あとがき、という名の
最後の音が小さなライブハウスの喧騒に掻き消えた時、藤巻健吾は藤巻健吾である事を終えた。
激情に任せて叫び狂った、愛や友情、日々の鬱憤や将来への不安は、音楽という暴風を伴いながら様々な色形の木の葉を散らした。
あの頃の藤巻にとって、世界とは自分の両手が届く程度ーー大学の音楽サークルで貸し切ったこじんまりとしたライブハウスよりも、ずっとずっと狭い範囲でしかなかった。
それは自分の感情で、自分の色で、いくらでも塗り替えていけるものだった。
大学を卒業し、しがないサラリーマンとなり、世界は変わった。相変わらず狭くて見通しが悪かったが、その色は複雑に混ざり合い、黒く濁り始めた。藤巻がどんな色を散らそうとも、その濁りはより混沌を極め、より深い黒に染まっていく。
そこに、藤巻健吾が、藤巻健吾でいられる場所はなかった。ありのままの藤巻は濁った色で汚されていった。
あの日、こじんまりとしたライブハウスで叫んだ歌を、藤巻はもう忘れてしまった。もう二度と、同じ歌を唄う事はできないだろう。
だから藤巻は、新たな歌を口遊む。
それはあの夜、あのベランダからこの家に忍び込んだ日から、常に頭の中で流れている歌だ。
* * *
傾きかけた日が樹皮を黒く染めていた。
ベランダのある側は日陰となっていて、水で薄めたような夜が波打っている。日向よりはいくらか目立ち難いだろう、忍び込むにはおあつらえ向きなシチュエーションだった。
太い木の枝に手をかけて、ザラつく樹皮を蹴り上げる。太い枝を辿るようにしながら、藤巻は少しずつ目的のベランダへと近づいていった。
頭の中では新しくも懐かしい歌が流れている。
皆まで語るのも恥ずかしい、愛を唄った歌だ。
木が軋む音が響いた。
動きを止めると、慎重にあたりを見渡す。隣接する民家の庭に人影がない事を確認すると、手を伸ばしてベランダの柵を掴み、勢いでベランダへと飛び移った。
あの夜のような、落ち葉の音はなかった。あれから宮内が片付けたのかもしれない。
この場所は藤巻にとって玄関のようなものだ。泥棒の来訪に備え、家の玄関をきれいに保つような感覚でベランダの落ち葉を綺麗に掃き取る宮内アヤカーーそんな荒唐無稽な発想が、不安で凍えていた藤巻の胸を一瞬だけ温めた。
思い出に浸りながらベランダの手摺りに寄りかかり、隣家の窓を見る。
そして、女と目が合った。
知らない女がじっと、こちらを見ていた。
藤巻はその信じられない光景に唖然としながら、目を逸らすのも忘れてその太り気味の女の目をじっと見つめた。
女の顔が恐怖に歪んでいく。
見られた?
自分が透明だと信じて疑わなかった藤巻は、その女の視線の意味を理解できなかった。しかし顔を引き攣らせた女がスマホを耳に当てるのを見て、藤巻は事態の重大さに気付く。
隣の家に忍び込む男を目撃した善良な市民が、どのような行動を取るのかは想像に容易い。
背骨のあたりが冷たく軋む。
鍵の閉まっていない窓を開けると、藤巻は転がるように宮内の書斎へと潜り込んだ。
何故見つかったんだ?
そんな問いを心の中で繰り返す。
自分は透明な泥棒だ。今までだって見つかることはなかった。そこにいるようでいて、いない存在。世界のなんの影響も与えない、空気のような存在。それが自分なのだと理解していた。
しかし、その認識は間違っていたのかもしれない。
透明だった自分は、一色の感情で塗り替えられてしまったのかもしれない。
色に染まったこの心は、透明ではなかった。
そして、もはや一刻の猶予もないことを悟る。
書斎は古本の放つ甘ったるい匂いの中に、宮内アヤカの放つ柔軟剤のような匂いが含まれていた。空気は物音一つない停滞した時間の中で凝りのように固まっている。
この場所に宮内がいない事を確認した藤巻は、早足で書斎を抜けると、向かい側のドアを開けた。
そこは寝室だった。
薄く開いたカーテンから西日が差し込み、白いシーツの上で波打っている。枕元には綺麗に畳まれたパジャマが置かれていた。
藤巻は踵を返し、階段を駆け下りる。
リビング、キッチン、浴室、手洗い、小さな声で宮内の名を呼びながらドアを開けるが、目当ての人物の姿はどこにもなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、藤巻はダイニングに立ち尽くす。
藤巻が足を止めると、全ての音が止み、家は静寂の膜に包まれる。まるで家自体が、安寧な死を迎えたかのように。
綺麗に並べてしまわれたコーヒーカップ、汚れ物一つない洗濯機、何も置かれていないダイニングテーブル、それら一つ一つが、主人の永久的な不在を告げている。
この家の持ち主はもう二度と戻る事はない、藤巻は表情を歪めながらも、そう理解するしかなかった。
焦る気持ちを抑えながら、何か手掛かりを探した。彼女の向かった場所、もしくは彼女の無事を知らせるもの、どんな情報でも構わない。このままこの家を離れてしまえば、もう二度と戻る事はできないだろうから。
隣の女は警察に通報したのだろうか。
通報を受けてから、彼らはどのくらいでこの家までやってくるのだろうか。
いずれにせよ腰を据えて何かを探す時間は残されていない。見慣れたダイニングの壁にかけられた時計を見ると、脅迫めいた音を響かせながら、秒針が少しずつ数字を登っていく。
藤巻は階段を駆け上がり、再び書斎へと戻った。
たくさんの本、たくさんの人々の心が押し込まれた、古い本棚。その一つ一つを手にとって、彼女の居場所を問いただす時間などあるはずもない。
日はものすごい速さで落ちていく。
開け放ったドアの向こう、寝室の窓から差し込む細い光が、廊下を超えて書斎へと差し込んでくる。
そして、何かが小さく輝いた。
それは星の瞬きのようでもあり、命の煌めきのようでもあった。
視界の隅でその光を捉えた藤巻は無意識にその場所を見る。作業机の上に積み重なった書類の山、その隙間から顔を出すように、小さな栞が見えていた。
藤巻がプレゼントした、月の模様があしらわれた栞だった。
ビーズの装飾部分が差し込む光を受けて輝いている。
導かれるように、藤巻はその栞が挟まれた書類を手に取る。左肩をホッチキスで止めたA4のコピー用紙は、赤いペンでいくつもの修正がされていた。
『あとがき』
そう記された原稿の冒頭数行を、藤巻は目でなぞる。それが宮内アヤカが書いた文章である事はすぐにわかった。
藤巻は大きく息を吐く。
原稿を持つ指が震えた。口の中が乾いて、呼吸をする度に胸の奥の概念的な何かが空気に溶け出していくような、異様な脱力感に襲われた。
しゃがみ込みそうになる両足を、理性で奮い立たせる。
事態は一刻を争う。
原稿を丸めて後ろのポケットにしまうと、藤巻はベランダから家を出る。隣室から女性の視線が注がれている気がしたが、それを意識する余裕など藤巻にはなかった。
『あとがき』と記された文章、その文面が粉々に砕けて、頭の中を飛び回っている。
「これは『遺書』じゃないか……」
走りながら藤巻はそう呟く。
怒りと、失望と、恐怖に染まったその言葉は、自分の声とは程遠い、暗く重たい地鳴りのように響いた。
昨今取り沙汰されたニュースの事を考えると、今このタイミングでこの展開を書くべきか迷いましたが……、自分の小説の影響力など微々たるものですし、今この勢いで書いていかないと書けなくなりそうな感覚があったので、先に進める事にしました。
悲しい出来事を連想し、気分を害された方がいらっしゃいましたら、申し訳ございません。




