終章:「パラディーゾ -Paradiso-」
フルーエティは倒れ込むジーナの体を抱き留める。
細く頼りない、ただの人間の娘だ。涙を流しながら目を伏せていると、あの勝気な瞳が見えないせいか余計に弱々しく感じる。
こんな娘が悪魔と張り合おうというのだから、大した度胸だ。
この間にも大地に穴が空き、魔界からの風が吹きつける。
これからこの地には魔界の軍勢が押し寄せ、天界との戦を始める。人の住処は踏み荒らされるのだ。
地響きのやまない足場で、ジルドが立ち上がって手を伸ばしてきた。
だから、ジーナの体をジルドに押しつけた。ジルドは戸惑いながらも愛しい娘を腕に抱く。
「生きている……」
「殺した覚えはないが」
わがままで手のかかる主ではあったが、殺したいと思ったことはない。
喚び出されてすぐは不快だったが、傷つきながらも前に進むあの気概は認めていた。
孤独を強さに変える、そんな人間がいるものなのだと。
「俺の真名を記憶から消した。もう俺を呼びつけることはできん」
ある時、悪夢にうなされた彼女が、硬い鎧のような精神に綻びを見せた。そこを責め立てればもっと早く手を切り、契約を反故にすることはできた。
いつでも手を放せる、そう思って酔狂でつき合っていただけだ。
それがこんなにも長引いてしまった。
「どのみちできないんじゃないのか? 僕たちは……ここで死ぬんだから」
ジルドは、『死』という言葉を吐く時に毒を舐めたような苦しげな顔をした。
それは生への渇望だ。それでいい。
「この大陸の東、ベキス王国の一部は今も残っている。天界との戦いが始まっても、あそこならば生き残れる可能性が僅かにならあるだろう」
「まさか……本当に?」
何もかも失って身ひとつでしかないが、この男ならば大丈夫だろう。
迷い、揺れ動いて変化していくはずの人間でありながらも、ジルドは出会った時から変わらない。
悩むことはあれど、揺るぎない信念を持つ稀有な存在だ。
この男ならば、何があってもジーナを護るだろう。
「楽に生きることはできないとしても、どうにかしろ」
フルーエティが言い放つと、ジルドは腕の中のジーナの頭を撫で、うなずいた。
「それは僕に彼女を任せてくれたということか? だとしたら嬉しいな」
――人は移ろい、変わりゆく生き物だ。
それは、これまでも人と関わってきて思うところである。
ジーナはこの先、さらにどのような変化を遂げていくのか。
その未来を妨げることなく過ごさせたなら。
きっと面白いことになるだろう。
共にいて少しも退屈しない、図々しい人間だったから。
まっすぐなジルドに翻弄されながら、それでも寄り添って生きていけばいい。
どんなに悪魔に馴染んでも、人である以上は人としか共にはいられないのだから。
「リゴール、二人を運べ」
命じると、リゴールは頭を垂れてからライムントを呼び寄せた。
ライムントの背に乗る時、ジルドはジーナを抱えながら一度フルーエティを振り返った。その目には覚悟がある。
風に抗うライムントの力強い羽音が遠ざかる中、フルーエティの前にはルキフォカスが浮かんでいた。その表情には悲願を目前にした歓喜の色はない。相変わらず満たされない憤怒があるだけだ。
「……お前は異質だ、フルーエティ」
まだそれを言う。
「お前には関わりない」
しかし、ルキフォカスは言い募る。
「堕ちても尚、お前だけは――」
その時、風が凪いだ。
暴風も勢いを削がれ、その黒衣の裾をふわりと揺らすのみだった。
「ベルゼビュート様」
こうして主君にまみえたのはいつ以来だろうか。
それも、魔王が二尊共に地上にいること自体が異常だ。
ベルゼビュートは長い黒髪を振り、ルキフォカスに微笑むが、その表情には侮蔑を孕んでいる。
「その穢れた翼では嫉妬したくなるのも仕方がないな」
そのひと言にルキフォカスは目を見開いた。それでもベルゼビュートは冷ややかに微笑んでいる。
「これは自ら望んで堕ちた。天から堕とされた貴様らとはそもそもが違う。白さを残す此奴が妬ましいか?」
ルキフォカスは人の子のように、羞恥に顔を染めた。
本当に、天使だった頃の己に戻りたいと願うのだろうか。
少なくともフルーエティにそんな思いはない。天界にはなんの未練もなく、愛想を尽かして出ていったに過ぎないのだ。
天から異様な轟音がした。
上を見上げると、白い羽根がハラハラと光を纏って振ってくる。
「……始まったか」
ルキフォカスは吐き捨てると、タストロアのもとへ戻った。
ベルゼビュートも空を仰ぐ。
「あの御方は天へ戻ることなど望まれてはおらん。タストロアはそれが未だにわからぬと見える」
魔王ベルゼビュートとタストロアが敬うのは、魔界の絶対君主たる魔神ルファース。
原初に天から堕ちたとされる。フルーエティたちは、その魔神が最も深い地の底で眠り続けていることしか知らない。
けれど、魔王たちはその存在を崇める。神と呼ぶに相応しいその力を。
「あの御方は、何も望んではおらぬ。ただ静かに、その眠りを妨げてはならん」
ベルゼビュートは目を細め、漆黒の翼で羽ばたくタストロアを見遣った。
そして――。
「フルーエティ、お前はあの御方にどことなく似ている。姿かたちばかりか、在り方がな」
そう言って、フッと微笑んだ。
もしその言葉通りなのだとしたら、魔神は目覚めの時を望んではいないだろう。
この世のすべてに嫌気がさしているだろうから。
「仕掛けた以上、天界は無差別に攻撃してきます。魔界への介入を防げばよいのでしょうか?」
フルーエティの問いかけにベルゼビュートはうなずいた。
「タストロアたちのことは放っておけ。天使が攻撃してきた時のみ応戦しろ」
放っておくも何も、いざとなればタストロアを止められるのはベルゼビュートだけだろう。
ただし、ベルゼビュートは己とルファースのためだけにしか動かない。それをするとしたら本当に戦局も終盤のはずだ。
「御意のままに」
主君にそう返した時、背後に気配を感じた。フルーエティはうんざりして嘆息する。
しかし、ベルゼビュートの手前、何をするでもなかった。
「フルーエティ、プトレマイア、タナルサス。今は我が下で共闘しろ」
フルーエティが見遣ると、プトレマイアは嘆きの川に浸かっていた名残を感じさせるような青白い肌をして答えた。
「はっ。必ずやお役に立ってお見せします」
タナルサスは状況の悪さにやや顔を曇らせてはいるが、主命に背くことはなかった。
「畏まりました」
ふわりと浮かび上がるフルーエティにタナルサスが続く。
フルーエティにとって、天界は故郷である。
白い翼を持つ天使たちには見知った顔も見受けられた。
「お前は、もしや――」
悪しき存在を忌み嫌う天使が、フルーエティの姿を前に驚嘆したようにつぶやく。
しかし、フルーエティは懐かしいなどと思うことはない。
それでも背中が疼き、白と呼ぶには薄汚れた対なる翼で羽ばたいた。
「俺は上級悪魔六柱が一、フルーエティ。望みとあらば相手をしよう」
そして、穴が穿たれた大地から続々と悪魔の軍勢が湧き出てくる。
悪魔たちは天へ向けて昇った。
天界との攻防は容易いことではなく、悪魔も天使も疲弊した。
結果として叛逆が成ったとは言えない。永い歳月をかけて互いに削り合った、ただそれだけのことだ。
多大な迷惑を被ったのは、地上を住処としていた人間たちであろう。
魂は奪われ、天にも地にも行かずに消えた。
大陸を拠点とした悪魔たちにより、アンゴル大陸は荒らされ、破壊された。ただ――。
天使と悪魔が力を振るううち、大陸の東側だけが島国のように大陸から分かたれた。そこには人の生存者もいたとする説があるが、真偽のほどは定かではない。
壮絶な戦いを繰り広げた天使と悪魔。
そこには灰色の翼を持つ悪魔がいた。
しかし、その姿は天使のようにも見えたという。
その悪魔は、天使との戦いを望んでいるふうではなく、ただ砕けた人の大地のそばで天使を迎え撃っていた。
もしその大陸のかけらに人がいたとするならば、彼らが生き延びられたのはその悪魔の気まぐれによるところと言えたかもしれない。
アンゴル歴千五百六十八年。
それは天魔戦争の終結と共に、ひとつの大陸が滅びた年である。
【 THE END 】
3完結です。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!
フルーエティは3でようやく、ちょっとだけ満足です(^^;)
230年くらい頑張りましたけど。
ベキス、ベルテ……国の名前をなんでこんなにややこしくしたのか……。
実は、三国とも頭を「ベ」で始めようとして、絶対これ自分でもわかんなくなると我に返り、一国だけ変えたんですけど、それでも十分ややこしかったですね。もう絶対しない(ノД`)・゜・。