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あの論文に書いたこと――。
「悪魔の起源についての可能性……」
それがテレンツィオの論文だった。
自分でも大それた内容だったとは思うが、わかる人にはわかるだろうと、発表したい気持ちを止めずに書き上げた。
ゾフは大きくうなずく。
「君は悪魔とは何かと、ここで問いかけました。『悪魔』とは総称であると。すべての悪魔が同じようにして生まれたとは限らないと」
「……」
この男はテレンツィオの論文を読んだらしい。楽しげに語られた。
「悪魔が初めから悪魔であったとは言い切れず、なんらかの事情により悪魔となった、そのような事例も存在するのではないか。人のように脆弱な存在が悪魔たり得んことはなくとも、強靭な肉体と精神、魔力を持つ者であれば悪魔となるのではないのか。だとするのなら、天界の天使が魔界に染まれば悪魔となる、その可能性を否定することが誰にできようか」
天使とは、人を天上に導く清らかな存在であるとされる。
誰も、天使が悪魔になるなどとは説かない。
けれど、テレンツィオは思うのだ。神が天使を創り給うたのなら、悪魔は何故生まれたのかと。
天使だけを創ったのなら、その天使が悪魔と化したのが悪魔の始まりではないのかと。
邪悪だ、不遜だと言われた説ではあるが、テレンツィオは今でもそういう可能性があったのではないかと考えている。
事実、悪魔たちを見ると、まるで天使のように美しい者が多いのだから。
ゾフは急に声を立てて笑った。なんとも腹立たしい声で。
「君の説は正しい。私はそれを知っています。私たちだけが知っています。ああ、それがどれほど甘美なことか」
「……私の説が正しいとする根拠を教えてくれる気はないのですか?」
苛立ちながら問いかけると、ゾフはテレンツィオではなくそばに立つフルーエティに一瞬だけ目を向けた。
「今に己の目で確かめることになるでしょう。その時は間近です」
勝ち誇ったように言う。
「その時とやらが来たら、人類はどうなるのでしょう?」
それが一番知りたい。
ただ、この問いかけをした瞬間にゾフは恍惚とした目をした。それは優越感の骨頂であった。
「もうそれほど多くは残っていないのです。今更どうなろうとも構わないではありませんか」
「ガルダーラ信徒だけは助けると、そのような取り決めがなされているのですか?」
ゾフのこの余裕からはそうとしか思えなかった。
しかし、ゾフはテレンツィオを憐れむように見た。腹立たしいことこの上ない。
「そして、死しては天上での地位を約束されています」
ただの人間に過ぎない魂が、死んだからといって崇め奉られるわけがない。何を馬鹿なことを言うのか。
その馬鹿げたことを吹き込んだのは悪魔たちなのだ。
「悪魔が何故、そんな約束をするのでしょう?」
魔界のアケローン川を渡った後のことならばまだしも、ゾフは天上に昇るつもりをしている。
この時、テレンツィオはようやくゾフの言う意味がわかってきた。
あの論文、それから天界にこだわるタストロアたち。
天上での約束――。
馬鹿だ。あまりにも馬鹿げている。
笑いを嚙み殺しているゾフをテレンツィオは睨みつけた。
「魔王タストロア、その配下の上級悪魔たちは天界に返り咲く――それが悲願か」
あの悪魔たちが天から落とされたのだとしたら、色々なことに説明がつく。
だからこそ、天界にこだわるのだ。いつか天へ還る、その日を願って地の奥底で力を蓄えていた。
天使であった彼らは、悪魔となった今でも天へ焦がれている。神を恨んでいる。
この大地は彼らの戦の足がかりだ。
ゾフは笑うのをやめ、ゆっくりと目を瞬く。
「さすがというべきなのでしょうか。やはり君の魂はひと際の輝きを放っているのでしょう。そこの悪魔が邪魔をしなければ、ぜひとも頂きたいものですが」
フルーエティよりもジルドの方がテレンツィオを庇うように手を伸ばした。
けれど、いつの間にか空はどす黒い雲に覆われ、その雲の割れ目には蝙蝠のような翼をした悪魔が見えた。次々に町へと降りていく。人を狩りに来たのか。
空にはルキフォカスの白い衣が見えた。悪魔のくせに白にこだわる意味がようやくわかった。
強い風が吹く。
フルーエティは戦うつもりもなかったのか、魔法円を描き出し、二人をこの場から運んだ。
行き先は知らない。
けれど、次に王都に赴くことがあるとしたら、そこに生きた人間はいないのかもしれない。