*53
テレンツィオはまぶたを開いた時、ここはまだ魔界なのではないかと疑った。
空が不穏な色をしていて、とても人の世には見えなかった。
けれど、ここは間違いなくテレンツィオが生まれ育った大地なのだ。
降りた場所は高台で、落ち窪んだ低地が見下ろせる。ここは何もない、何もかもが取り払われたデズデーリ跡地だ。
ここにいて、はっきりと魔力の流れを感じ取れる。強い力が渦巻き、地を穿つ。
地から噴き出す奔流は、魔界の風に似ていた。
ただ立っているだけで、テレンツィオの体内の魔力でさえも暴れ狂うようだ。思わず両手で肩を抱いたが、震えは止まらない。
そんな中、空に人影があった。ルキフォカスかと思ったが、違う。
膝まで届く金髪を緩く編み、白い法衣に身を包んでいる青年は、天使そのものだった。それも特別に美麗な個体と言えるだろう。
均整の取れた細身の体、繊細な横顔のすべてが神聖に見える。けれど――。
その背に生えた翼は漆黒だった。烏の羽のように黒く、禍々しい。
「あれは――」
ジルドが痛々しい面持ちで目を細めた。
フルーエティの三将たちは信じられないものを目の当たりにしたらしく、驚愕している。
「まさか……」
その様子で確信した。あれこそがタストロアだ。
ルキフォカスとサナトアもいる。どちらの背にも同じような黒い翼があった。もう一柱の悪魔がいて、あれがネビュロスだろうか。黒髪の、何事にも興味を示さない冷めた目をした彼の背にだけは翼はなかった。
タストロアは一度こちらを向く。テレンツィオは極度の緊張で心臓が破れそうだった。
しかし、彼の魔王が人間ごときを気にするはずがない。タストロアが見たのはフルーエティだ。
タストロアは口の端を持ち上げ、そして空を仰いだ。
その途端、地響きが起こる。
地の底から噴火のようなエネルギーが押し出された感覚が靴底を通して伝わる。
とても立っていられなかった。テレンツィオとジルドは膝を突き、ジルドは揺れる足場でなんとかテレンツィオを引き寄せた。
フルーエティは、ただ空を見上げていた。
眉根を寄せ、悲しそうに。
地の底から吐き出された光の竜巻は、柱のように空へと伸びた。この大地の魔力、人の魂、悪魔の力――それらが混ざり合ったあの光が天門を破壊するのだろうか。
天界にはそれを防ぐ手立てはないのだろうか。
テレンツィオはジルドを押しのけ、生まれたての小鹿のような足取りで立ち上がる。
「フルーエティ」
呼びかけると、フルーエティはテレンツィオに首を向けた。
出会った日から変わらず美しい。ただ、あの日から互いの関係は変わらなかっただろうか。
変わったはずだとテレンツィオは思う。だから、笑った。
「私たちがこの大陸の最期を見届ける人間になるんだな。お前といられた時は短かったけれど、お前の主として死ぬのは私にとって結構光栄なことなんだよ。ありがとう、フルーエティ」
抗えない運命がある。
それを受け入れるしかないのなら、せめて笑って逝こう。
フルーエティは、テレンツィオを懐かしんではくれないかもしれないけれど。
すると、フルーエティはテレンツィオの手を取った。握手でもしてくれるのかと思ったが、そんなはずもなかった。フルーエティはテレンツィオの手袋を脱がせる。
そこには契約の印がある。
フルーエティはテレンツィオの手の印に視線を落としながら、風の音に負けない声でささやく。
「――ジーナ」
「えっ?」
手袋がポタリと地面に落ちて風に攫われた。
その名に体を強張らせてしまったのがフルーエティにも伝わっただろう。フルーエティはテレンツィオの手首をギッと強く握った。
その強い目がテレンツィオを射貫く。
「ジーナ・マイナルディ。お前は『テレンツィオ・シルヴェーリ』ではない。よって、お前は俺の主ではない」
手の平が熱く、息が詰まるほどに痛い。
小さく声を上げ、冷や汗を滲ませて手の平を見ると、そこに契約の印はなかった。目を見張り、何度確かめても。
「契約は不完全だと言っただろう? こんなものはいつでも消せる」
淡々と、なんの感情も浮かべずに言い放つ。
フルーエティは、気高い悪魔は、人に飼われることを望まない。
互いの間に絆などはなく、テレンツィオだけが一方的に愛着を感じていたに過ぎないのか。
目から涙が惜しげもなくポロポロと零れた。
「お前は意地悪だな」
あと少しくらいつき合ってくれてもいいのに。
フルーエティの長い指が眼前に近づき、テレンツィオ――ジーナは意識を失った。
明日で完結します。




