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誰のものだか、息を呑む音が聞こえた。
テレンツィオは悪魔に向けて一歩進み出る。
「よく来た、フルーエティ。私はテレンツィオ・シルヴェーリ、お前の主だ」
笑いかけても、悪魔が微笑み返すわけもなかった。
神聖なほどに美しい顔はひどく不機嫌そうに見える。
「俺の主だと?」
悪魔の声は程よく低く、テレンツィオに肌が粟立つような歓喜をくれた。
「残念ながらね。お前は逃れられない」
テレンツィオの言葉がはったりではないことを、フルーエティ自身が感じているはずだ。小さくため息をついた。
しかし、納得できないのは教員たちだ。
「ま、まさか。これはなんの余興だ?」
この期に及んでまだそんなことを言う。現実を見たらいいものを。
テレンツィオはすぅっと息を吸い、一言一句間違えることがないよう声を発した。
「汝、ヴァルター・フルーエティ、我と契約せん。我が名はテレンツィオ・シルヴェーリ――」
この時、右手に焼けつくような痛みを感じた。しかし、この痛みをテレンツィオは喜んで受け入れた。
手の平を見ると、そこには魔法円が刻まれている。これこそが悪魔との契約が成った証。契約者の証だ。
テレンツィオは武者震いがやまない体で教員たちに指先を突きつけた。
「さあ、フルーエティ。この老人たちを始末してくれ」
なんの躊躇いもなく、滑らかに言葉が零れる。
「な、なんだと……っ」
教員たちは騒ぎ立てるが、テレンツィオはかぶりを振っただけだった。
「あなた方が先に私を殺そうとしたのでしょう?」
フルーエティは、目前で繰り広げられる人間同士の醜い諍いに眉根を寄せた。けれど、それが憐みからであるはずもない。
「それがお前の望みか?」
「ああ、そうだ。一切の慈悲は要らない。それから、始末が終わったらこの校舎に火をつけてくれ」
テレンツィオが顔色ひとつ変えずに言うと、フルーエティはやはり不機嫌そうに答えた。
「関係のない者も巻き添えになるぞ」
大陸を滅ぼす無慈悲な悪魔にしては気配りができたものだと、テレンツィオは失笑した。
「ここは魔術を教わる学府だ。魔術で身を護れる者がほとんどだが、もし仮に助からないような無能がいたとすれば、それは自業自得だろう?」
この世の自分以外はすべて敵だというのに、全力で己の身を護る努力をしてこなかったのならば、それは死んでも仕方がない。
「さて。私をこの部屋から出してくれ。荷造りをしてくるから」
笑いかけると、フルーエティは呆れたとでも言わんばかりにかぶりを振った。
テレンツィオは最後に学園長たちの方へ振り返る。
「死の間際にこのように大掛かりな術が見られてよかったですね。あなた方ご自身では、残り僅かな余生を費やしたところで不可能でしょうから」
「お前は――っ」
「なんと仰られようと構いませんよ。凡夫の妬心としか受け止めませんから。では、先生方、お世話になりました。そして、永遠にさようなら」
フルーエティが手を振るうと、テレンツィオは部屋の外に飛ばされていた。
分厚い扉の中からは何も聞こえない。せめて断末魔の叫びでも漏れてきたらいいのに。
テレンツィオは心地よい疲れを感じながら部屋に戻った。
そして、火の手が上がるのをじっと待った――。
「ああ、ティオ! 本当にあなたが無事でよかったわ。学院が火事だなんて、もしあなたに何かあったらと気が気ではなかったのよ」
テレンツィオは今日、屋敷のリビングルームで祖母と紅茶を飲む約束をしていた。
あれから三日。
テレンツィオが家に戻ってから、祖母は毎日同じ話を繰り返す。それだけショックが大きかったのだろう。
祖母アウグスタはシルヴェーリ伯の称号を持つ。それというのも、夫亡き後に息子夫婦をも不幸な出来事で亡くし、残ったのは幼い孫息子だけだったからだ。孫息子が成長するまでの間、爵位を守ってくれている。上品で控えめな老婦人だ。
「学院長と先生方で何か実験をされていて、それが火元だろうという見解でした。こんなことで尊敬する恩師を亡くすなんて、本当に痛ましい事故です」
建物は建て直せたとしても、教員が足りない。仮校舎であろうと、学院で学べるようになるまでに最低でも一年はかかる見込みだという。卒業予定だった生徒は前倒しで卒業ということになった。もちろん、テレンツィオが首席で卒業したというわけだ。
「ええ、本当に。逃げ遅れた生徒もいたというから、親御さんの悲しみを思うと遣る瀬ないわ。子を亡くす親の気持ちが私にはよくわかるから、彼らの魂が天の御許で救われますようにと毎日お祈りしているの」
祖母は今時珍しく敬虔な人である。そうなったのも仕方のないことかもしれないが。
テレンツィオの両親は馬車での移動中に金銭目当ての暴徒に襲われ、御者ともども金目のものを剥がれて殺された。この時テレンツィオはまだ子供であったから情けで殺されなかった。両親は死に、テレンツィオだけが生き残っている。
――テレンツィオに事件当時の記憶はない。
「おばあ様のお優しい祈りを神様はきっと聞き入れてくださいますよ。私もおばあ様を悲しませるようなことは致しません。どんな窮地も切り抜けておばあ様のもとへ戻ります」
祖母はテレンツィオを溺愛していた。テレンツィオもそれをよくわかっているから、この祖母にだけは優しく接するように心がけている。
「そうしてくれたらどんなにいいか。ねえ、ティオ、どうしても宮廷に上がるつもりなの?」
これを言い続ければ、いずれはテレンツィオが折れてくれるのではないかと期待しているのもわかる。けれど、テレンツィオにそのつもりはない。
「危険がないとは申しません。けれど、位高ければ徳高きを要す、と昔から言い聞かされて育った身としては、危険だからこそ立ち向かわねばならないと思うのです」
それを言われると、祖母はやはり自分の気持ちばかりを前面に出して引き止めることはできないのだ。しょんぼりとしてしまう。
「そうね、ごめんなさい。年寄りの繰り言ばかりではあなたを疲れさせるだけね」
「いいえ、私を案じてくださっていると知っています。大好きなおばあ様」
「ティオ……」
――と、祖母は非常に扱いやすい人である。
ずっと、この会話をしている間、壁際で冷めた目を向けてくる悪魔が気にならなかったわけではないけれど、とりあえずテレンツィオはいないものとして扱っていた。
何せ、祖母には見えていないようだから。