静寂が滲む部屋で
「たしかにそうは言った。言ったけどさ、まさか本当に来るとは思わなかったよ」
翌日、昼間に玄関から訪問した藤巻を前に、宮内はあきれた声を上げた。
藤巻の最寄り駅から電車で5駅、駅から徒歩15分の位置にその住宅街はある。
車で来なかったのは、藤巻御用達の月極駐車場である「コンビニ」が、昼間の長時間駐車は禁止だから。それに加えて、現在一人暮らしのはずの宮内家に見慣れないポンコツ軽自動車が停まっている事で、近隣住人のいらぬ好奇心を掻き立てないためだった。
藤巻のアパートに、姉が車で遊びに来たことがあるが、その翌日に向かいの家の住人から『知らない車停まっていたけど、彼女さんかい?』と尋ねられた事がある。地方都市のベッドタウンにおける近所の目というのも侮れない。
「まぁいいや。散らかってるけど、入ってよ」
宮内は前髪を後ろに流してヘアピンで留め、フレームなしのメガネをかけていた。白いTシャツの上に薄桃色のカーディガンを羽織り、黒いテーパードパンツを履き、裸足にスリッパを突っかけている。
あの夜見たダボダボのパジャマ姿とは相反し、理知的な女性の輪郭が垣間見えた気がした。
じろじろと嘗め回すような視線に気づいた宮内は、あからさまに眉根を寄せる。その表情の変化を感じ取った藤巻は、露骨に視線を泳がせると、いそいそと靴を脱いだ。
客間に通され、ポットのお湯で作ったインスタントコーヒーが藤巻の前に置かれる。
散らかってると言っていたが、部屋は綺麗に片付けられていた。あの夜の彼女から感じた自暴自棄さは実生活を侵食するまでには至っていないようだ。
「で、なに?」
向かいの椅子に座り頬杖をついた宮内が尋ねる。
その質問は当然予想されるものだったが、藤巻は自分自身でさえ何を求めてここに来たのか、よくわからなかった。
また会いたくなって――そんな本心からくる言葉は、きっと安っぽい口説き文句のように響くだろう。考えた挙句、当たり障りない言葉が口をつく。
「えっと――作品読みました」そう言って、失敗したと思った。
「あ、読んだんだ。感想は?」宮内は悪戯っぽく顔を綻ばせる。
「その、とても良かったです」完全に墓穴を掘っている自分に気付く。
その返答を聞いて宮内は破顔した。
「そっかそっか、使ってくれたんだ? 実用的だったみたいだね」
「違います! そういう意味じゃなくて」
「ふーん」宮内は急に無表情に戻った。その目は品定めするかのように藤巻を見ている「どんな女がアレを書いたのか、もう一回マジマジと眺めに来たわけ?」
「違いますよ」
「あ、日の光の元で見たら、思った以上に冴えない女で萎えちゃった?」
「いや、そうじゃない。あなたの作品から、なんだかものすごく、『感情』‥‥みたいなものが、見えた気がしたから」
コーヒーの湯気が、藤巻の目線を超え、額の上あたりで消える。
安価で馴染み深い芳香が、一人暮らしの女性の嗅ぎ慣れない生活臭の中に溶け込んでいく。
藤巻の言葉を聞いて、宮内の表情が一変した。一瞬の驚愕の後、作文を褒められた子供のようにくすぐったさを堪えるような表情。
彼女は無言でコーヒーに口をつけ「あちち」といってすぐに離した。
藤巻もコーヒーに口をつける。熱いが飲めない熱さではなかった。安物のインスタントコーヒー独特の舌の奥にこびりつくような苦味が、不思議な安心感を運んでくる。
「感情、ね」コーヒーを見つめながら宮内は言う「感情ってのは、服によって覆い隠される物だと思うんだ。でも裸で抱き合う男女にとっちゃ、それを遮るものは何もない。そりゃ、色んな感情が顕になるよ」
宮内はもう一度コーヒーに手を伸ばした。小さな花びらが濁り水へと落ちていくように、唇が黒い水面に触れる。
藤巻は無言で、次の言葉を待った。
「官能小説ってさ」宮内が再び言葉を紡ぎだす「やっぱり一定の需要があるんだよね。それも、権威も何もない私みたいな弱小女性作家が書いているとなると、そこに興味を見出す人たちもいるから、まぁそこそこの稼ぎにはなるんだよ。それが、私の仕事だからね」
『仕事だからね』の部分には、自分自身へ言い聞かせるような歯切れの悪さを感じた。
宮内は続ける。
「小説ってのは難しいよ。水面に油絵の具で絵を描くようなものさ。文章っていう水面に、思想っていう絵筆が触れた瞬間、それは薄い円になって四散しちゃうんだ。明確だと思っていた伝えたいことも、書き上げてみればただのぼやけて歪んだ円の集合体で、その輪郭すら掴めない。指先を水面に突っ込んでかき混ぜてあげれば、ぱっと見は形而上的で高尚な何かに見せることも出来るけど、それは単なるごまかしで自分が本当に言いたいことじゃない」
宮内のいつの間にか視線はコーヒーから藤巻へと移っていた。
「そんな小説は誰も読みたがらない。売れないんだよ。だから――」
「だから、自分を消して、透明になろうとしたんですね」
藤巻は今の会話で、彼女から感じた何かの一端に触れたような気がした。
彼女は自分と同じ場所を出発点としていた。自分自身を押し殺し、透明になろうとしていた。
「透明になるって、気取った表現だね」宮内は口の端でニヤリと笑った「確かに、あの頃の私は透明になろうとしていたのかもしれない」
自分も同じなんです。
藤巻はそう身を乗り出そうとして、その言葉のおこがましさに言い淀んだ。相手は職業作家だ。きっと自分のような一介のサラリーマンとは一線を画す存在なのだから、気安く同一視してしまうのは失礼にあたるかもしれない。
しかし彼女のいう『思いを伝える事』の難しさは藤巻も感じた事があった。
学生時代バンドを結成し、ギターを掻き鳴らしながら歌っていた頃、藤巻は自分の思想や表現が、音楽や詞の形を成して他者に伝わる快感に酔いしれていた。
しかしそれが出来たのは、その音楽や詞がインスタントであり、誰でもお手軽に手を出せるような安物だったからだ。その音楽に商業的な価値は一切なく、大学卒業と同時に藤巻は今の会社に勤めた。
ギターをビジネスバッグに持ち替え、歌は営業トークに、詞はプレゼン資料に変わった。
そこに藤巻の思想や表現の入り込む隙は一切なかった。
全てが自分という個人を排除した世界で運営され、藤巻の形をした単なる物体に対して、評価と責任が張り付いた。
そして藤巻は透明になった。
「君、名前何って言うの?」宮内が問う。
「藤巻、健吾です」藤巻は応える。
「藤巻君、明るいところで見ると、案外まともな人間なんだね」宮内はにんまりと笑う「それに、けっこういい読みを持ってると思うよ」
「どうも、ありがとうございます」
宮内は立ち上がり台所からクッキーの箱を運んできた。
椅子の上に体操座りで座ると、箱を開封してクッキーを一枚齧り、人差し指で藤巻の前へと押しやる。君も食べなよ、という意味のようだ。
藤巻もクッキーを一枚取り出して齧る。卵とバターと香りがやんわりと主張するシンプルな味のクッキーだった。
窓の外を宅配のトラックが通り過ぎた。タイヤとエンジンの音がやけに大きく響く。
休日の昼間なのだが、ここは夜が帳の半分を上げ忘れていったかのように静かだ。
この静かな家の中で、彼女は一人きりで生きている。かつては夫と子供の笑い声、時には泣き声で満たされていたのであろうこの家の中で。
そこに思い至った藤巻は、その孤独の深さに寒気を感じた。
「確かに私は透明になろうとしていたかもね。でも今は違う。透明になるって事は、今の自分を培ってきた過去や、感情や、自分を支えてくれたものすべてを透明にしてしまうって事だと思うから」
宮内の高く細い声が静かな部屋の空気を震わせた。
コーヒーの香りが消え、クッキーの香りも消え、車の音も鳥の囀りも風になびく木々の音も、全てが不要なものとして消え去った。
おそらく今の彼女は、自分の過去以外の全てを無価値と考えている。
彼女自身の頭蓋骨という殻に閉じこもった軟体動物の見る夢――記憶や思い出という名の夢だけが彼女にとって唯一価値のあるものなのだ。
「だから私はもう絶対に透明になろうとは考えない」
この目だ。
この目が藤巻の心を締め付ける。
透明になりきろうとする藤巻の首に絡みつき、影のある世界へと引き戻そうとする。
「まぁ、そういうことだからさ、今はもう官能小説は書いてない」
そして、宮内の目尻が下がった。
それは藤巻が初めて目にした、彼女の柔らかな表情だった。産まれたての我が子を見つめるような、愛情に満ちた顔だった。
「今は別の話を書いている。っていうかさ、この前やっと書き上げたんだよ。今度は嘘偽りない、私自身の言葉と思いを綴った小説だよ」
宮内はまたクッキーに手を伸ばし一枚を齧った。ぼりぼりという咀嚼する音が聞こえる。
赤く薄い唇が伸び縮みする様を藤巻は呆然と見つめていた。
「担当さんが上に話を通してくれたから、いずれは出版されるはずだよ。本当は私みたいな弱小官能小説家に、こんな我儘は許されないんだけど‥‥ほら私、境遇がアレだから、話題性で押していけば、って策略なんだろうね」他人事のように宮内は言い「でも、私はそんな甘いもんじゃないと思うけどね」自嘲気味に笑った。
『私の思い出の中だけにいる二人の存在を、私の中から解き放って、全ての人々の心に刻み込みたい』
あの夜、彼女の口から放たれた、決意のこもった言葉を思い出した。
「売れますよ」何の根拠もないが藤巻は言った。
「読んでもないのに、よくそんな事が言えるねぇ」宮内は眉を歪ませ口元だけで笑った「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
そう言い残すと宮内はトタトタと階段を駆け上っていった。丸めた新聞の折り込みチラシで床を叩くようなひどく弱々しい足音だった。
一人残された藤巻はほっと一息を吐く。無性にタバコが吸いたくなったが、人の家で勝手に吸うわけにもいかずに我慢した。
しばらくして降りてきた宮内はA4サイズの封筒に入った分厚い書類を抱えていた。
「これ、今度出る小説の原稿。担当者に渡すつもりだったんだけど、また印刷すればいいしさ。君にあげるよ。ほら、藤巻君の存在もこれを書き上げる一助になってるわけだし」
あの写真の事だろうか。
火に包まれ、この世から消え去り、宮内の心に喪失という傷を新たに刻み込んだ写真。その傷の痛みを力に変えて、彼女はこの小説を書ききったのだろうか。
「読んで、今度感想を聞かせてよ。君は変に読みが鋭いから、ずばっと単刀直入な意見を言ってもらえると助かるな」
正直、期待されているような働きが出来るとは思えないが、今の彼女が書いた小説には興味があった。しかしこういった類のものを無関係な第三者に渡してしまってもいいものなのだろうか。
「ええ、まぁ、いいですけど、いいんですか?」
「大丈夫でしょ。君は泥棒の癖に律儀だからね、悪用するとは思ってないよ」
こんな自分を信じられるのは、彼女が純粋だからか能天気だからか。
いや、おそらく自分の本質は完全に見透かされている。所詮自分のような意志薄弱な存在は、宮内のような女性の手のひらから抜け出ることは出来ないのだろう。
去り際、宮内は「また来てね」と小さく手を振った。その仕草に藤巻はこそばゆいものを感じた。
宮内の家を後にした藤巻はコンビニでタバコに火をつける。
煙が天へと昇る様を見つめながら、亡くなった宮内の夫と子供の事が、ふと脳裏にちらついた。
彼女の意志の力に気圧されながらも、藤巻は生き急ぐような彼女の姿に一抹の不安を感じていた。『彼女の幸せを祈ってあげてください』と、天国にいるであろう二人に向かって心の中で語りかける。
彼女の幸せを祈ってあげられるのは、今もなお彼女の心の大半を占めている天国の二人だけだ。
たぶん、ただの泥棒でしかない自分は、それを祈れるような立場にはない。