官能小説家、宮内アヤカ
「えーっと、宮内アヤカですか。ただ今調べますので少々お待ち下さいね」
アルバイトの女性書店員は愛想良く手元のパソコンで店内の書籍情報を検索してくれた。しかし暫くすると溢れ出た嫌悪の感情が、厚い化粧で整えた愛想笑いを歪ませている事に藤巻は気付いた。
あの夜から数日後ーー藤巻は近所の書店の中をぐるぐる回っていた。
古本屋ではなく新品を取り扱う書店に足を運んだのは、彼女に対する少しばかりの償いの気持ちからだ。文庫本、もしくはハードカバーの単行本コーナーに「宮内アヤカ」名義の本が並んでいるものと踏んでいたが、いくら店内をぐるぐる回ってもそれらしい本は見当たらない。
仕方なく藤巻は近くに居た女性店員に声をかけた。店員はレジ横のパソコンで検索し、唐突に眉間に皺を寄せ横目で藤巻を睨む。
「こちらです」
愛想笑いを捨て去った女性店員は、真顔で藤巻を文庫本の並ぶ一角へ案内する。そこは先ほど店内を探し回った時に唯一目を通さなかった場所だった。
『官能小説コーナー』
藤巻は唖然とした。
女性店員が指差す先には確かに「宮内アヤカ」と書かれた本が数冊並んでいる。
動揺した藤巻は「え、あれ? おかしいな」とぼそぼそ呟きながら、照れ隠しとばかりに女性店員へと愛想笑いを向ける。
女性店員は道端に転がる野良犬の排泄物を見るような目で藤巻を睨みつけていた。
『女性店員に性的な本の並ぶ場所をあえて尋ね、戸惑う様を見て劣情を満たすセクシャルハラスメントを行ったこの冴えない男性客』に対する抗議の表情が顔全体に貼り付けられている。
藤巻はその濡れ衣を脱ぎ去りたかったが、これ以上何かを脱いだところで、それ自体が変態プレイの一部と取られかねないだろう。
「あ、ありがとうございました」
藤巻がとりあえずお礼を述べると、女性店員は「ふんっ」と鼻息を鳴らしてレジへと戻っていった。
官能小説コーナーの前に残された藤巻は、考えた挙句「宮内アヤカ」と書かれた本を全て掴むとレジに並んだ。
それは『本当にこの本を買いたかったのであって決してただのセクハラをしたかった訳ではない』と不本意な誤解を解くための行為だったが、例の女性店員は品出しに出ていて不在だった。レジを担当した大学生くらいの男子店員は『お客さん性欲マジでぱねぇすね』とある意味軽蔑、ある意味尊敬の眼差しを向けられただけだった。
紙袋に入った4冊の官能小説を軽自動車の助手席に転がす。エンジンをかけながら藤巻はあの夜の事を思い出していた。
あの時彼女から感じた『何か』――その何かを探りたいという思いが、宮内アヤカへの妙な執着となって藤巻を突き動かしていた。その答えの一端が彼女の書いた本に記されているかもしれない、そんな淡い期待を持って書店に向かった結果が4冊の官能小説とは、全く予想していなかった。
17時の街はまだ活気に満ちている。
夕日によって作られた長い影を引き連れながら、人々はまるで影とダンスを踊るかのように街を闊歩する。
今の自分には影があるのだろうか、ふとそんな疑問が藤巻の脳裏を霞めた。
何気なく夕日に向かってかざした手は、波打つ赤い球体を簡単に覆い隠してしまった。この身体が透明でない事に、自分は落胆しているのだろうか、それともどこかで安堵しているのだろうか。
男子高校生数人が、来週に迫ったテストの話題で盛り上がりながら、舗道を歩いている。
彼らの影は、自分よりも明らかに色濃いような気がした。
宮内アヤカは官能小説家だった。
その事実は、火花を散らしていた線香花火が唐突に地面へと吸い込まれてしまったような、シャボン玉が屋根に届く前に壊れて消えてしまったような、ある種のあきらめを含んだ喪失感を藤巻に与えた。
あくびをかみ殺したあと、クッションの上に投げ捨てられた紙袋から本を取り出し、裸の女性が描かれた表紙を眺めてみる。豊満な肉体を持つその女性の姿は、この本を書いた女性の骨ばった指先や、やせ細った首筋や、病的に白い頬の上に二つ並んだ草食獣のような黒い目とはまるで重なり合わない。
全てがちぐはぐなような気がする。
しかし、そのちぐはぐさへの関心が、磁石のように藤巻を惹きつける。
氷を入れてグラスに半分ほど注いだウイスキーをちびちびと飲みながら、藤巻は宮内アヤカの書いた本を開く。
一日の終わりにほんの数章だけ彼女の書いた官能小説を読むーーそんな日々が続いた。
そんな夕暮れ時の惰眠のような日々の中で、その数十分だけは脳が完全な覚醒状態となり、薄皮が剥がれたように心の感度が高まるのを感じた。
そして最初に感じたこの小説のちぐはぐさは、より明確なものとなっていった。
この小説は官能小説の姿を借りた別の何かだった。
文章は確かに官能的であり、複数の男女の淫らな性交が書き連ねられている。そのあられもない描写に劣情を感じなかったかといえば嘘になる。
しかし一見性的な興奮を煽っているようにしか見えないその文章の節々には、違和感という苔がこびりついていた。
その違和感は、恋人を待つ女性が不意に見上げた夕日や、性行為の後に薄闇の中で見た時計の光る文字盤や、様々な体液の名残が混じった風呂の残り湯が作る渦の中に、渓流の岩陰に住むカワゲラの幼虫のようにひっそりと身を潜めていた。
その正体は何なのか藤巻は考え、「感情」という言葉に行き当たった。
この官能小説は、ご都合主義的に男女の性交が繰り返されるファンタジーの合間に、登場人物の放つ生々しい「感情」が忍び込ませてあった。
読者の欲望を満たすためだけに作られた傀儡達が時には大げさに愛を叫び、時には不自然なほど甘ったるい嬌声をあげ、快楽にのみ反応し白い2本の太い触手を広げる。
そんな混沌とした世界の中にあって、そこには明らかな感情が星屑のようにちりばめられ、はかなげな輝きを見せていた。
土くれと枯れ草と茶色い蔦が絡み合った荒地に、点々と根を張った草花が小さく赤い花を咲かせている――それは美しい絵画のようだった。
小説を読み始めて数週間後、最後の一冊を閉じた藤巻はそのまま布団に倒れ込んだ。
BGMで流していた音楽が途端に自らの存在を主張しだす。
学生時代に繰り返し聴いていたロックバンドのデビュー曲。テレキャスターの軽快なカッティングが藤巻の脳内を埋め尽くす。
この音に自分自身が完全に支配されてしまったらどれほど心地よいかと思ったが、徐々に宮内アヤカによって呼び起こされた思考の泡が、音の水面に波紋を作った。
あの夜感じた「空気」は一体なんだったのだろうか。
彼女の過去ともいえる作品を読み終えてなお、その答えは厚いカーテンの向こうに隠れたままだ。
しかし作品を通して見られた「感情」の切れ端がわずかな風を生み、カーテンが少しばかりたなびく瞬間も確かにあった。
もう一度、彼女に会わねばならない。
そう藤巻は思った。
それによって何かが変わるのか、今の自分を包む透明な雰囲気へ何かしらの影響をあたえてくれるのか、それは解らない。
ただこのままで居たら何も変わらない気がした。
『今度は昼間に玄関からお願いね』
彼女の言葉を思い出した。