二つの影
旅先の砂浜で花火をした記憶。
地面に立てた小さな蝋燭の火に手持ち花火の先端を近付けると、軽快な音と共に火花が飛び散った。
隣に立つ娘の驚いた顔が、白い光に照らされる。
沈む夕日がそうであるように、黄色へ、赤へと色を変える火。それを真剣に見つめる娘の顔もまた、同じ色に染まる。
私もやりたい!
そう言って頬を膨らませる娘の手に、手持ち花火の一本を握らせた。やりたいと言ってはみたものの、本心は不安でいっぱいらしく、その表情は硬く強張っている。
大丈夫、お母さんがついてるから。
私は娘の顔の高さまでしゃがみ、大きく頷いて見せた。それでも娘は緊張した表情を崩さず、蝋燭の上で揺れる炎を眺めている。
私は自分の手持ち花火に火をつけた。
先ほどとは少し違った色と形の火花が、手持ち花火の先端から迸る。
数秒で消えてしまう、短い命の輝き。
その輝きの終わりには、いつも一抹の寂しさが吹き込んでくる。それをわかっていながらも、私たちはなぜか、こうも輝きに魅入られてしまう。
私は手持ち花火の先端を、娘が持つ花火へと近づけた。
激しく飛び散る火花が、娘の震える小さな手を照らす。
やがて私の持つ火花は、娘の持つもう一本に、熱を光を伝播させた。
強張っていた娘の口元が、まるで熱で溶かされたマシュマロのように、ゆっくりとほころんでいく。
私の笑顔が娘へと伝播していく。
夏の夜風は涼しく、潮と火薬と、少しだけやわらかな汗の匂いを含んでいた。
そんな、旅先の夜。
* * *
泥棒の藤巻健吾と、官能小説家の宮内アヤカは、昼間の熱を逃してしまった冷たい砂浜に座り込み、線香花火から飛び散る火花のような、とりとめのない会話を続けた。
暗い海を眺めながら、宮内はぽつりぽつりと家族との思い出を語る。心の底から溢れ滴り落ちる思い出を、言葉という絵筆に染み込ませ、白い砂浜に絵画を描くように。
隣に座った藤巻は、無言で、時々小さく頷きながら、彼女の描く思い出の絵画を眺めていた。
静寂で塗り固められた家をあとにした宮内は、宛てもなく彷徨い歩いた挙句、導かれるようこの海へと辿り着く。
夜風に晒され続けた彼女の身体が、蝋で出来た人形のように冷たく強張っているであろう事は想像に容易い。
しかし藤巻は宮内の手を握る事も、ましてや優しく肩を抱く事もせずに、ただ一心に彼女の声を受け止め続けた。
虚空に投げられた言葉は、受けるものがなければそのまま消えてしまう。だから藤巻は、ただ彼女の思い出の受け手に徹した。
彼女が笑えば笑い、彼女が物憂げな表情を見せれば同じように眉根を寄せる。
今の自分にできる最大限の優しさは、彼女の語るこの思い出の話を心に刻み込み、忘れない事なのだと思った。
それが正しいのか、間違いなのか、もしくは自分の意気地のなさが産み出した単なる言い訳なのか、疲れ果てた藤巻にはもはやわからなかた。
申し訳程度に、羽織っていた薄手のコートを宮内の肩に被せる。小柄な背丈の彼女に、男物のコートは不釣り合いに大きく、毛布のように全身を包み込んでしまった。
宮内は「ちょっとあったかい」と呟いたあとに「タバコくさい」と言って笑った。
やがて空が白み始める。
西の海は、背後から照らされる朝日を受けて、その白波を際立たせた。生きとし生きるものの体内を流れる血の管のように、絡み合った波と波は複雑な模様を生んでいる。
話し疲れた宮内は、無言でその波を眺めていた。
そして、深い眠りから醒めようとする、青く巨大な古の生き物の吐息を確かめるように、止まらない波音に耳を澄ませる。
手招きをするような、寄せる波の音。
手を振るような、引く波の音。
「なんか」
「はい」
「よく、私が死に場所を探してるって、わかったね」
「忍び込んだので、家に」
「私の家?」
「はい」
「ほんと、よくやるよ」
「隣の家の人に見つかりました」
「あらら」
「帰ったら、大事になってるかもしてませんよ」
「勘弁してよ」
「あれ、使ってくれてたんですね」
「あれって?」
「栞」
「ああ、あれはなかなか実用的なプレゼントだった」
「そうですか」
「君は泥棒よりサンタが向いてるかもしれない」
「サンタ?」
「同じように、家に忍び込むなら、ね」
「なるほど、考えときます」
「年に一度しか忍び込めないけど」
「それはちょっと物足りないですね」
「私の家にも、忍び込めない」
「なんでですか?」
「あの家にはいい子がいない」
「そうですか?」
「仕事をほったらかして、海岸で座り込んでる悪い女しかいない」
「俺は悪い子専門のサンタなんです」
「規則違反でクビになるかもね」
「そしたらまた、泥棒に戻ります」
「それはダメだよ。君は泥棒には向いてない」
「……でしょうね」
そう言って、藤巻は大きく息を吐いた。
それに呼応するように隣に座る宮内も息を吐き、空を見上げる。顎から首元にかけての曲線が、白い三日月のように艶かしく、そこに手を伸ばし触れたいという欲求が、藤巻の中で膨れ上がり、小さく軋む。
戸惑う藤巻は、逃げるように宮内の横顔へと視線を移す。
藤巻が宮内を見つめる中、彼女の目は今もなお、過去の思い出を見つめている。
確かに、自分は泥棒に向いていない。
結局自分は、本当に欲しかったものを盗み出す事が出来ていない。
藤巻は諦めと共に俯く。
しかしそれが、どんな価値ある宝石よりも気高く尊い物だという事を、藤巻は知った。
価値のない物を盗むことが信条の藤巻にとって、それは最初から盗む事の許されない代物だったと気付いた。
少なくとも、今はまだ。
「藤巻くん」
「……はい」
藤巻は顔を上げる。
「来てくれて、ありがとう」
そう言った彼女の目は『思い出』から『藤巻』に、『過去』から『現在』に向いていた。
「いえ……」
言葉もなかった。
彼女の心から一言を盗み出せただけで、今の藤巻は満足だった。
やがて朝日が、座り込む2人を照らす。
それは白い砂浜に長く濃い影を生んだ。
次回完結の予定です。