君の曲
夜の高速道路は、魔女の住む森のように重たい闇で満たされている。
対向車の放つ彗星のような光は、一瞬で後方へと流れ去ってしまうが、遠くの空に見える小さな星の光は、どれだけ走ろうとも近付く事はない。
宮内アヤカの書いた小説の女も、同じような星を見上げていたのだろうか。宮内もまたあの一文をしたためながら、同じような星を思い出していたのだろうか。
数週間前に宮内と走った夜道を今は一人で遡っていく。
オーディオもラジオも流れていない車内では、焦りのようなエンジンの唸りと、どうでもいいような過去の記憶が響き合っている。
* * *
「最初はね、ただ母親に読んで欲しかったんだよ」
数週間前の海からの帰路、再び訪れた無言に亀裂を穿つように、宮内アヤカは言った。
「私の母親は本の虫だったんだよね。母親の部屋の本棚にはさ、古本屋で買ってきた安い文庫本が何百冊も並んでて、私も小さい頃からそれを読んでたんだ。母子家庭だったから、学校から帰るといつも一人で暇だったんだよ。友達もさ、察しの通り少なかったしね」
ルームミラーに反射するヘッドライトが、車線を変えて追い抜いていく。赤いテールライトが、一瞬で闇の中へと飲み込まれていく。
「母親はいつも夜遅くに帰ってきて、寝室で寝たふりしてる私の頬を撫でてから、リビングで本を読むんだ。子供だったから、そりゃ話したい事もいっぱいあったけど、起きたら早く寝なさいって叱られる時間帯だったし、疲れてる母親の一人の時間を邪魔したくなかったんだよね」そう言ってから、宮内は小さく首を振った「いや、邪魔なんかじゃないって今ならわかるよ。そんな事絶対に思わないって、親になった今の私ならわかる」
ドリンクホルダーに置かれたペットボトルの紅茶を傾け、少しだけ口の中を湿らせる。
「だから私は、小説を書く事にしたんだ。嬉しい事だったり、腹が立つ事だったり、そういう宙ぶらりんな気持ちを小説の登場人物に代弁させて、母親に読んでもらおうと思ったんだ。あの頃の私は、母親にだけ伝わればそれで良かった。自分の気持ちとか、思いとか、そういうもの」
「お母さんは、読んでくれたんですか?」
「読んでくれたよ。そしていつも感想を書いてくれた。めちゃくちゃ雑で、目も当てられない文章だったのにね」
屋外照明のオレンジ色の光が宮内の頬を照らす。鼓動のような明滅が彼女の顔をモノクロームに浮かび上がらせる。横目で眺めたそれは、まるで哀愁を模った絵画のように見えた。
「でもさ、大人になって、自分は変わったのかもしれない。汚くて、嫌らしくなった。母親に読んでもらえればそれで満足だったはずなのに、今の私はより多くを求めてる」
そして自嘲気味に笑う。
「でも仕事なら、それは当然じゃないですか? 多くの人に読まれる作品を書く事が、作家の本懐じゃないですか」
藤巻は法定速度以下のスピードで走るミニバンのリアガラスを眺めた。誰もが知っている名作アニメ映画が、車内のモニターに映し出されている。
「収入のため、それもあるよ。でもそれだけじゃない。私は恐れてるのかもしれないね。読まれなければ、その作品に込められた想いも透明になってしまうんじゃないかって……」
藤巻は無言でウインカーを出し、ゆっくりと走るそのミニバンを追い抜いた。名作アニメの有名シーンが、今まさに流れるところだった。迷子になった妹を探す女の子の前に、おかしな姿の森の妖精が現れる。このシーンを観た子供達の胸に湧き起こる感動やカタルシスは、きっと親から子へと引き継がれ、いつまでも色づき続けるだろう。
「私は、私の愛したものが、この世界から忘れ去られちゃうのが怖いんだよ」
「俺はきっと、忘れないです」
それは白い嘘だろうか。
いや、少なくとも今、藤巻のなかにはそう言い切れるほどの確信めいたものがあった。
宮内から迸っていた透明な火花は、藤巻に飛び火し、燃え広がっていく。
「君が永久に生き続けるなら、それもありだね」
そう言って宮内は笑った。
楽しくも、寂しそうな笑い声だった。
「ある日娘が、私のためにお話を作ってくれたんだ。いつも頑張ってるお母さんを元気づけたいって。私は締め切り前で忙しかったから、後で聞かせてね、って言ったんだ」
「それは、どんなお話だったんですか……?」
「ううん、聞けてないんだ」宮内は忘れかけていた詩を朗読するように、一言一言を噛み締めながら紡ぐ。「その物語は結局私に届かないまま、透明になっちゃった。なんであの時、すぐにでも聞いてあげなかったんだろう。そんな事を、今私はひどく後悔してるよ」
* * *
対向車線の放つ光が、暗闇を白く染める。
それは暗い未来を穿つ一筋の光明のようにも見えた。
藤巻はアクセルを踏み込み、ギリギリの速度で料金所のETCレーンを抜ける。
深夜の田舎道は車通りが少なく、街灯と信号機だけが、この世とあの世を繋ぎ止めるボタンのように、地上と空の境界で輝いていた。
少しだけ開けた窓から流れ込こむ風には、潮の香りが含まれている。
藤巻はあの海での出来事を思い出した。
天界のように真っ白な砂浜と、そこに佇む宮内アヤカの姿が脳裏を掠めた。
ハンドルは自然とあの砂浜へと向かう。
宮内が最後に燃やした、あの写真の場所。
灰皿の上で燃え尽きていく写真を眺めながら、悲痛な表情で『ありがとう、これでまた、失える』と呟いた彼女は、全てを失い透明になりそうな自分を、色のある世界へと必死に繋ぎ止めていたのだろう。
今度は自分の番だと、藤巻は呟く。
宮内によって色を――想いを取り戻した自分が、今度は彼女に、新たな色を与えなければならない。
薄れゆく彼女の心を、再びこの世界に繋ぎ止めておくために――
海岸沿いの路肩に車を停める。
真っ暗な海に人の気配はなく、夜空と海が境なく交わり合っている。波が来るものを拒むように威嚇的な音を鳴らし、向かい風が砂塵と枯れ草を舞い上がらせた。
藤巻は無言で砂浜に踏み出す。
沈み込む砂に足を取られそうになりながら、藤巻は祈るような気持ちで砂浜を歩いた。
直感に導かれてやって来たこの砂浜に彼女がいる確率など、冷静に考えれば極めて低い。馬鹿らしい、狂人の所業だと藤巻は自嘲する。
しかし、この場所を『命を失ったものが辿り着く世界』と感じたあの日の空気を、彼女も共有しているのだとしたら、きっと彼女はここを目指すだろう。
雲に隠れた薄い月は、白い砂に夜を纏わせる。
藤巻は奥歯を噛み締め、顎を引き、彼女の名前を呟いた。呻きのような小さな声は、波音によって雑に濁される。
不意に、砂浜が白く光り始めた。
藤巻は顔をあげ、雲の切れ間から月が顔を出している事に気が付いた。
白く、妖艶な月。
月から再び視線を砂浜に移す。
砂浜の隅、大きな岩の足元にうずくまる、黒い影が見えた。
驚きはなかった。
ただ願いが確信に変わっただけだ。
潮目が変わったのか、先程まで排他的に響いていた波音が、全てを受け入れるような優しい音色に変わっていた。
藤巻はゆっくりとその塊に近づく。
「宮内さん」
その声は静かな波音に邪魔されることなく、目の前にうずくまった痩せっぽちで小さく、そして透明になりつつある女の耳へと届く。
「……よかった」
藤巻はそう言って、彼女の隣に座り込んだ。両足の力が抜け、尻が砂浜に沈み込み、しばらくは立ち上がれそうにない。
「本当は二人のところに行こうと思ったの。でもさ、出来なかった」
両足の間に顔を埋めた宮内が呟く。
「未練なんて何もないって、そう思ってたはずなのに、思い出しちゃったんだよ」
宮内は顔を上げた。
その顔は、薄暗い部屋で魂を燃やしながら作品を書いていた彼女よりも、かなり幼く見えた。
「君の曲、まだ聴いてないって……」
宮内アヤカの声は凪いだ波音に似ていた。
あの日、この場所で、藤巻が放った透明な火花は、宮内の心にほんの微かな火種を生んでいた。