思い出を、刻み込む
2日連続の睡眠不足によって凝固した眠気が澱のように額の裏側に張り付いている。
藤巻は丸太のように重たい肢体を持ち上げて洗面台で顔を洗い、歯を磨き、寝癖を直す。
テーブルの上に投げ捨てられたコンビニ袋から今朝買ったシーチキンおにぎりを取り出して口の中に詰め込むが、水分に乏しい粘土のような白米を飲み込むだけで酷く体力を消耗する。半分ほど詰め込んだところで時計が出社予定時間を指し示している事に気付き、悪態をつきながらも仕事着に着替えると軽自動車に乗り込んだ。
会社に向かって走る車のタイヤはまるで空気圧が極端に低下しているかのように重たい。コンクリートが液状化して車体が沈み込んで行くような感覚。
自分の机で始業準備をしていると課長に別室へと呼び出された。
「A社へのプレゼンの件だけど、悪いがあれは春日君に任せる事に決めたよ」
「えっと、どういうことです?」藤巻は聞き返す。A社は今後新規営業をかける予定の大手企業であり、そのプレゼンテーションは藤巻が担当する事となっていた。久しぶりに任された大口案件であり気負いがなかったと言えば嘘になる「だって、あそこは私に任せて頂けるとおっしゃっていたじゃないですか」
課長は眉間にしわを寄せると、聞き分けのない子供に言い聞かせるように諭す。
「こういう言い方は良くないが、君に任せるのは役者不足だと部長がおっしゃってね。考え直してみたんだが、確かに一理あると思ってね」
「それで春日君に、ですか?」
「彼は君より後輩だが、売上は君より上だ。何より熱意があり、勢いがある」
「熱意? 勢い?」藤巻は目の前の中年男が何を言っているのか分からなかった「もっと、具体的に言っていただけないと、何が悪かったのかわかりません」
「じゃあ言うが、君の作ったプレゼン資料、確かに綺麗にまとまっているが、ただそれだけだ。売り出す商品を店先に綺麗に並べるだけが仕事じゃないぞ。客を呼び込み、足止めさせ、買う気にさせる。そんな積極性が必要なんだ」
「はぁ、そうですか」
藤巻は頷いた。
退勤打刻を切った後の薄暗いオフィスで、藤巻はあのプレゼン資料を作った。頭をかかえ、何度も書き直し、タバコを何本ももみ消しながらーーそれでも会社のために、自分自身のプライドのために、今回の案件はどうしてもやり遂げなければならないと思っていたからだ。
しかし、藤巻の口からその熱意が漏れることはなかった。自分自身を透明にして、上長の判断を必死に受け入れようとしていた。
「何か異論はあるか?」
「いえ、わかりました」
そんな藤巻の返答に課長はわざとらしく溜息をつく。
「なあ藤巻、そう言うところだぞ。お前には熱意ってもんがないのか? 何か言いたい事があるなら、はっきり言ったらどうだ?」
「いえ、ないです。すみません」藤巻は課長の首元をぼんやりと眺めながら、答えた。今ここで自分が意を唱えたところで、何が変わると言うのだろうか。
自分は透明になる。
自分という存在が、他者から認識されないほどに透過し消えていく。そんな自分は、誰にも影響を与えず、そして誰からも影響を受けない。
机に戻ると後輩の春日が慎重な足取りで近づいて来る。神妙な表情を取り繕っているが、口の端の喜びは隠せていない。
「藤巻さん、課長の話ってA社の件ですよね? すみませんが、僕の方で引き継がせてもらうことになりました。今資料を作ってますんで、完成したら藤巻さんからもアドバイスお願いします」
丁重に頭を下げる。
「そうだね、まぁ仕方ないよ。これは課長と部長の独断だし、従うしかない」
「独断、ですか」
春日はそんな藤巻の発言が気に食わなかった。
自身が先輩である藤巻よりも優れているのは、今回の件を例に挙げても明白だ。潔く負けを認めてもいいはずなのだが、納得してはいないという事か?
そう春日が考えている事を、藤巻は概ね察していた。察していたが、もはやどうでも良かった。
「藤巻さん、僭越ながら僕からのアドバイスです。あなたのプレゼン資料見させてもらいましたけど、あれじゃダメだと思いますよ。何も伝わってこない。まるで透明人間が書いたみたいだ」
侮蔑の意思を込めながら、春日は笑った。
「そうだね」
そして藤巻も笑う。
自分が透明になっていく。
藤巻はその感覚に身を委ねる。
自分自身をすり減らしながら日々を送っていく中で、いつしか藤巻は自分が透明な存在に変わっている事に気付いた。自分の意思、主義、思想などは、この会社という小さなコミュニティの中ですら何の影響力も持たず、はじめから無い物として扱われる。
自分の存在が消えていく。
その事に気づいた頃と時を同じくして、藤巻は件の『泥棒行為』を行うようになった。
透明な自分は誰からも相手にされず、誰にも見つからない。
その自己評価が正しいか正しくないかは別として、特殊な技術もない素人の藤巻は、今まで一度も見つかる事なく盗みを繰り返してきた――そう昨夜までは。
透明にならなくてはいけない。
自分を悲しみから守るため、透明にならなくてはならない。
そして藤巻は、昨夜の邂逅を思い出す。
* * *
「この世に悲しみがなければ、誰だって、何も生み出す事はできないよ」
黒い煤になり果て灰皿の上に投げ捨てられた写真を見ながら、女性――作家の宮内アヤカは言う「幸福は人を立ち止まらせるから」
「意味が、わからないですよ」
藤巻は知らぬ間に本棚にもたれかかっていた。両足の力が抜け崩れ落ちそうになるのを、越冬する蝶の蛹のように本棚にしがみつきながら必死でこらえている。
月の光が、冷たく鋭い刃から柔らかな絹の糸へと変わった。
身の回りの全てが留まる事無く、映画のコマ送りのように移り変わっていくこの空間の異様さに、藤巻は軽いめまいを覚えていた。
「私、物書きをしているんだ。宮内アヤカって知ってる?」
「えっと、すみません、知らないです」
藤巻は本をあまり読まない。ワイドショーで取り上げられるような作家の名前は覚えているが、その作品についてはほとんど知らなかった。ましてや目の前の女性についてなど知る由もない。
「謝らなくていいよ。知名度が低い事は自覚しているし」宮内は机のいすを引くと猫のようにしなやかに座った「でも、それだけでなんとか食べていける程度ではある」
宮内は照れたように笑った。
「その辺に座りなよ。タバコでも吸う? 私は吸わないけど、灰皿はここにあるし」
机の上の灰皿をフローリングの床に置き藤巻の方へとすべらせる。灰皿は白いハツカネズミのように床を走ると、藤巻の足元で失速して止まった。
その瞬間、張り詰めた糸が切れたように足の力が抜け、藤巻は床にへたり込んだ。
「あんたタバコ吸うんでしょ? タバコの匂いがぷんぷんするよ。旦那と同じタバコの匂いだ」宮内はへらへらと笑う。のっぺりとした月の仮面は剥がれ落ち、感情を露にした人間の顔が現れる「なんだか、今日は特別な夜だな」
藤巻は胸ポケットからタバコとライターを取り出し、口にくわえ、火をつけた。鼻先の小さな火がほんの少しだけ現実を見せてくれる。異空間にあいた現実に通じる小さな赤い穴を覗き込むようにしながら、肺に灰に溜め込んだ煙を長く吐き出した。
少し心が落ち着いたのを実感する。
灰皿に灰を捨てようとして、黒く染まった思い出の残骸がそこにある事に気付く。無下に扱うわけにもいかず煤を丁寧に灰皿の隅へどかすと、もう反対側でタバコ火を消して吸殻はタバコの箱の中へと隠した。
その様子を宮内は慈愛に満ちたような目で見つめている。
「なんで、燃やしてしまったんですか」
藤巻は煤を見下ろしながら誰にともなく呟く。口の中で飴玉のように転がったそれは質問の体をなしていなかったが、宮内はその呟きに答えるように言う。
「思い出を、刻み込むため」
「刻み込む?」
「文章……作品にね」
宮内の目は一瞬パソコンに向けられた。そこに書きかけの作品――彼女の思想や思い出が保存されているのだろう。古代生物の化石のようだな、と藤巻は思った。
「目で見える幸せは、思い出をそこに固定してしまう。それじゃあ、私の思い出は私の中だけに留まったまま、何処に向かう事もない。私は伝えたいの。私にとって大切な人がいて、生きて、死んでいったって事をね」
藤巻は唖然としながら、風に揺れる瑞々しい花びらのような彼女の唇を見つめていた。
「思い出の二人を、私の中から解き放って全ての人々の心に刻み込みたい。幸い、私はそれが出来る立場にいるから」
「でもそれは、すごく難しい事ですよね」彼女が何を言っているのか分からなかった。だから藤巻は限りなくシンプルな質問を彼女に投げかける。
「だから私は目で見える思い出を消す。その喪失感が、新たな力強い意思を生み出してくれるから」
「そんな事をして、悲しくないんですか」
「悲しいよ、身が引き裂かれるほどに。でもその悲しみが私の足を動かしてくれる」彼女はもう一度言う「悲しみがなければ、人は何も生み出せない」
藤巻は言葉を失う。
彼女は夫と娘を失って深い悲しみに襲われた事は想像に容易い。その悲しみから逃れるため、心を殺して殻に閉じこもり、深海生物のように砂の中に身を沈ませながら、海水とプランクトンだけを口に流し込んで生きる事も出来たはずだ。
だが彼女はそれをしなかった。
目で見える思い出をひとつひとつ消しながら、喪失感という針を身体に突き刺し、薄れゆく痛み――悲しみという思い出を持続させながら、そのひとつひとつを文章に刻み込んできたのだろう。
頭がおかしいんじゃないか、と正直思う。しかし自分にはないその意思に、藤巻は河原で見つけた綺麗な小石のような輝きを見た。
透明になろうとする自分と、色褪せるものを押しとどめようとする彼女。
「泥棒さん、あんたの事通報はしないから安心して」宮内は言う「久しぶりに人と話して、なんだか落ち着いたよ」
「え、あ、ありがとうございます」
通報と言う言葉を聞いて、藤巻は自分の立場を思い出した。自分は泥棒、あくまでもこの家の異物でしかない。
「それでさ、悪いけど、そろそろ帰ってもらえるかな? 私、マジで眠くなってきちゃったよ」
心底申し訳なさそうに宮内は頭を下げた。
「そうですね」
その仕草におかしさがこみ上げてきて、藤巻は固く噤んでいた唇を緩めた。
床に手をついてのっそりと立ち上がる。
そこで自分の中にくすぶっている何かに気付いた。その感情は透明だった心に一滴だけ、赤い絵の具を落としたような気がした。
瞬間、鮮やかな波紋が広がり、すぐに透明な水に溶けて消える。
理性を置き去りにして、藤巻は尋ねていた。
「宮内さん、また来てもいいですか」
そんな彼の問いに、宮内はニヤリと笑う。
「今度は昼間に、玄関からお願いね」