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 一瞬、気が遠くなる感覚がしてから顔を上げると、そこには以前と同じ薄曇りの赤黒い空が広がっていた。

 太陽の光は魔界までは届かない。かといって、まったく見えないこともない、仄明るいだけの場所だ。


 この時、テレンツィオの足元で何かが動いた。

 そちらに目を向けると、動いたのはジルドだった。膝を突いて呆然としている。


「……なんだ、連れてきたのか」


 テレンツィオがぼやいた声を当人は拾わなかったかもしれない。代わりにフルーエティが顔をしかめた。


「あの状況で置いてこいと?」

「まさか私以外を魔界に連れてくるとは思わなかった」


 あそこで死なれても面倒だが。

 普通の人間は生きたままここに来ることなどない。こんな形で魔界に来られるなんて僥倖だ。価値のわかりそうにないジルドには勿体ない。


「魔界……?」


 ジルドがやっと顔を上げた。戸惑いしかない。

 テレンツィオは不機嫌に答える。


「フルーエティが自分の住処に連れてきてくれたんですよ。ここなら安全――安全、なんだろうね?」


 途中でフルーエティに顔を向け直す。


「今のところはな。傷の手当くらいはできるだろう」

「ああ、そう。じゃあ、私は湯殿を使わせてもらおうか」


 ゆっくり、何も気にせず湯に浸かれるのが嬉しい。

 フルーエティは目を細めていた。多分、言いたいことは山ほどあるのだろう。


「お前はこの状況でも変わらないな」

「悪魔の方が繊細だなんて言うなよ」


 同僚(ノーゼ)は死に、町がひとつ壊滅した。

 けれど、テレンツィオには町にもノーゼにも思い入れがない。ジルドのように嘆き悲しむふりさえしたいとは思わなかった。


 ジルドは立ち上がると、フルーエティをじっと見た。どちらも長身なので目線は同じほどだろうか。


「ありがとう。フルーエティ……だったな」

「そうだ」


 フルーエティは端的に答えた。

 表情は浮かべず、人間ごときがという不快感も見えない。淡々としている。

 ただ――。


「名前が長いから、『エティ』って呼んでもいいかい?」


 これをジルドが言った途端、フルーエティが意外なほど(ほう)けているのがわかった。主でもない人間に、まさかここまで気安くされるとは思わなかったらしい。

 こんなフルーエティの表情は初めて見た。


「いいわけがないでしょう? これでも大悪魔なんですよ。そんなに可愛らしく呼ばないでください」


 テレンツィオが呆れて突っ込むと、ジルドは苦笑した。


「それは申し訳なかった。じゃあ、やめておくよ」


 フルーエティは怒りを見せることはなく、ただ静かにつぶやいている。


「俺をそんなふうに呼ぶ人間は存在しない」


 それはそうだろう。

 ジルドは誰にでもすぐ馴れ馴れしいが、まさか悪魔にまでだとは思わなかった。


 屋敷に入ると、以前会ったハウレスという鱗のある悪魔が出迎えてくれた。

 テレンツィオは彼にジルドを託し、さっさと湯殿に行って湯浴みをしていたのだが、服を着て出ていこうかという頃になってハウレスが呼びに来た。


「すみません、お客人がお呼びでございます」

「……なんて?」

「要件は窺っておりませんが、あなた様をお呼びしてほしいとのことでした」


 なんの用だろう。火傷に塗られた薬が人間には合わなくて染みるとか、そんな程度だったら無視するが、ちゃんと話し合っておかなくてはならないことがあるのも本当だった。


「わかった」


 テレンツィオは乾かした髪を束ねないまま、ハウレスの背中に続いた。

 ジルドがいたのは、使用人たちが使うような部屋に見えた。ただの人間なのだから、フルーエティの主であるテレンツィオとは扱いが違うのも当然だろう。

 木製の椅子に腰かけ、包帯を巻いた両手をじっと見ていた。


「お連れ致しました」

「ああ、ありがとう」


 ジルドは悪魔にもちゃんと礼を言った。ハウレスが去る前にテレンツィオは訊ねる。


「フルーエティは?」

「お出かけになられました」


 どこへ、と訪ねかけたが、テレンツィオが呼べばすぐに戻ってくるだろうと考えた。


 そうして、ハウレスは去った。パタン、と扉が閉まる小さな音を背中で受ける。

 ジルドはこの時、見たことがないほど不安そうな目をした。


「さすがに今日は……今でも夢を見ているような心境だ。サメレの町が壊滅して、デュリオたちも死んで、僕たちは生き延びて魔界にいる。どうしたらこんな状況が予測できただろう」


 泣き言を言うためにわざわざテレンツィオを呼んだのだろうか。だとしたら、うんざりする。


「予測のつかないことが起こる、それが人生ですよ」


 冷ややかにそれだけ言った。テレンツィオは、自分で自分の面倒も見られないような男にかける優しさは持ち合わせていない。


「君はいつでも落ち着いているな」


 冷たい人間だと言いたいのだろう。

 その指摘は間違っていない。知っている。


「私は他人のために涙を流すような人生を送ってきませんでしたから」


 自嘲気味に言った。

 死んで惜しいと思える人間を知らない。

 そして、テレンツィオが死んでも、誰も涙を流さない。騙されている祖母だって、テレンツィオが死ねば術が解ける。


 ジルドはテレンツィオの言葉の意味が理解できなかったのだろうか。困惑しているようにも感じられた。

 軽く首をかしげる仕草をする。


「それでも君の冷静さは僕を救ってくれた」


 今度はテレンツィオの方がきょとんとしてしまった。その顔を直視しながら、ジルドは柔らかく、けれど悲しそうに微笑む。


「デュリオとは同期で気心の知れた友人だった。いつも物静かで堅実で、家族思いで、努力家で、とても尊敬していた。危険が伴う職務だと知っているつもりで、それでもこんなふうに(うしな)う心構えがなくて――取り乱してすまなかった」

「いえ……」


 どう答えていいのかわからなかった。

 テレンツィオにそんな友人はいないから。それを喪う苦痛は知らないし、想像できない。

 ジルドはまた手に巻いた包帯をじっと見つめる。


「何が起こっているのかを突き止め、デュリオたちが心安らかに眠れるよう解決したい。だが、あの狼の悪魔といい――僕だけの力では到底無理なことだ。ティオ、君ならばできることはあるのか?」

「悪魔が絡んでいるのだとしたら、フルーエティを通してならば知ることはできるかもしれません。私に何かできるのかはまだわかりませんが」


 自己犠牲とは無縁のテレンツィオだ。何かできることがあったとしても、自分の身を削るようなことはしない。できる範囲でしか動くつもりはないが。


「僕が力になれることがあれば、なんでも言ってほしい」


 これを言った時、ジルドの目には光が戻っていた。腹をくくったのだろう。

 テレンツィオは少し笑った。


「ええ、もし何かあれば」


 それが悪魔に捧げる生贄の役割でないことを祈っておけ、とひどいことを思ったが、ジルドは気づかない。ただうなずいている。


 ――やはり、この男は嫌いだ。こんな時でも歪まないのだから。

 

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