*18
「ティオ、朝だ」
そんな呼び方をしていいなんてひと言も言っていないのに、ジルドは勝手に呼び続ける。
嫌々顔を上げると、すっかり身支度を整えたジルドが真横に立っていた。寝起きの不機嫌な顔を向けても怒らない。
ジルドは妙に朝が似合う。朝寝坊などしたことがなさそうだ。
夜型のテレンツィオには理解できない人種である。
「険しい顔で寝ていたが、緊張しているのか?」
緊張しているとしたら、それは任務のせいではない。お前のせいだ。
「さあ。寝ている時の顔まで責任取れません」
腹立ちまぎれに言ったが、ジルドは快活に笑っただけだ。
「それもそうだな。さあ、着替えて朝食だ」
「朝食は食べない主義です。お一人でどうぞ」
信じられないことを言われたとばかりにジルドは瞬いた。まつ毛の長さでも自慢したいのか。
「朝食を食べないと倒れるぞ」
「倒れません」
「夕食だってそんなに食べてなかったのに」
「私にしてはたくさん食べた方です」
「本当に要らないのか?」
「最初から要らないと申し上げているのですが」
ジルドは残念そうに部屋を出ていった。疲れる男だ。
朝食が要らないというより、一人で着替えをする隙がほしかった。ジルドを部屋から追い出したかったのだ。
テレンツィオは念のためにシーツを被りながら着替えを済ませる。ひと息つくと二度寝しそうになった。
ウトウトしているとジルドが戻ってきた。手には何やらカップを持っていて、そこから湯気が上がっている。
「軽いものなら食べられそうか?」
そのカップの中身は乾燥キノコのポタージュだった。――要らないと言ったのに、おせっかいな男だ。
ジルドはいつでもこうなのだろうか。自分に憧れもしない、敬いもしない年下の男でも気遣うのだ。
昔馴染みだからか。それとも、事故で両親を亡くした可哀想な子だからか。
善良すぎて顔をしかめたくなる。
それでも、テレンツィオはポタージュを受け取って礼を言った。
「ありがとうございます」
そうしたら、ジルドはうん、と答えて微笑んだ。餌づけに成功したとでも思ったか。
ポタージュが勿体ないから飲んでやるだけだ。
ポタージュを飲むテレンツィオをジルドはニコニコして見守っている。
こういう男を世間では面倒見がいいと呼ぶのだろうか。鬱陶しい。
ノーゼたちはすでに繰り出した後だったのかもしれない。
テレンツィオは歩きながらジルドに訊ねた。
「さて、どこから調べますか?」
「人が多く集まる場所へ行こう。公園や広小路がいい」
「ガルダーラ教の司祭って、見たらわかります?」
「灰色のローブと、首からはメダリオンを提げているから見ればわかる」
町の中はのどかで、これといって怪しいところはなかった。
実際のところ、一番異質なのは悪魔と契約しているテレンツィオ自身だ。そんな自分が何かを探っているというのが笑えるなとは思う。
ここにフルーエティがいたらどうだろう。騒ぎになるだろうか。
けれど、フルーエティは常人には見えない。察知することもできないだろう。
そう考えたが、ふと気づく。
フルーエティを召喚したあの時、学院長たちにはフルーエティの姿が見えていた。一定以上の魔力があれば可視することができるのか。
それとも、フルーエティ自身が見せる相手を選んでいるのだろうか。
フルーエティ自身が多くを語らないから、わからないことだらけだ。
公園では、小さな子供がキャッキャと遊び回り、老人が日向ぼっこをしている。怪しい影はない。
いきなりしっぽをつかめるとは思っていないが、地道すぎて嫌になる。
「我が国は過去に、汚職の限りを尽くし堕落した聖職者たちを大量に処罰した。救われたいと願う心につけ入り、多くの金品を要求する聖職者たちが横行したせいで、人々の心は信仰から離れた」
ジルドがおとぎ話を聞かせるようにしてつぶやく。
「アンゴラ歴千三十一年『デズデーリの大粛清』ですね」
デズデーリというのは神殿のあった場所だ。丁度この大陸の中央辺りになる。今は打ち捨てられた跡地でしかないが。
三百年も経てば、もう当時のことを知る人間はいない。この国で――いや、大陸で信仰は失われた。人は神を忘れ、感謝することもなく気ままに生きている。
人々にはガルダーラ教団のような在り方が異質に見える。
そんな場所で今更信仰を説いて心動かされるものだろうか。この国に限らず、他の二国も同じようなものだ。宗教など時代遅れも甚だしい。
とはいえ、消えた人々がカルダーラ教徒となって山籠もりを始めたのだとしたら、それは本人の勝手だが。
「僕も信心深い方ではないが、何かにすがりたい気持ちになったら別なんだろうか」
ジルドはそんなことを言うけれど、この恵まれた男が何にすがるというのだ。挫折ひとつ知らないくせに。
テレンツィオは唾棄するように言った。
「私は神など信じません。いるのならば、どうして無垢な乳飲み子が死ぬのです? 親の罪ですか? それとも、前世の? いたところで、神は人を救いません」
――穢れているのは我が身だけで十分なのに、親の罪まで背負うのはまっぴらだ。
実の母がどうやって金を稼いでいたのか、テレンツィオは知っていた。ただ、その意味を正確に知ったのは母と別れてからだ。
顔立ちは美しかったし、年も若かった。その気になればいくらでも買い手がついた。ただし、そうした界隈では斡旋所を通さない私娼は見つかれば仕置きされる。母は罰を恐れて逃げたのだ。
多分、一人ではなかった。母の手を取った誰かと一緒だった。
食わせてもらったことに感謝すべきか。それでも、親の罪まで子が背負いたいわけがない。
テレンツィオの苛立ちを、ジルドはただ見ていた。
何かあると、すぐにこうして見つめる。それがこの男の癖だろうか。不愉快だ。
「神にも救いたくとも救えない命があるのだろうか。その分、人が人を救えたらいいな」
何を言っているのだ、こいつは。
あまりにおめでたくて、テレンツィオはジルドを突き飛ばして転ばしてやりたくなったが、そんなことをしたら残念ながら転ぶのはテレンツィオの方だ。自重した。
この男とは、何もかも嚙み合わない。
早く帰りたいと強く思った。
その時、ふと風に乗って声が聞こえる。
「――であるからこそ、今こそ我々人間は信仰を手に立ち上がらねばならないのです」
信仰を口にする以上、教団の者だろうと思って声がした方を見向くと、やはりそこには灰色のローブがいた。