*13
体が疲れ果てると、心まで脆くなってしまうのかもしれない。
ずっと見なかった夢が蘇る――。
『おい、ドブネズミ』
『っ!』
伸ばし放題の髪が、いつの間にか目に覆い被さり視界を遮っていた。
夏でも冬でも変わらない麻のワンピースは、今の暑さには丁度よかったけれど、少しずつ背が伸びていたから膝小僧が出るようになった。それでも着ていられるのは、栄養状態が悪く、太ることがなかったせいだ。
肘もかさついて、髪にも艶がない。だから余計にみすぼらしく、ネズミのようだと言いたいのだろう。
しかし、自分は人間だ。
間違ってもドブネズミではない。
父が死んで、引き取り手のなかった娘は孤児となって施設に収容された。
この時、父の魔術書だけは持てる限りカバンに詰め込んだ。他人にとっては禍々しい書物でしかなく、見つかれば焚書となるのがわかっていたから、簡単には手放せない。
やせ細った娘は、同じ孤児たちからも馬鹿にされた。けれど、胸の奥では火の花が咲いていた。
その炎を絶やさずにいたのは、憎しみという火種があったから。自分を馬鹿にするすべての人間にいつか復讐してやろうと決めていた。頭の中には魔術の術式が渦巻き、絶えず呪文を口ずさむ。
幼いその子供は、いつでも無邪気ではなかった。禍々しく、歪に育っていた。
その日も陰で虐められていて、寮の裏手でバケツ一杯の泥を頭からかけられた。口の中に泥が入り込み、嫌な味がした。吐き出しても、いつまでも口の中でジャリジャリと音がする。
『ドブネズミに餌をあげたんだ』
悪戯をした孤児の少年たちは笑い合って駆けていった。
泣くことはしなかった。泣いたら、それは敗北だ。馬鹿に屈したことになる。そんな自分は許せない。
火の花が色濃く、美しく胸で咲き誇る。
それでいい。いつか、その時が来る。復讐の時が。
『ああ! 君、その恰好はどうしたんだっ?』
とぼとぼと裏庭を歩いていると、施設の教員が駆け寄ってきた。
中途半端に乾いた泥が白く粉を噴いて、さっきよりもさらに見苦しかっただろう。
『誰かに虐められたのかい?』
そうだとも、違うとも言わなかった。
ただ無言で、無感情のままでいた。
そんな子供を、教員はゆっくりと井戸のある裏手へと連れていった。
もう何も訊かれなかった。無言で井戸から水を汲み上げ、それを少しずつかけて泥を落としてくれた。
この教員は父と同じくらいの年頃だったのだと思う。父よりももう少し背が低くて胴回りに肉があったけれど。
年の割に髪は薄くなりがちだったが、赤い頬がつやつやとして見えた。
『泥は落ちたけど。入浴しないと……』
たった一人のために湯を使っていいという許可は下りなかっただろう。
『大丈夫です』
そう言って、子供は伸ばしっぱなしの髪を絞った。濡れているから、ペタンとした塊になる。髪の隙間から覗いた顔を教員が見て、柔らかく微笑んだ。
『前髪を切ってあげよう。前髪が邪魔をして、そんなに可愛い顔をしているなんて知らなかったよ』
この時、人から初めて褒められた気がした。
父親でさえ、我が子を褒めることはなかったのだから。
子供は驚き、瞬いた。不快ではなかった。多分、嬉しかった。
その教員は、名をイゾラと言った。
それからも、イゾラは何かと子供を気にかけてくれた。彼が何か言ってくれたのか、他の子供たちからの嫌がらせは減っていった。子供は、この世にたった一人だけ気を許せる人間ができた。
だから、イゾラにだけは嫌われたくなくていい子の振りをした。胸の内に咲いている火の花が萎んで、花びらがチラチラと散っていくような気がしたけれど、それを惜しいとは思わなかった。
ごく普通の子供のようにイゾラと話し、笑った。
しかし――。
あれは七つになった時だった。
ある晩、珍しい星が見られると言ってイゾラが深夜に起こしに来た。眠たい目を擦りながらベッドを抜け出し、他の子を起こさないように部屋を出た。
施設に来てから、こんな夜更けに外へ出たことはなかった。イゾラと手を繋ぎ、彼が手に持ったユラユラと揺れるカンテラの灯りを眺めながら歩いた。
菜園の端に植えられた木の下に二人で腰を下ろす。星は――木の枝に遮られて見えなかった。
場所がよくない。それをイゾラに伝えようとしたが、隣で妙に荒い息遣いがした。聞いたこともないような音だ。
『あ、あの――』
声をかけた時、肩をつかまれ、地面に押さえつけられた。驚くほど乱暴に――。
『大きい声を出さないで。皆が起きてきてしまう』
この時、言いようのない恐怖が腹の底から競り上がってきた。どうしてイゾラが自分を虐めるのか。
人を恨む悪い子だと知られ、仕置きされているのか。
けれど、イゾラの手は慈しむように頬を撫でた。
『可愛い、僕だけの――っ』
覆い被さったイゾラの、大人の大きな手が、幼い体の形を確かめるように蠢く。吐き気がした。
なんとか覆い被さるイゾラの下からすり抜けようとした時、足首をつかまれ、引っ張られた。湿った手が足首に食い込み、恐怖が頂点に達した。
己の身を護れるのは己だけなのだ。
誰かを頼ったから、その報いを受ける。
人は皆、敵だ。
忘れるな、敵なのだ。
『――――!』
夢中で、魔術書の中の呪文を唱えた。
何万回と読み込んだ術式だ。完全に理解はできている。
人間を相手に使ったことがないだけだ。
躊躇いはすでになかった。
イゾラは、白目を剥いて倒れた。相手を眠らせるための術だったが、未熟な腕前では安らかな眠りではなく頭を殴って昏倒させたのと変わりないらしい。
ぜえぜえと、肩で息をしながらイゾラの下敷きになった足を抜く。その頭を思いきり蹴りつけた。何度も何度も、鼻血を出すまで蹴ってやった。
気分がほんの少し落ち着くと、もうひとつの技を試してみた。足りない魔力を補うため地面にルーン文字を刻み、イゾラが今夜の出来事を綺麗に忘れ去るよう幻術による暗示をかけたのだ。
――その術は大半が成功したと言える。ただ、それからイゾラは二十歳も三十歳も年老いたように忘れっぽくなった。
そして、その笑顔に対して二度と微笑み返すことはしなかった。
人が優しさを見せる時、そこには欲が絡む。それを教えてくれた。
いいや、思い出させてくれた。
あの時、忘却の術を繰り出しながら泣いた子供は、そんな自分を厭った。
「――おい」
呼びかけられ、ハッとして飛び起きた。
こちらが現実だ。今の自分は幼く弱かった頃とは違う。
もうあんな惨めな思いはしないで済むはずだ。
暗闇の中、フルーエティ自身が発光しているかのように見えた。灯りもないのに姿がはっきりと感じられる。
「どうしたんだ?」
テレンツィオが問い返すと、フルーエティはきまり悪そうに答えた。
「どうしたとはこちらの台詞だ。泣くほど夢見が悪かったらしいな」
「え……」
自らの頬に触れると、濡れていた。眠りながら泣いていたと。
いくら自分を鍛えても、意識のない時までコントロールしきれないらしい。それをフルーエティに見られたなんて最悪だ。
テレンツィオは涙を寝間着の肩で拭い、何事もなかったかのようにフルーエティに背を向けて再びベッドで横になった。しかし、そこでふと思う。
「お前、私がうなされていたから起こしてくれたのか?」
「それがどうした?」
「悪魔らしくない」
悪夢を見せるのならばまだしも、悪夢から救ってくれる悪魔など聞いたこともなかった。
「それを言うなら、お前は人間らしいとでも?」
どこか笑いを含んだような声だった。
――人は皆、敵だ。
自分には味方などいない。優しい顔をした人間に騙されるな。
そうやって生きてきた。
けれど、悪魔は。契約に縛られた悪魔はどうなのだ。
裏切らずにいてくれるものなのか。
「フルーエティ、お前が人間でなくてよかった」
どうしてこんなことを言いたくなったのかわからない。嫌な夢のせいだろう。
「朝が近い。さっさと寝てしまえ」
心地よい声だと思えた。
人を惑わすほどに、悪魔の声は心地よい。




