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テレンツィオたちはフルーエティの屋敷のある崖近くに降りた。
今の地上よりは魔界の方が心休まるなんて奇妙だった。
きっと、ルキフォカスたちはフルーエティがこのまま魔界にいて、地上に関わらずにいるのなら放っておくだろう。フルーエティが進んで関わるわけではない。主であるテレンツィオがそれを求めるからこそ、フルーエティは地上の出来事に関わるしかないだけだ。
テレンツィオがこのまま地上を見放し、魔界で過ごすという選択したらどうだろう。魔界に人は適応できないものだろうか。
テレンツィオはともかく、ジルドは魔界には馴染めないだろう。地上で人々が死に絶えるかもしれないという時に、自分だけ逃げたという事実にも苛まれる。
――今だけは考えるのを止そう。
ほんの少しでも休息が必要だ。
「フルーエティ、少し休ませてくれ」
これを言うと、フルーエティは静かにうなずいた。その背中に続き、テレンツィオとジルドはフルーエティの屋敷へ入った。
パンとチーズとワイン、簡単な食事を取り、テレンツィオはゆっくりと湯浴みをした。
汚れたローブは洗い、魔術で乾かしたが、これを再び着る前に眠ろうと思った。下に着ていたシャツだけになり、豪華なベッドに潜り込むと、気持ちよく体の力が抜けた。
ただし、すぐに眠りに落ちるには状況が複雑すぎる。眠りたいのになかなか眠れない。
それでもシーツに包まっていると、部屋に誰かいる気配がした。フルーエティだろうと思ったら違った。
大きな手がテレンツィオのシーツから出ている髪を撫でたのだ。
「……ジルド、さん?」
「すまない、起こしたな」
「寝てませんよ」
そう言ってシーツをめくって上半身を起こそうとしたが、ローブを着ておらず、寝苦しくないようにとボタンを外して襟を寛げたせいで胸元まで肌をさらしている。
「…………」
テレンツィオはもう一度シーツを被り直した。
いや、上半身裸を見られたこともあるのだから、これくらいで動揺することもないのだが。
この時、テレンツィオよりもジルドの方が動揺したのかもしれない。フッと目を逸らした。
「勝手に入って悪かった」
「どうせフルーエティが入ってもいいと言ったんでしょう?」
何も答えなかったけれど、鍵がかかっていなかった上、ジルドがこの部屋まで来られたのならフルーエティのせいだ。
「今後のことを話さなくてはならないのはわかっています。ただ、少しだけ眠ってからの方が冷静に考えられる気がします。まあ、ろくな打開策はないでしょうけど」
大悪魔たちがあれほどまでに関わっていて人間に対抗できるわけもない。
先に待つのは、どう足掻いても滅びでしかない。
それをジルドも感じている。だからこそ、一人でこの屋敷にいたくなかったのだろう。
「ティオは眠ったらいい。ただ、この部屋にいさせてくれないか。ティオが無事でいると確かめられたらそれでいいんだ」
目の前にいないと不安になるとでも言うのか。
今はそんなジルドを嗤う気にはなれなかった。気持ちはわからなくもない。
それを素直に認められないだけで。
「この屋敷はフルーエティのものなのですから、私はあなたよりも安全ですよ」
「わかっている。それでも」
減らず口ばかり叩くテレンツィオを、切ない目をして見つめてくる。
どうしようもなく胸が騒いだ。
これは人としての本能かもしれない。
テレンツィオは後に何も残らなくても、潔く散ればいいと思ってきた。
そのつもりでいたのに、何故か今、目の前にいるジルドに触れたい。繋がりを求めている。
目が口よりも雄弁にそれを伝えていたのかもしれない。ジルドは一度驚いたように目を見張ったが、部屋を出ていこうとはしなかった。
シーツが肩から滑る。テレンツィオが手を伸ばし、指先でジルドの唇に触れると、ジルドはテレンツィオの手を握りしめ、それから体が軋むほど強く抱き締めた。
この時だけは崩壊しかけた世界も何もかも忘れ、ただジルドに与えられた熱だけを感じていた。肌をなぞる大きな手が、それでいいと語っているような気がした。
忌まわしく、脱ぎ捨てたいと願っていた体が、今だけは当り前のように心に馴染み、嫌いだったはずの男を受け入れている。おかしなものだ。
自分の身の上には起こり得ないと思って生きてきたことのほとんどが、実はそうでもなかったのだろう。
こんな時でも魔界は静かだった。
ジルドはベッドの中で背を向けたテレンツィオを腕の中に納めると、ポツリと切り出す。
「――父はずっと、母の不貞を疑っていた。僕のことは不義の子ではないのかと」
ジルドの母親ならば相当に美しい人だったのだろう。父親が嫉妬に狂い、束縛するほどに。
「父の愛情が僕に向いていないことを幼いうちに察した。事情を知らなかったから、僕はただ父に認めてもらえるように努力してきた」
すべてにおいて恵まれた人などいないのか。
ジルドにはジルドの事情があり、自らに完璧であれと課した。それは好き好んでのことではなかったらしい。
「それで丸く収まりましたか?」
問いかけると、ジルドの腕に力が籠った。
「多分、疑惑の通りなんだ。母は何も言わずに亡くなったが、僕はそう思っている。父も」
「本当の父親はわからないのですね」
「見当はつくけれど。父は僕に跡を継がせたくはないが、僕が功績を上げると難癖をつける理由が見当たらなくなる。醜聞を避けてどう決着をつけるつもりなのかと思っていたけれど、もうそんな心配はしなくていいんだろうな」
ヴィヴァリーニ家当主も、もう生きてはいないのかもしれない。
だからこそ、ジルドは今になってこんな話をするのだ。ずっと誰にも言えずに抱えていて、誰かに聞いてほしかったのだろう。
程度は違えど、人に言えない秘密を抱えていたのはジルドも同じだったのか。
完璧に見えたジルドにも瑕があり、テレンツィオにはそれが愛しく思えた。ジルドの腕の中で向きを変え、つぶやく。
「……え?」
そのつぶやきに、ジルドが驚いていた。
だから、テレンツィオはもう一度言った。
「――私は『テレンツィオ』じゃないんですから。これが私の本当の名前です。でも、私はテレンツィオとして生きています。ですから、呼んでいいのは今だけです」
すると、ジルドは甘く微笑み、耳元で何度も名を呼んだ。
こんなにも優しく名を呼ばれたのは初めてで、きっともうこの先にはないだろう。
テスタの死に目の時、テレンツィオは自分の中で何かが大きく変わったと思えた。
ピュルサーもマルティも好きだ。味方だと思っている。それでも、彼らは悪魔だ。フルーエティの主ではない人間に重きを置かない。
人間よりも悪魔の方がずっといいと思っていたはずのテレンツィオが、あの時初めて、自分は人間で彼らは悪魔なのだという認識を強くした。寄り添ってくれるジルドが人間であってよかったのだと。
勝手な心だと思うけれど、これは当然のことなのかもしれない。
人と悪魔は似て非なるもの。
フルーエティだけがどちらにも属さないような気がする。
ルキフォカスが何度も繰り返したように、フルーエティは異質だ。
異質なフルーエティは、寂しくはないのだろうか。
多分、テレンツィオがその寂しさを埋めることはできない。
自分は結局、人として生きて人として死ぬだけなのだから。
そうして、時は迫る――。




