の手の温かさや、娘の頬のやわらかさ。
そんな何気ない一日の中にも、幸せは途方もなく含まれている。
緩やかな川の流れのように、太陽から降りそそぐやさしい光のように、連続した思い出となって繋がっていく。
しかしその流れを無遠慮に、残酷に、呪いのカラスが食いちぎる。
女性は気が狂いそうな絶望を感じながら、必死で、食いちぎられた思い出の線を繋ぎ合わせ、胸に抱え込む。
それが無駄な抵抗だとはわかっている。
また、カラスが飛来し、思い出を食いちぎる。
この小説は教訓じみた感動を読み手の心に惹起するものではない。
一人の女性の喪失が、ただただ不気味なほど丁寧な文章でつづられている。
読んでいて、感動的の涙など流れるはずがなかった。
女性の――作者である宮内アヤカの感情が刺々しく心に突き刺さり、痛みを堪えるように顔を歪ませながら読むほか無かった。
ここに記されているのは、たった一つの純粋で個人的な言葉だけだった。
人の不運や不幸を題材にした作品は、ペンギンがオキアミを吐き出して雛に与えるように、他人の悲しみを消化し易いように加工して、見る者の心へと流し込んでくる。
藤巻はその光景にひどくグロテスクなものを感じていた。悲しみの中に含まれる「説教」やら「教訓」などの養分があからさまに主張され、鼻を突くような臭いが漂っていると感じていた。
しかし、この小説は他人の糧となる事を前提に書かれたものではない。
自分の感情を、自分の中に押しとどめ切れなかった悲しみを、コップから溢れ出たミルクがテーブルを汚すように、ただただ自分の外へと垂れ流しただけだ。
小説を読み終えた藤巻は、印刷用紙に染み込んだインクの集合体が作る奇妙な模様を、ただ呆然と見つめていた。白と黒のコントラストが、ここまで人の心に突き刺し、傷付けてくる事に、恐怖にも似た感情を覚えていた。
思い出したように氷の溶けきったウイスキーを流し込み、タバコに火をつける。
煙が部屋の天井に当たり、霧散した。
宮内アヤカの感じていた思い出――日常の中で徐々に薄れていってしまう大事な記憶や感情は、自然の摂理に任せれば、この煙のようにあっけなく消えてしまっただろう。
生き物は悲しみをもち続けて生きられるほど強くはない。忘れるというプロセスは心を守るために必要な機構だ。
それに逆らうために、彼女は自ら大事な思い出を反芻し、それを失う痛みを繰り返すことで胸に刻み込んできたのだろうか。
気が付くと、指の間に挟んでいたタバコは灰の塊になっていた。吸殻を灰皿に押し付けると、藤巻はカーペットの上に寝転がり、チカチカと小刻みに揺れる蛍光管の明かりを見つめた。
宮内アヤカの心に巣くう病巣とも形容できるような意思の腫瘍。
その赤黒くも艶かしい色合いに藤巻は心惹かれながら、しかしその憧れに似た感情の内側に、湿気と熱で溶けきった飴玉がこびり付いているような不快な感覚を覚えた。
明かりを消し、視覚からの情報を強制的に遮断すると、暗闇の中には円形蛍光管だけがぼんやりと浮かんでいる。
その薄雲に隠れた満月に自分の心情を映し出し、伸ばした手のひらを開いたり閉じたり繰り返しながら、自分でもわからないその感情の正体を掴み取ろうと試みる。
時計の音が耳障りに響き、藤巻を焦らせる。
宮内アヤカの顔が浮かんだ。
彼女が愛してやまない二人の姿が浮かんだ。
透明から脱却しようとする意思と、その意思の源となる対象の存在。
そして、透明な自分。
誰にも見えず、見られる事がない自分。