*36
人目を憚るように路地裏に連れ込まれた。
普通に女のなりをしていたら悲鳴でも上げて痴漢に仕立ててやるところだが、今のテレンツィオは残念ながら男である。
人に聞かれたくない話なのだ。それはきっと、悪魔に関わることだろう。
しかし、実際のところ、ジルドの話はテレンツィオが思っていたものとはまったく違った。
「最近、魔術師団水将テスタ様に目をかけられていると聞く。本来、自分の隊外の魔術師の世話を焼いたりなどしないところだ」
「ええ、まあ。私が優秀だからですね」
ひどく神妙なジルドに、テレンツィオは笑って返した。
何を企んでいるのかを知りたいのかもしれないが、知ったところでジルドは門外漢だ。
ジルドはいつまでもテレンツィオの手を放さない。力も強く、苛立ちがそこから伝わるようだ。
「……本当にそれだけか?」
ポツリと言われた。
「それだけ?」
これにはテレンツィオが眉を顰める。何が言いたいのかと。
そうしたら、ジルドは言いにくそうに顔を背けた。
「テスタ様に、君が女性だということを知られたのではないのか?」
「何を言っているんですか、あなたは?」
「よく図書室で会っているんだろう? 二人きりで会うのは、そういうことでは?」
「全然違います」
「……本当に?」
「テスタ様が私を脅しているとでも? それ、失礼すぎませんか?」
呆れて言うと、ジルドは怯んだ。
けれど、ほっとしたようにも見えた。手首をつかまれていた力が緩む。
「それならいいんだ。噂を聞いて、その、心配していて……」
恥ずかしそうに目を逸らした。それは一体どんな噂で、お前はどんな想像をしていたのだと問いた――いや、聞きたくもない。
テレンツィオは抱えていた紙袋に穴が空きそうなほど握り締めていた。これは苛立ちだ。
「私とあなたは他人だから、金輪際馴れ馴れしくしないでくださいと言いましたが、もう覚えていないのですか? あと何回言ったらわかって頂けるのでしょう?」
味方の顔をした敵が何より厄介だ。
ジルドの心配は、テレンツィオにとってなんの利益にもならない。何が目的だかわからない優しさは気味が悪い。
こんなに突き放しているのに、どうして関わろうとするのだ。
キッと睨みつけたら、ジルドは切ない目をした。こんなに心配しているのに何故伝わらないのだとばかりに。
その心配を求めていない相手だと気づけ。
しかし、それがジルドには無理なようだった。
「多分、何度言ってもわからない」
最悪だ。では、どうしたらいい。
「どうしたらわかってもらえるのでしょう?」
「無理だ。あれからもずっと、ティオのことが気になって仕方がなかった」
どこから秘密が漏れて窮地に立たされるかわからないと。
世話を焼くのが好きなのもほどほどにしたらいいのに。
けれど、ジルドの言う言葉の意味を理解していなかったのはテレンツィオの方だった。
ジルドの大きな手がテレンツィオの首筋から耳の裏側に回った。ゾクリと身震いして顔を背けようとした時、ジルドの熱を持った声が耳元でした。
「僕は、君のことが――」
嫌だ。
聞きたくない。
何も知りたくない。
テレンツィオがひどく怯えて見えたせいか、ジルドはその先を言わなかった。ただ、一度労わるようにテレンツィオの体を抱き締め、それから額に口づけを落とした。
「ごめん。僕はこれからしばらくバルディでの任務に就く。こんな時だと、向こうで何があるかわからない。もう君と会うことはないのかもしれないと思ったら、余計なことを言いたくなってしまった」
そこで言葉を切ると、ジルドはテレンツィオから離れた。
「まあ、君は僕がいなくなって清々するのかもしれないが。君に必要とされるフルーエティが羨ましいな」
どこか無理をしたように笑った。そんな顔は見たくない。
「じゃあ、気をつけて」
気をつけるのはどちらだ。
ジルドはテレンツィオに背を向けて去った。その場にへたり込みたくなるのを、背中を壁に預けて踏ん張る。
頭の中が掻き乱され、これまで必死で学んできた知識や呪文が消し飛んでしまいそうだ。
柄にもなく目に涙が浮かんだ。それが何故だかはわからない。
悔し紛れに声を上げた。
「フルーエティ!」
建物の影、闇の中に紫色の瞳が浮かんでいる。
「なんだ?」
テレンツィオはその澄ました顔を睨みつけた。
「どうして助けてくれない!?」
「……何をどう助けろと?」
呆れたその顔に腹が立ち、テレンツィオはフルーエティの方へ駆け寄って胸板を拳でドンドンと叩いてやった。なんのダメージでもないようだが。
「ジルドはヒトにしてはマシな方だ。欠点だらけのお前とは違い、致命的な欠点と呼べるものはない」
「あいつの肩を持つなっ」
何故かフルーエティはジルドを買っているらしい。
何故か、ではないのか。フルーエティが言うように、ジルドには美点の方が多いのだ。
ただ――。
「ああ、やはりあったな。致命的な欠点が」
「うん?」
「女の趣味が壊滅的に悪い」
「――っ!!」
この後、フルーエティの発言に激怒し、テレンツィオが大事なことに気づくのに時間がかかってしまった。
ジルドはバルディに行くと言った。
悪魔が疫病をばら撒くかもしれないところへ。
――本当に、もう再会することはないのかもしれない。
疫病に侵され、苦しみ抜いた挙句に命を落とす。そして、その魂は救われない。
額にふわりと触れた唇の感触がまだ残っていた。
イゾラのように、己の欲望を押しつけるのとは違う労りがそこにあったのはわかっている。
『テレンツィオ』ではないのだと、彼を乗っ取った娘だと知っているくせに。どうしてこんなにも大事に扱うのだろう。
あの優しさは、きっと命取りになる。
けれど、死ねばいいとまでは願わない。
できることならば――。