表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/15

ドアは重く閉ざされる

 2人の姿が夕日に溶けていく夢を見た。


 宮内みやうちアヤカはベッドから起き上がり、カーテンの隙間から外を見た。隣家の白い外壁を、昼前の強い日差しが照らしていた。暗闇に慣れた目へと無遠慮に流れ込む光の洪水に、宮内は目を細め、再びカーテンを閉める。


 階段を下り、キッチンのケトルに水を注いでスイッチを入れた。半ば投げやりに顔を洗い、腹の中の悪態を吐露するように泡立つ歯磨き粉をシンクへと吐き出す。洗面台の鏡に写った自分の姿は、悪夢の続きのように酷くやつれて見えた。唇の端から垂れた唾液の糸をパジャマの袖で乱暴に拭い、キッチンへと戻る。そして、熱湯を湛えたケトルから粉末コーヒーの入ったカップにお湯を注ぎ、ダイニングの椅子へと倒れ込むように座った。


 昨晩送った修正済みの『あとがき』に、彼らがどのような反応を示すかはわからないし、今更興味はなかった。

 そこは、今までも様々な場面で付き合いのあった出版社だから、どのような観点で作品を捉えているのかはおおよそ察しがつく。それは時に、作家にとっての矜持をすり減らすような、有り体に言えば商業主義に傾斜したものだった。

 金になるものは売るし、金にならなければ切り捨てられる。倫理も仁義もないシビアな取引相手だが、今回ばかりはその単純明快さがありがたかった。


 いずれにせよ、概ねの仕事はやり終えた。


 外は春の陽気で満たされているが、光を遮ったこの家は薄暗く、薄寒い。無色透明な冬を引きずるような寂寞とした部屋の中で、コーヒーの熱はあっという間に冷めていく。

 溜め息をひとつ吐くたび、コーヒーの湯気のようにゆっくりと、自分の中の熱が薄れていく。


 2人の姿が夕日に溶けていく夢を見た。


 昨晩見た夢の事を思い、冷めたコーヒーで唇を湿らせる。何の気無しにカレンダーを眺め、今日が金曜日だという事を思い出した。

 この週末に、また彼はやってくるのだろうか。

 締め切られたこの家に忍び込み、思い出の最後に一欠片を手渡してくれた、透明な泥棒の青年。

 そんな彼の事を考えるたび、宮内は熱を失いかけた心に火花が飛び散るのを感じた。それは失われていく青白い火とは違った、鮮烈な赤い火だった。


 しかし宮内は、その火種を靴底で擦り消す。


 コーヒーを飲み干すと、宮内はゆっくりと立ち上がり、パジャマから外行の服へと着替えてた。脱いだパジャマは丁寧に畳んで、枕元に置く。

 眼鏡を外すと洗顔フォームでしっかりと顔を洗い、寝癖の立った髪をヘアウォーターで整える。化粧をしようとして、その手を止めた。

 あれは幼稚園の参観日。慣れないメイクとコンタクトをして赴いた宮内だったが、当の娘は普段とは違う様相の母に気付かず、ずっと寂しそうに周りを見回していた。

 今となっては、悲しいほどに微笑ましい思い出だ。青白い火が宮内の心を焚き付ける。

 娘にとっての母の姿は、きっと何も着飾らない普段の姿なのだろう。宮内は手に持っていた化粧下地を棚に戻す。もし娘に母と気付いてもらえなければ、やっぱり寂しいから。


 玄関のドアがいつもよりも重たい音を立てて閉まる。


 外は春だった。

 どこからか流れてきた桃色の春の欠片が、宮内の足元に落ちて、転がった。



   *   *   *



 藤巻ふじまき健吾けんごはもはや歩き慣れつつある住宅街の坂を登っていた。

 昨日は春らしいうららかな日が差していたものの、今日は冬の終わりに逆戻りしたような肌寒い空気が、建売住宅の寒色の外壁に貼り付いている。スニーカーの靴底でアスファルトを擦るたび、閑静な住宅街に場違いなノイズが響く。


 曲が完成した。

 その実感は、不可思議な感覚を伴いながら、藤巻の中でゆっくりと花開いていった。


 最後のフレーズは、夕暮れに染まる駐車場で閃いた。


 会社の帰りに立ち寄った行きつけのスーパーの駐車場。

 フロントガラス越しに見えるのは、夕食の支度を急ぐ早足の主婦や、ビールと弁当をレジ袋に突っ込んだサラリーマン、自販機で買った炭酸飲料を飲む部活帰りの少年達や、シルバーカーを押す老人。

 夕日は前に停まった車のサイドミラーに反射し、藤巻の視界の隅でチラチラと燃えている。鮮やかな閃光のようなそれを眺めていると、その感情は火種から燃え広がるように、藤巻の心を赤く染めていった。


 灰皿の中で燃ていく写真を映す瞳。

 小説の文章に刻み込まれた心。

 指先で触れた肌の温かさ。

 そして、夕日が沈む海を眺める後ろ姿。

 

 曲の最後のフレーズは、夕日が沈んで星が輝き、それが流れ星となり海へと降り注ぐように、微かな輝きを纏って藤巻の心に落ちてきた。

 それはとても意外な言葉だったが、彼女の家に忍び込んだあの夜からそこにあった、慣れ親しんだ言葉のような気もした。

 

 そして藤巻は、この曲が愛を歌った曲なのだと気付いた。


 坂を上る。

 宮内の家はすぐそこだ。

 生まれたばかりのこの曲を、どうやって彼女に伝えるか、答えはまだ決まっていない。ただ藤巻はどうしても宮内に会いたかった。会ってこの曲に込めた感情を伝えたかった。

 透明だった藤巻の心は、宮内の色で染まっていた。


 坂の左手に宮内の家が見える。

 

 しかし、その家の前に男が1人立っていた。


 くたびれたスーツを着た若い男は、革靴の先で苛立たしげにアスファルトを叩くと、ポケットからスマートフォンを取り出して操作する。

 藤巻は訝しみながら男の後ろを通り過ぎ、少し先の電信柱のところで止まった。スマートフォンを取り出して、地図アプリを眺めるフリをしながら、背後の男の電話に耳を澄ませる。


「……やっぱり、宮内センセイ留守みたいで……」


 途切れ途切れの男の声は、宮内の不在を語っていた。


「……ほんと、困った人ですよ…あ、はい、はい……あー、警察とかに相談した方が……? はい、まぁ、そうですね……面倒に巻き込まれるのもごめんですし、はい、今から戻ります……」


 男は電話を切ると、宮内宅の2階を睨め付けてから、坂を下っていった。会話から察するに、男は宮内の仕事相手のように見えた。おそらく出版社の社員か、同業者。藤巻は無意味にスマホに向けていた視線を上げると、男が睨め付けていった宮内宅の2階を見上げる。


『警察とかに相談した方がーー』


 男の言葉が不吉な予言のように響く。

 

 藤巻は早足で宮内宅の前に立った。辺りを伺い、門柱の表札に別の苗字が書かれている事に気付く。『宮内』というのは、やはり彼女のペンネームなのだろう。ならば彼女を宮内と呼ぶあの男は、出版関係の人物でほぼ間違いない。


 インターホンを押す。

 いつもならば、数分後にドアがゆっくり開き、困った顔の宮内が顔を出すはずだった。


 しかし、ドアは開かない。


 藤巻は3回続けてインターホンを押し、マイクに向かって自分の名を告げる。


「あの、藤巻です」


 その声は誰にも届かない。低い塀の中に迷い込んだ冷たい風によって、いとも容易くかき消される。寒さを感じるはずなのに、藤巻の後頭部からは汗が滲み出た。それでいて唇は小刻みに震え、指先は凍り付きそうな程に冷たい。

 

 買い物に出ただけかもしれない。

 気晴らしに散歩に行っているのかもしれない。

 そんな藤巻の楽観を吹き消すように、再び冬の名残風が強く吹き付けた。


 最悪な想像が、頭蓋をぶち破るほどに膨れ上がっていく。


 藤巻は家の裏手に回り込んだ。隣の家との境界にそびえる樹木の先には、あの夜に忍び込んだベランダがある。しかし宵闇に紛れなければ、この場所は隣の家からは丸見えだ。

 日が高いうちの泥棒行為の実績は少ない。少ないが、今まで一度だって見つかった事はない。

 躊躇を焦りの感情が凌駕していく。

 

 再び、この家に忍び込もうと思った。


 大丈夫、自分は透明な泥棒だ。誰にも見えないし、誰も自分を見つけられない。自分が自分であり続ける限り、どうせそれは変わらない。

 藤巻はそう、自分に言い聞かせた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] タイトルの「透明な火花」がジワジワと心に沁みて来ました。 藤巻の火花が、宮内の心を再び燃やして、色付けばいい……。 宮内は敢えて藤巻の曲を聴かずに去ったのだろうか。 聞いてしまえば足が止ま…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ