文庫本に挟まれた1枚の写真
2015年に初めて書いた長編小説を、改稿しながら掲載していきます。もしかしたら、後半の展開をガラッと変えるかも?
自分に様々な教訓を与えた失敗作ですが、とても大事な作品でもあります。
アパートの一室は海底のように澱んだ雰囲気で満たされている。長い溜息によって舞い上がった諸々の思考の死骸は、頭蓋骨という殻に篭った灰褐色の軟体生物の思考力を更に濁らせる。
藤巻健吾は悩んでいた。
手のひらには文庫本。古本チェーン店の110円の値札が貼られた流行作家の文庫本はそれ自体に大した価値はないだろう。大量生産し大量消費されるハンバーガーや缶コーヒーと同じ様なものだ。
ただし文庫本の中に栞代わりといった様子で挟まれた一枚の写真、その価値を藤巻は推し量れずにいた。
若い男女が海岸の波打ち際に立ち、男の腕には小さな女の子が抱きかかえられている。
男女は満面の笑顔を浮かべカメラを見ているが、女の子は別のものに興味があるのか明後日の方向を指差している――そんな幸せな家族旅行の一瞬が切り抜かれた写真だ。
その写真の価値を第三者である藤巻が推し量る事は不可能だ。他人にとっては紙切れでも、本人にとっては紙幣以上の価値を持つものだって存在する。その不確定さが重石となり、彼を悩みという深海へ沈みこませていた。
価値のないものを盗む――それは藤巻が盗みに入るときに第一に掲げている信条だ。
そもそも藤巻にとって盗みは単なるストレスの解消法でしかない。
高価なダイヤを盗み高級車を乗り回す欲もなければ、悪人から盗んだ物を弱者に分け与えるような正義感もない。
単なる窃盗行為に貴賎があるとは言えないが、あえて言うならば刹那的な気分の高揚感を得るためドラックストアで歯ブラシやスナック菓子をバックに詰めるような、程度の低い行為に近い。
結果や報酬ではなく、盗みと言う行為自体が目的に摩り替わっている。
だからこそ、無用な罪悪感に苦しまないためにも、盗む対象は価値のないものにする事を徹底していた。
何も書かれていないメモ帳や、机の上に放置されたスナック菓子の袋、冷蔵庫に張られた磁石、100円均一で売っているようなスプーン、ベッドの下に落下した雑誌、などなど。
今回は古本チェーン店に110円で並んでいる一昔前に流行った作家の文庫本を、価値のないものと判断し盗んできた。
しかしその中から価値の不明な一枚の写真が出てきた事が問題だった。この写真が持ち主にとって何ものにも代えがたい価値のある品だった場合、藤巻の信条は粉々に崩れ落ちてしまうだろう。
悩んだ挙句、藤巻は部屋を出た。
昼間の暖かさは夜風に押し流され、建物の隙間や河原の茂みの中に隠れていた冬の残党が、死期の近い草食動物のように覚束ない足取りでさまよい歩いている。
二つの季節が入り混じったなまぬるくも静謐な空気を吸い込むと、思考を混濁させていた死骸たちも少しずつ夜風に洗われていくような気がした。
時刻は深夜2時を回っていた。
昨夜あの家に忍び込んだのも同じような時間帯だった。日中の真っ当な仕事の事を考えると2日連続の深夜営業は遠慮したいところなのだが、気持ちの整理がつかない今の状態では満足な睡眠をとる事すら出来ないだろう。同じ睡眠不足に陥るのなら心のつかえだけでも外しておきたい。
写真を返しに行こう。
それが、悩んだ挙句に藤巻が出したあまりにも馬鹿らしい結論だった。
50万円で買った中古の軽自動車が梱包用エアーキャップを捻り潰すような軽々しいエンジン音を響かせ、死んだように車通りの途絶えた国道を走り抜けていく。
昼間は一面に広がる田園風景が心を和ませてくれるが、夜は何もない宇宙に放り出されてしまったような孤独感がある。路肩に植えられた黄色いチューリップがヘッドライトに照らされ、まるで彗星のように光りながら後方へと流れていった。
目的の住宅街は小高い丘にあった。
丘の麓で恒星のように光を放っているコンビニの駐車場の端に車を停めると、店員へ駐車料金代わりに購入したピースのスーパーライトを口にくわえて火をつけた。
暗闇の中で互いに溶け合い巨大な建造物のように変貌した住宅街の一画を見上げながら、藤巻は現実感が徐々に薄れていく感覚に酔いしれた。鼻先の赤い火だけが唯一残った現実、その現実の残り火に藤巻は意識を集中させた。
タバコの火をもみ消した時、藤巻は深夜営業のモードに切り替わっていた。
コンビニの駐車場に車を置いたまま藤巻は丘を登り始めた。
昨夜忍び込んだ家は丘の中腹、背後を林に囲まれた住宅街の外れにある。太い木の枝がうまい具合に2階ベランダ付近まで伸びていて、そのうえ昨晩はベランダ窓の鍵が開いていたため容易に侵入することが出来たのだった。
昨晩と同じルートを通ってベランダへと移る。ベランダに溜まった乾いた落ち葉が藤巻の侵入を警戒するかのようにカサカサと小さな音を立てた。サッシに手をかけて横にスライドさせると窓は抵抗なく開く。
すべては昨晩と同じだった。
藤巻は価値のあるものを盗まないが、そのため盗まれた相手も泥棒に入られたことにまったく気付かない。警戒心を持たれないのだから同様の手口で再度忍び込む事も容易だ。
部屋に入ると昨夜と同様に古い本の放つ甘ったるい匂いが充満していた。
採光のために開けたカーテンから絹糸のような月明かりが差し込み、部屋の全貌が何となく見渡せる。向かって右の壁沿いには作業机とパソコンが置かれ、向かって左の壁沿いには大きな本棚が据えられている。
本棚には多種多様なサイズの本がパズルのように隙間なく押し込まれている。文庫本に単行本に新書、色の落ちたカバーに包まれた聞いた事もない作家の小説全集などなど。
様々なジャンルの知識が無造作に収納された本棚は、持ち主の脳内を映し出す鏡のようだ。この家の主はよほど文学に造詣が深い人物なのだろう。
昨晩はこの本棚から一冊を失敬したわけだが、今回はここに写真を返しておけばよい。
藤巻は胸ポケットから写真を取り出す。
折り目がついている事に気付き、指で丹念に伸ばして形を整える。
本と本の隙間にそれを差し込もうとしたその時、部屋の奥の扉付近で蝶番がきしむ音を聞いた気がした。
藤巻は無意識に音のした方へと視線を移す。
開け放たれた扉の向こうに、人が立っていた。
「だれ?」
女性の声がそう誰何した。
藤巻は本棚に写真を差し込んだ体勢のまま、首だけ扉の方を向いた状態で硬直した。
逃げろ。
脳髄から発信された指令は脊椎に引っ掛かりうまく手足へと伝わらない。
今までの経験からくる慢心が、同じ触れ幅のまま間逆の戸惑いへと転じ、振り子の糸がまるで鎖のように藤巻の体を縛り付けていた。
夜の山道で自動車のヘッドライトに照らされたハクビシンの様にただ呆然と立ちすくむ事しか出来なかった。
「ここ、私の家なんだけど、なにしてんの?」女性の声がそう続ける「泥棒ってやつ?」
藤巻はたどたどしい口調で弁解を試みる「違うんです」言ってその先が続かない。深夜に見ず知らずの他人の家に窓から忍び込んだことに対して弁解の余地などあるはずがない。ただ何の釈明にもならない「違うんです」を繰り返す他なかった。
「違うって、何が違うのさ」女性はあきれた声を出し藤巻の方へつかつかと近づいてくる「ここは私の仕事部屋なんだけど、あんた出版社の人? 違うでしょ?」
距離が狭まったことで女性の輪郭がぼやけた破線から実線へと変わる。
短めの髪で縁取られた白い肌の上で黒目勝ちの大きな眼球が藤巻を睨み付けていた。ゆったりとしたパジャマとの対比で華奢な首筋や手足が病的なまでに弱々しく見え、まるで脆弱な草食動物のような印象を受ける。
そんな被食者然とした女性が何の武器も持たない無防備な様相で、自分より背の高い男を果敢に威嚇している様は一見して不自然な光景だろう。
「泥棒なら泥棒でいいんだけどさ。べつに盗られて困るようなものなんてないし。その本棚に並んでる本も別に高値がつくような代物じゃないよ。近所の古本屋に売りに行ったところで10円の価値もないかもよ。欲しいんならあげるからさっさとどっかに消えてよ。私、もう少し寝ていたいの」
女性は心底迷惑そうに後頭部を掻きながら藤巻の目の前に歩み寄る。
その無防備な立ち振る舞いはある意味、自暴自棄の表れであるようにも感じられた。自分に限って不運な出来事など訪れないだろうという傲慢な態度とは正反対の、不運な事態全てを飲み込んでなおどうでもいいよと鼻で笑うような、そんな自暴自棄の境地。
骨に皮を貼り付けただけの手羽先みたいな指が髪をかき乱す度に、嗅いだ事のないシャンプーが香る。
「違うんです、俺はただこれを返したくて」
藤巻はとっさに右手に持った写真を差し出す。
この写真を何処で手に入れたのか、という疑問を投げかけられればまた応えに窮してしまうのは目に見えているが、藤巻にそこまで考えるほどの精神的な余裕はなかった。
ただ事を穏便に済ませ、この場を立ち去ることだけしか頭にない。
「なにこれ、写真?」
女性は写真を手に取ると目だけを動かして写真を見る。その瞬間、ただでさえ大きな眼球が更に見開き、手にした写真を眼前に掲げると、食い入るような目で睨み付ける。
「この写真――」
そう呟き、言葉を止めた。
「すみません、拾ったんです。その写真を拾ったから、返しに来たんです。違うんです」
藤巻はしどろもどろで筋の通らない弁解を試みるが女性は何の反応も示さない。
女性の無反応を怒りによるものと判断した藤巻は無意味な弁解と謝罪を更に重ねようとして、気付いた。
女性の肩が震えている。
藤巻は弁解の言葉を止めた。泥棒と住人が無言のまま向き合っている。
月明かりが雲で隠れて視界が黒で塗り潰される。
視覚を失ったことで研ぎ澄まされた聴覚が場違いな音を捉えた。
嗚咽を押し殺すくぐもった声。
女性は泣いているようだった。
先ほどまで気丈な態度を見せていた女性の変貌に、藤巻はひどく混乱した。ただし先ほどまでの焦りに由来した混乱とは違い、現状を正確に把握できないが故の混乱だ。
今目の前で何が起こっているかはわからないが、藤巻は赤熱していた脳髄が冷静さを取り戻しつつあるのを感じた。
やがて涙で薄められるように一面の黒は徐々にその濃度を薄めていく。
ほんの十数秒間が、数十分にも引き伸ばされたような、酷く曖昧な時間が流れる。
月が完全に雲から顔を出した時、女性の目は藤巻に向けられていた。
薄闇の中では涙の跡も見えない。再び気丈に戻った女性の視線を前にし、藤巻は先ほどの変貌が幻覚であったような気さえした。
「どこで見つけたのか知らないけど、ありがとう」女性は言う。
「あの、大丈夫ですか?」藤巻は言う。
「この頃の写真、もう捨てちゃったと思っていたから」
「大事な写真なんですか」
藤巻はそう聞きながら写真の構図を思い出していた。そう、子供を抱いた若い夫婦の写真だ。写真の女性が目の前の女性なのだろうか? 確かに面影があるような気がする。
そこで当然の疑問が生じる。ならば写真の旦那と子供もこの家のどこかで寝ているのだろうか。もしそうなら彼らに見つかる事は避けねばならない。この女性は何故か大声も出さずに落ち着いているようだがが、旦那や子供がこの女性と同じ反応を示すとは言い切れない。仮に暴力を振るわれるような事があれば無事この家から逃げ出す事など出来ないだろう。
そんな不安は女性の次の言葉を聞いて砕けた。
「もう二度と撮れない写真だから」
藤巻は、先ほどの涙の訳を知った。
「二人とも死んだ。数年前に事故で」
涙の訳を知ったが、藤巻は何も言うことが出来なかった。
「この写真は、三人で海を見に行った時の写真なんだ。ドライブの帰りに立ち寄っただけなんだけど、あの子初めて見る海に夢中になっちゃって」
幸せな思い出を大事に抱きしめ、その頬にキスをするように呟く。女性の目はもはや真夜中の侵入者になど興味を示していない。ただ自分自身に語りかけるような独白だった。
藤巻はかける言葉を見つけられないまま立ち尽くしている。
「私の大切な思い出――」
女性は虚空を見つめながら笑った。
窓から覗く月のように白くのっぺりとした仮面のような笑顔だった。
藤巻は肌が粟立つのを覚えた。
正体不明の不安感が夜霧のように満ちていく。月明かりは急に態度をひるがえし、冷たく鋭い刃で藤巻を攻め立てた。
自分という異物が本来踏み込むべきではない空間へ脚を踏み入れてしまったことを自覚した。それはこの家に忍び込んだ事か、それともあの写真を女性に見せた事か。
いずれにせよ、全てはもう手遅れだった。
女性は踊るような足取りで作業机へと向かうと、引き出しから何かを取り出す。
鉱物同士が擦れ合う音とともに女性の手に炎が宿る。
「なにを――?」
口の中が乾いてうまく言葉がつなげられない。
無言のまま、女性は写真に火をつけた。
「ありがとう、これでまた、失える」
女性は言う。
泣き笑いのような女性の表情を、赤い炎が照らし出していた。