さよなら私の思い出たち
短い雨の合間に差し込んだ日光が、遠くに見える低い山に影を生んでいた。
人生なんて――というやや主語の大きな呟きが、住宅街の小高い丘を登り切った元泥棒の青年の口から溢れる。
自分を透明な存在だと決めつけ、砂場の砂つぶを盗み出すような何の意味もない泥棒行為を続けていたあの日々は、きっと雨雲に隠れたあの影の部分に他ならない。
少しの風と、ほんの小さな出会いがあれば、その雨雲はゆっくりと北へ流れ、やがてやわらかな日が山肌を温める。しかし、遠くの空から流れてきた雨雲が、いつかまた冷たい雨を降らせるに違いない。
人生とは、そんなどうしようもない自然現象の繰り返しだ。
今は、レモネードのような半透明で甘酸っぱい色で染められたこの身体とて、些細な事で色を変え、些細な事で色を失う。この社会で生きていく中で、時に濁ったドブ水を注ぎ込まれる事だってあるだろう。
背負ってきたアコースティックギターが、なんだか重く感じられた。
学生時代、音楽を始めたばかりの頃は感じなかった負荷が、適当に買ったソフトケースの黒いナイロンベルトを介して、青年の左肩にのし掛かった。
そう感じたのは、あの頃持ち合わせていた無垢さの影響だろうか。音楽を純粋に楽しんでいた頃の自分とは異なり、今の自分はこの木製のがらんどうな楽器の中に、意味とか、目的とか、見栄とか、羞恥心とか、そんな感じのどうでもいいものを無造作に詰め込んでしまっている。
変わっていくのだろう。
自分の感情も、自分の色も。
しかし、あの海で流星のように降ってきた『この歌』のメロディーを口ずさむ時だけは、いつだってこの感情が湧き上がり、自分の心をこの色に染めてくれる。
なぜだかわからないけど、そんな確信めいたものがある。
同じような住宅が建ち並ぶ中、一際白く見える2階建の家のインターホンを鳴らした。程なくして玄関ドアが開き、眼鏡をかけた小柄な女性が顔を出す。
女性の頬はあの海辺の夜より少しだけ丸みを帯び、透き通るような白い肌に赤い毛細血管が浮き出ているような気がした。化粧っ気がないのはいつものことだが、髪はショートに切り揃えられていて、垂れたサイドの髪がやわらかな頬を隠していた。
いつものダイニングテーブルに腰掛け、やや緊張した面持ちで、青年はギターを鳴らした。エレキギターよりもやや硬めのスチール弦が、左手の指に食い込む。
バレーコードでところどころ音が途切れる度に、自身の衰えとブランクを感じながら、青年は自作の歌を唄う。
それは愛を歌った歌。
そして、透明だった自分に色を与えてくれた恩人に向けての、言葉に言い表せない感謝を歌った歌。
その歌を聴く女性の目に、カーテンの隙間から差し込む昼下がりの日が反射する。細やかなまつ毛が柔らかく横たわり、瞼を黒く縁取る。
歌い終えた青年は強張った左肩を右手で揉みながら、恥ずかしそうに笑う。
その笑い顔を見た女性も、少しうつむき加減で笑顔を返す。
「どうでした?」
膨らんだホウセンカの種に指先で触れるように、青年が問う。
女性は顔を上げて、唇を固く結んだ。
時間が止まったように感じた。
時計の音と、冷蔵庫のコンプレッサー音、そして廊下を挟んだバスルームで乾燥機が回る音、ただそれだけ。
そこに、学校帰りの子供の甲高い笑い声が、無遠慮に割り込んできた。
女性の唇は綻び、時は再び動き出す。
「すごく、いいと思う。踏みとどまった甲斐があった」
笑顔なのか泣き顔なのか、よくわからない表情で女性は言った。青年は吐く事を忘れていた息を、長くゆっくりと吐き出す。
「でも、サビで出てきた文章表現は、ちょっと分かりずらいかもね。改善の余地がある」
予想していなかった添削に、青年は面食らう。
それならば――新たに作り直した曲を提げて、再びこの家を訪れてやろう。
苦笑いの裏でそう決心する。
彼女のお眼鏡に叶うように、何度でも、何度でも。
* * *
ある日に立ち寄った書店で、青年は文庫本を手に取り、裏面のあらすじと1ページ目の文章を軽く眺める。
最近は小説を読む習慣がついた。
数多の作家が表現する自分の『色』を感じ、その世界に浸る事で、自分の中にある透明ではない部分を新たに発見できるような気がしたからだ。
例えば、自分で小説を書いてみるのもいいかもしれない。
たとえそれが誰にも読まれなかったとしても、透明ではない自分がここにいた証を、様々な形でこの世に残しておく。それは実は息をする事にも等しいくらい、とても大事な生命活動なのかもしれない。
思い馳せながら書店内をふらふらと歩いていると、一人の女性が新刊コーナーに置かれたハードカバーの本を眺めているのが目に入った。少女と呼ぶには成熟しているが、横顔にはまだ幼さも残る女性だった。
子供用の絵本を抱えた女の子が一人、本を片手に思案するその女性へと駆け寄る。唇を尖らせて絵本をねだる女の子に、女性は根負けしたのか、困った笑顔で頷いた。
女性は左手に持っていたハードカバーに視線を戻すと、本棚に戻す事なく絵本と重ねた。やがて温厚そうな男性が女性の隣に並び、彼女が持つ本を受け取る。
そして3人はレジへと向かった。
『さよなら私の思い出たち』
著者:宮内アヤカ
その物語は、あまりにも個人的な感情の集合体かもしれない。多くの人は目を瞑り、多くの人は顔を背けるかもしれない。
しかし、それを読んだあなたの心には、きっと激しく鮮やかな火花が、紋様のように刻みつけられるはずだ。
青年――藤巻健吾は、手を繋ぎ書店を出ていく家族を、慈しむような気持ちで眺めていた。
【了】