*29
ルキフォカスとの邂逅は、テレンツィオにとって喜ばしいことのように思いたかったけれど、やはりそうとは言えなかった。
いつでも強気を見せたところで、圧倒的な存在には恐れおののいてしまう。ちっぽけな人間だということを嫌でも自覚させられた。
屋敷に戻ると、ハウレスたち悪魔は平然と働いていた。ルキフォカスが来たことに気づいていないのだろうか。
テレンツィオが複雑な心境で一人廊下を歩くと、アーケードの間から中庭が見えた。
花は咲いておらず、赤黒い植物がうっそうと茂っているだけである。その茂みの手前でジルドが剣を振るっていた。
これまで、テレンツィオの周りに武術を嗜む者はおらず、こうした鍛錬を見たことはなかった。やや幅広の剣は重たいはずだが、ジルドは素早く切れのある動きで斬撃を繰り出す。
ただじっとしていると体が鈍ってしまうと思うのか、ジルドなりの危機感だろう。
テレンツィオに気づいたらしく、ジルドは動きを止めた。剣をベルトのついた鞘に納める。息は切れていなかった。
「……手の怪我が悪化しますよ」
つぶやいたら、ジルドは苦笑した。
「いい薬を塗ってくれたみたいで、もうそれほど痛まないんだ」
一体何を塗ったのだと半信半疑だったが、もしそんなに効くのなら作り方を教えてほしいくらいだ。
「それはよかった。じゃあ、そろそろ地上に戻りますか?」
「いつでもいい」
そう答えてジルドはうなずいた。
――ジルドは何も知らないから。地上に戻っても悲惨な現実が待っていると。
悪魔が絡む以上、喪うのは友と家族だけではない。己の命さえも危うい。
テレンツィオと違って、ジルドにはしがらみが多い。だからこそ、かえって雁字搦めになって逃げられなくなる。
「……あなたには護りたいものがありますか?」
なんとなく訊ねた。きっと、反吐が出るような答えをくれるだろうと。
案の定だった。
「たくさんあるな。まず、騎士として国民のすべてを護る義務がある」
「そうでしたね」
薄く笑ったが、ジルドは気分を害した様子も見せない。
「家族、友人――もちろん、ティオのことも」
「私にはフルーエティがいるので間に合っています」
とっさに答えた。それでもジルドは笑っている。
「そうだな。頼りになる守護悪魔だ」
もともと信仰心の薄い国のことではあるが、それでも悪魔と聞けば難色を示す者は多いが、ジルドはほとんど気にしていないふうに見える。許容範囲が広いのか、フルーエティと会って考えを変えたのかはわからない。
でも、とジルドは言葉を切る。
「悪魔は心まで護ってくれるものなのか?」
「……心?」
何が言いたいのだ。テレンツィオは眉間に皺を寄せた。
「私の心は私が保ちますので」
誰が心なんて護ってくれるというのだ。
頼りにして裏切られたあの苦しさは忘れない。
契約に縛られたフルーエティならば信じても、人間は信じない。それで間違いないのだから。
――こんな会話に意味はない。
「地上に戻りましょう。フルーエティにそう伝えます」
冷え冷えとした心境でそれだけ言い、ジルドを残して去った。
地上に戻る時、やはりまたあの崖から落ちるのだろうか。あまり気持ちのいいものではない。
フルーエティを見送るためなのか、崖には三将がいた。
リゴールは飛竜ライムントを連れていて、ジルドはその威容に驚いている。
「そのうちに呼びつけることもあるだろう。気を抜くな」
三将は頭を垂れて畏まっていた。
「お待ちしております。戦から遠ざかって幾星霜。あの感覚が恋しいところです」
マルティは陽気なようでも、やはり悪魔だけあって好戦的だ。リゴールは無口だが、多分同じ心境だろう。ピュルサーは相変わらず獣なのでよくわからない。
「時が来たら暴れるといいよ。待っていて」
テレンツィオが笑顔で言うと、フルーエティに睨まれた。それを振りきるように空を見上げる。
「さあ、戻ろう」
今回はジルドを驚かせてやろうという悪戯心が働いた。テレンツィオはジルドの腕を取る。
「行きますよ」
返事も待たずグイッと腕を引っ張ったまま崖から飛んだ。ジルドの体が強張ったのがわかって満足だ。
ただ、誤算だったのは、ジルドが落下していく中でとっさにテレンツィオを抱き締めて庇おうとしたことだろう。
逞しい腕がテレンツィオの頭を胸に押しつけ、落下の衝撃を和らげようとする。
しかし、体を地面に打ちつけられることはなく、二人は柔らかな明るい草の上に降ろされた。
これに驚いたのはジルドだ。テレンツィオに覆い被さったまま、首だけ上に向ける。
「……地上、なのか?」
ほっとしたような声だった。
草の上に転がったテレンツィオにはジルドの影が落ちていて未だに暗い。ジルドはテレンツィオが無事かを確認しようとして顔を近づけた。
この時、テレンツィオは頭の中身が吹き飛んで真っ白になっていた。
それは、何も思い出すなと自らに命じるからだ。
震えが止まらない。四肢を折り畳み、縮こまって震えている。小さな子供のように。
「ティオ?」
大きな手が肩に触れる。ヒッと、喉の奥から声が漏れた。
この手はジルドだ。違う。あの時とは違う。
自分は『テレンツィオ』だ。小さな子供ではない。思い出すな。
浅い呼吸で喉が引きつけを起こしそうになっていると、ジルドの手をフルーエティが退けた。そして、ぐったりとしたテレンツィオを抱えるようにして起こした。
「これは……」
ジルドが戸惑っている。何事もなかったかのように、いつもの自分でいなくてはと思うのに、体がいうことを利かない。こんなことは初めてだ。
上手く答えられないテレンツィオをそれこそ護るように、フルーエティは抑揚の少ない声で言った。
「誰しも少々の疵は持つ」
ジルドの、生身の人間が持つ熱に思い起こされた過去。
フルーエティの冷たくも熱くもない手がむしろ心地よい。この手には安心して身を委ねられる。
悪気がないどころか、庇おうとしただけのジルドは戸惑い、悲しげに瞬いていた。




