*28
ジルドはすぐにでも地上に戻りたそうだ。
けれど、こうして魔界で過ごせる時はそうそうない。テレンツィオはもう少しだけ、今のうちに頭を整理しておきたかった。
テレンツィオはフルーエティを伴い、崖の上から魔界を眺める。
風は地上と変わりなく吹くけれど、空は晴れずに薄暗い。あまり長居するとテレンツィオでさえ地上が恋しくはなるのだろう。
ここで一人、ぼんやりとしているつもりだったのだが、フルーエティが勝手についてきたのだ。
「悪魔の中には人間の娘を好むヤツもいる。一人で魔界にいるなど、食ってくれと言っているようなものだ」
「あれ? 心配してくれるのかい?」
茶化しているのではなく、意外に思ったから言っただけなのだが、フルーエティは渋面を作ってそこから口を利かなくなった。
ちなみに、ジルドは何も言わずに屋敷に置いてきた。常に張りつかれていては、暑苦しくて耐えられない。
この崖にいると、感覚が研ぎ澄まされるような気がする。大気が地上のそれとは明らかに違う。魔術師にとっては興味深い。
テレンツィオが魔界の風を肌で感じていると、不意にフルーエティがテレンツィオを崖から遠ざけるように前に出た。
何があるのかと思ったら、崖から落ちてしまいそうなほどの颶風が吹いた。
「っ!」
そんな兆候はなかった。
それは唐突にやってきたのだ。
フルーエティがテレンツィオの肩を抱き、この風の中でも消えない青い炎を燃え上がらせる。
強大な力を持つ大悪魔だと知っていても、フルーエティがテレンツィオに悪魔らしい側面を見せたことはあまりなかった。
その整った横顔が険しくなる。炎の勢いに、風の方が押されるようにして弱まっていく。
風が競り負けたのではない。これが悪魔たちの互いの挨拶なのだ。
「いい加減にしろ」
フルーエティが吐き捨てるように言った。
風も炎も落ち着いていく中、赤黒い空には神々しいと言いたくなるような姿があった。
白金に光り輝く短髪、細い体を包むのは白い法衣のように見えた。年はテレンツィオとそう変わらないくらいに感じるけれど、見た目通りの年齢ではないだろう。
テレンツィオは事情が呑み込めずに首をかしげたくなった。
耳こそ尖っているものの、まるで天使が舞い降りたとしか思えなかったのだ。
翡翠の瞳がテレンツィオに向く。
優しげな風貌の美少年は、その容姿に似合わない冷笑を浮かべた。
「フルーエティ、貴様の酔狂には呆れる」
歌うような、それでいて金属の硬質さを持つ声だった。ゾクリ、と体が芯から冷える。
「お前に言われる筋合いはない」
それを聞くなり、天使の姿をした悪魔は小さく声を立てて笑ったが、少しも可笑しそうには見えない。
その笑い声をフルーエティがピシャリと遮る。
「ルキフォカス」
――この悪魔が上級悪魔六柱が一、ルキフォカスか。
外見と力が比例しない、それが悪魔というものだ。
「あの大陸に手を出すなと釘を刺しに来たのか?」
フルーエティの発言に、ルキフォカスは口の端を持ち上げた。ただそれだけのことなのに、残忍さが表れるようだった。
「フルーエティ、貴様はいつでも異質だ。変わらない。久々に会ってそれがよくわかった。それだけだ」
この悪魔に聞きたいことが山ほどある。けれどもしここでテレンツィオがルキフォカスに問いかけでもしようものなら、一瞬で殺されてしまう気がした。
この悪魔は人間になど興味がない。不要なのだ。捻り潰すのになんの躊躇もない。
冷や汗が浮いて、テレンツィオはただ立ち尽くしていた。
「あの教団にタストロア様の徽章を掲げさせているのにはなんの理由がある?」
フルーエティがテレンツィオの疑問のひとつを口にした。
しかし、ルキフォカスは取り合うつもりはないようだった。
「貴様は異質だ。タストロア様ではなく、ヴァルビュート様の下についた時からな」
「どちらを選ぼうと俺の勝手だ」
そう言いきったフルーエティに、ルキフォカスは汚らわしいとでも言いたげな目を向けた。
そして、テレンツィオが目も開けていられないような風を起こすと、いつの間にか少年の姿をした大悪魔は消えていた。
今になって緊張で体が強張ってくる。そんなテレンツィオの肩を抱いているのも同格の大悪魔だというのに、この違いはなんだろう。
「……やっぱり、仲が悪いんじゃないか」
思わずぼやきたくなった。
しかし、フルーエティは平然としている。
「向こうが勝手に敵視してくるだけだ」
フルーエティは異質だと、何度も口にした。やはり、フルーエティは悪魔らしくないのだろう。
しかし、ルキフォカスの見た目も悪魔らしくなかった。
「まるで天使みたいだった。でも、悪魔だな。冷たい目だ」
あの悪魔なら、目的のためならなんだってしそうな気がする。何も不思議はない。




