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序章:「プルガトリオ-Purgatorio-」

 ――すべての希望を捨てよ。



「テレンツィオ・シルヴェーリ!」


 窓の外から、木々の色を映した柔らかな光が零れる。

 静粛なる図書室に、その声は相応しくなかった。

 老人が張り上げるしわがれた怒声に恐れおののく者は、この場にはいない。

 書架の裏側にいる鼠でさえも。


 黴臭さが漂うこの空間は、テレンツィオと呼ばれた若者にとって聖域だった。手が届かぬ、天井までも続く本の集合体。密集した本の背を眺めているだけでも時を忘れてしまう。


 その美しさ、知識の息遣い。すべてが完璧だった。

 この世の中で好きなものがあるとすれば、それは本であり、知識だった。間違ってもこの醜い老人ではない。


 体を動かすことを何より嫌い、その上暴食気味で贅肉を溜め込んだ腹が茶色のローブを突き破らんとしているように見える。あそこに詰まっているのは、この老人の罪深さだろうか。

 だとするのなら、あの腹を裂いて底に溜まった汚泥をすべて流してやろうか。

 テレンツィオは侮蔑を込めた目を師に向けた。


「はい、ダルボラ先生。私はここにおります」


 書架に掛けた梯子の上からテレンツィオは藍色のローブの裾を払って振り向く。ひとつにまとめた長い灰褐色の髪がふわりと広がった。

 何者にも臆さない琥珀色の目はいつでも揺らぐことはない。十七歳にしては線が細く整った顔立ちは、男子生徒たちの中でひと際異彩を放っている。

 しかし、誰もテレンツィオを侮ることはない。むしろ、その価値を知る者こそ恐れて近づかないのだ。


「お、お前は私の教え子ではないのかっ? 何故このような――」


 ダルボラが握り締めている紙がなんなのか、テレンツィオはよくわかっていた。だからこそ、(わら)った。

 梯子から下りることもなく、師を見下ろす。その目には一片の敬意すらない。


「私の書いた論文に誤りがございましたか? それでしたら、どうぞご指摘ください」


 冷たい夜風ほどに澄んだ声で答える。

 途端にダルボラは、そのまま卒中で倒れるのではないかというほど顔を赤くした。それを見て、いい気味だとしか思わない。もし本当に倒れたとしても構わないのだから。


 ダルボラは、五年前にテレンツィオがこの学院に入学してきた時から、目をかけているという名目で近づいてきた。

 それはテレンツィオの容姿が気に入ったからに他ならなかった。やたらと体を撫でようとする男にテレンツィオは警戒を解かなかった。

 ただし、笑顔だけは振り撒いておいた。テレンツィオには学びたいことがあったからだ。


 王立ウィンクルム魔術学院は、国で唯一の魔術を教える学府である。テレンツィオは本格的に魔術を身に着けるためにここへ来たのだ。何も学ばぬうちから教員に敵視されては元も子もない。

 だからこそ上手く立ち回った。特別を装って、気を許している素振りを見せつつも、手の届く位置には立たなかった。


 そうして月日を重ね、テレンツィオは最高学年に達した。あとひと月もすればここから旅立てる。

 もうこの老人から搾り取れるものはない。すでに用済みだった。

 ダルボラにはこの図書室ほどの溢れる知識もなければ、才能も技術もない。そう思うようになるまで初対面から一年と経たなかったのに、よく今まで辛抱できたものだ。


「こっ、このように邪悪な論文をよくも出せたものだ。何故真っ先に私に提出しなかったっ? 私の顔に泥を塗りおって!」

「邪悪ですか? 魔術を扱う我らにとっては力がすべてではありませんか? たとえその力がどのようなものであろうとも」

「よ、よくも抜け抜けとっ」

「心外ですね。抜け抜けとというのは、先生のような方の言動を差すのでは? ほら、私と同学のマヌエレに、魔力の流れをよくすると言って何度も体に触れて施術しましたよね。彼は落第すれすれの劣等生で、藁にもすがりたいところでしたからなんでも信じましたが、私はそのような施術には根拠がないと思います。論文のテーマはこちらの方がよろしかったでしょうか?」

「なっ、何を言い出す……っ」

「マヌエレが私にも施術してほしいと言って擦り寄ってきたのですよ。もちろん――手厳しく断りましたが」


 その後、マヌエレは泣きながら謝った。憧れていた、好きだった、才能がないとわかっているけれど君といたいから学校に残りたい――虫唾の走る言葉を撒き散らす少年に、テレンツィオは完膚なきまでの冷徹さで心を砕いた。

 そして、彼は自主退学した。


 弱き者は去れ。己を研鑽できぬ者に価値はない。

 テレンツィオは少しも悔いていなかった。


「私がそのようなことをするはずが――」


 しなびた肉を震わせながら吠える老人に、テレンツィオは優美に微笑んだ。棘のある花のように。


「まあ、この話はもうよいでしょう? 先生は論文の件で私に仰りたいことがおありのようですから」


 助け船を出したつもりはないのだが、ほっとしているダルボラはやはり愚かだ。


「あ、悪魔などというものは(わざわい)をもたらすのだ。このように危険な思想を掲げる生徒がいては困る」


 それを聞き、テレンツィオは思わず吹き出してしまった。それが本心でないことくらい見ればわかる。


「ではその論文は燃やしてしまいます。どうぞこちらへ」


 手を伸ばすが、ダルボラは論文の一枚を差し出さない。チラチラと手元を窺い、そして引っ込める。


「これは私が処理しておく。あまりに……危険だからな」

「そうですか」


 あっさりとテレンツィオが引き下がったから、ダルボラは拍子抜けしたようだった。

 ダルボラはこの論文が惜しいのだ。悪魔について述べた論文を邪悪だと非難してみせたが、実際のところはよく書けている。だからこそ、自分の名で発表したかったのだろう。それをさせないようにテレンツィオが他の教員の目にも触れさせたのが気に入らないのだ。


 そのまま使えずとも、まだ利用価値はあると思っている。だからこそ、テレンツィオにこの論文を発表させず、時をずらして使えたらと考えているらしい。そんなことしか思いつかないから、いつまで経っても侮られるままなのに。


「どうぞご随意に。――ただし、その論文には書き損じがございまして。少し読めば子供でも気づくでしょう。どこと申し上げますのは先生に対してあまりに非礼。いえ、処理されるのでしたらそもそもが修正の必要もございませんね」


 言い終えると、テレンツィオは堪えていた笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。くつくつと笑っていると、ダルボラは憎しみを込めてテレンツィオを睨めつけた。


「美しい顔をして、悪魔というのはお前のような者のことを言うのだろうな」

「それは誉め言葉でしょうね」

「いい気になるな。才走った若造が辿る末路など知れておる。お前は大成することなく散る。必ずだ」


 まるで呪いの言葉のように吐き捨てる。

 それでも、テレンツィオには少しも響かなかった。

 テレンツィオとこの老人とでは覚悟が違うのだ。年など関係ない。この甘えた老人が得られなかった力をテレンツィオは手に入れる。それこそ、必ず。


「ご高説承りました」


 立て板に水と感じたのか、ダルボラは象のような足音を響かせながら図書室を出ていった。その歩みが埃を立たせ、はらはらと舞い散る。

 テレンツィオは静かに瞑し、己の可能性を信じた。





 テレンツィオは五年間、学年主席だった。その座を明け渡したことは一度もない。

 優秀な生徒には一人部屋が与えられるのだ。その優待を愚かな同級生たちに譲ってやるつもりはなかった。


 テレンツィオの寮室に荷物が多いとは言い難い。本当に大事なものだけを持ち込んだだけなのだから。本当は、たくさんの本を持ってきたかったが、置き場がない。

 それから、他人の手に渡る危険も考慮した。本には知識が詰まっていて、それが与えてくれる恩恵は他人にも及ぶ。


 だからテレンツィオは父が遺した書物のほとんどを頭に叩き込み、燃やした。あの日、燃え盛る炎を眺め、テレンツィオは涙した。

 本が燃えていく切なさ。父の遺品が消えていく悲しさ。

 然れども、パチパチと火の粉が散るその中にもテレンツィオは魔術の煌めきを見出していた。


 ――やあ、おチビさん。


 悪魔が幼いテレンツィオをそう呼んだ。

 父が召喚した悪魔だ。悪魔は魔法円に縛られ、その外へは出ない。そう、術者の力が及ぶ限りは。


 荷物の整理をしながら、ハッと我に返った。

 感傷的になってしまうのは、卒業が近いからだろうか。

 テレンツィオは学院を卒業後、魔術師として宮廷に上がる予定をしている。五年間首席で通したテレンツィオを待ち望む声は大きい。


 しかし、テレンツィオにとってそれは足がかりに過ぎないのだ。魔術師として名を上げる。それだけのために生きている。

 テレンツィオには時間がないのだ。凡夫たちと仲良く足並みを揃えている場合ではない。


 ――忌まわしい体を捨て、好きな自分になれたらいいのに。





「テレンツィオ・シルヴェーリ。学院長がお呼びだ。来なさい」


 寮室の扉を叩きながら若い教員が言った。

 ダルボラが何か告げ口でもしたのだろうか。

 まあいい。どんな時でも身を守る術はいくらでもある。話を聞こう。


「――はい」


 テレンツィオは部屋から出て灰色のローブの教員の背中に続いた。

 コツコツと、廊下に敷き詰められたタイルの上を歩く足音だけが夜間に響く。

 教員はテレンツィオがついてきていることを何度か振り向いて確かめた。この教員の表情は硬く、それがまたよからぬ予兆に思えた。多分、そうなのだろう。先に待つのは叱責か、懲罰か。


 では、何か。ダルボラを敬い、望まれるままに体を撫でさせてやれとでも言うか。あのしなびた手が服の下を這いずり回ると考えるだけで吐き気がする。

 学院長は人格者で通っていた。ダルボラの肩を持つとは思わないが、人など欲に塗れた生き物だから信ずるには足らない。


 気をしっかりと持ち、油断するな。

 いついかなる時も頼れるのは己のみ。

 周りは敵だ。すべての人間は敵なのだ。

 ふぅ、とひとつ息をつき、テレンツィオは学園長室の扉の前に立った。


「学院長、シルヴェーリを連れて参りました」


 教員の声が緊張に震える。それに対し、中から返った声は落ち着いていた。


「入りなさい」


 テレンツィオは他人からどう謗られようと恥じ入るつもりはない。顔をまっすぐに上げて開かれた扉の奥を見据えた。


 しかし、中には誰もいなかったのだ。マホガニー材の机が大仰に置かれている。夜だが少しも暗いと思わないのは、壁のタイルが薄青く発光しているからだ。

 声がして、中にいると思ったのだが、いない。学院長はどこから語りかけているのだろう。


「さあ、奥の扉を開きなさい」


 学院長室の机の奥には扉がある。私室だろうと思っていたのだが、違うのだろうか。

 教員に促されるまま、テレンツィオは奥へと歩む。開かれた扉の奥は同じように発光するタイルが敷き詰められていた。


 その部屋は広く、何をする部屋なのかもわかった。この部屋では魔術を使ったところで外に漏れない。壁には魔耐性のある石を張り巡らせてある。

 ここで力が試されるのだとテレンツィオは悟った。

 しかし、立ち合うのは学院長ばかりではないらしい。八人もの教員がいた。古参の者ばかりで、ダルボラもいた。勝ち誇った顔をしている。それでもテレンツィオは何も動じるところはなかった。


「テレンツィオ・シルヴェーリ君。夜遅くに呼び立ててすまないね」


 年を取り、ダルボラのように堕落する者もあれば、さらに研ぎ澄まされる者もいる。学院長ピエリーニは後者ではあった。髪は白く肌は皺だらけになったが、英知を求め渇望することをやめない。それはテレンツィオにも通ずることだ。

 学ぶことをやめたら人は獣と同じ。知者には勝てない。


「いえ、私になんの御用でしょうか?」


 この面々に囲まれ、扉を閉められてもテレンツィオは臆さなかった。細い脚でしっかりと立っている。

 それもまた、ダルボラには気に入らぬところだろう。

 学院長はほんの少し悲しそうに告げた。


「君は間違いなく不世出の天才だ。君の存在は魔術界の発展を何十年と進めるだろう。しかし、急速な発展は滅びへの加速だ。君は危険すぎる」


 あの論文が危険だと、学院長も言いたいのだろうか。

 あんなものはごく一部に過ぎず、テレンツィオが持つ知識はもっと深い。瓶の淵から覗き込んだだけで底まで見通せもしないのに怯えるとは滑稽だ。


 テレンツィオは口角をゆっくりと持ち上げて笑った。


「他国に亡命でもしたのならば危険でしょう。けれど、私はここにおります。この国にとって私は害ではないはずです。どんな力も操ることさえできれば強みなのですから」


 しかし、学院長は納得しなかった。


「思い上がるでない。君のような若者は危険だと言うのだ。君はいつか禍を呼ぶ」


 その目を見た時、テレンツィオは初めて自分の置かれた状況を正確に呑み込んだ。

 学院長の目。知を探求する術者の目。己の限界を知り、絶望する目。他者の才能を憎む目――。


 学院長は魔術師として天才だった。だからこそさらなる才能を前に妬むのか。消してしまえと、その芽を摘み取ってしまえと命じる心に従うのか。


「……私を消すのですか?」


 ポツリ、とテレンツィオは言った。

 学院長は繰り返す。


「君は危険だ」


 ――そうか。

 お前が悪いと言いたいのか。


 八人の魔術師を相手に、いくら首席とはいえ一介の学生が太刀打ちできるはずもない。正攻法では防ぎきれないのもわかっている。

 テレンツィオが姿を消した理由を、学院長は世間になんと言って説明するのだろう。

 彼は禁術に手を出し、よって退学処分と科した――そんなところか。

 まさか教員たちが寄ってたかって葬り去ったとは言わないだろう。死体は消し去られ、テレンツィオは行方知れずだ。


 教員たちの手から炎が現れ燃え盛る。

 その炎は嫉妬の炎。この場の誰もがテレンツィオを妬んでいる。知を探求する魔術師だからこそ、他人の才能に寛容ではいられない。

 稀代の天才と謳われたピエリーニ。それを上書きする名を忌み嫌う。


 テレンツィオは腹の底から笑いが込み上げてきた。この時に笑うテレンツィオを気がふれたのだと思っただろうか。

 しかし、そうではない。テレンツィオは心の底から可笑しくなったのだ。

 この愚かな老人たちのことが。


「では、その禍とやらを()んでお見せしましょう」


 テレンツィオの台詞に、誰もがハッと息を呑んだ。


「馬鹿な。召喚術など不可能だ!」


 教員の一人が叫んだ。


「どうしてですか? あなたができないだけでしょう? 私にはできます」

「魔法円も生贄も、祭壇も何もない。この者のはったりだ。真に受けるな」

「それを凡夫の負け惜しみと言うのですよ。さあ、その目でお確かめください。私の術を」


 ――この時、まったく緊張しなかったとは言わない。

 口の中は乾いていたし、指先は冷たく、心音は乱れていた。

 それでも、それらは恐怖から来るものではない。この老いぼれたちからは何も感じない。

 テレンツィオがずっと焦がれてやまなかったものを喚ぶ。その悦びが血の中で猛り、踊り狂っていた。


 魔法円とは、地面に描き出すものではない。描かねば術が行使できぬのならば、それは無才の証だ。自分の中に答えがあれば、それは迸るように魔力が形作っていく。

 テレンツィオの目視できるほど濃い魔力が、青白い光の筋となって浮かび上がる。何万回と記憶した魔法円、その名。

 一切の瑕疵はない。


「――上級悪魔六柱が一、大悪魔フルーエティ、我が求めに応えよ!」


 大悪魔フルーエティ。

 それは魔法書(レメゲトン)によると、人々が暮らす大陸をも滅ぼしたとされる残虐な悪魔である。


 その強大な力を人が使役できるものなのか。

 答えが応であると証明して見せよう。

 テレンツィオは、そのために生きてきたと言っても過言ではないのだから。


「大悪魔フルーエティだと!? 馬鹿な!」


 ダルボラが叫んだ。けれど、わかっていないのは彼だけだ。

 学院長を含む他の教員は、目にしたテレンツィオの魔法円に目を奪われ、驚駭に震えている。必死で綻びを探している。


 しかし、そんなものはない。

 悪魔は来る。この呼び声に答える。


 稲妻が部屋の中に落ちたような衝撃があった。思わず腕で顔を覆い、その手をどかした時、テレンツィオの隣には確かに人影があった。この部屋の中で十人目の影が。

 テレンツィオは赤い唇に勝ち誇った笑みを浮かべた。


 青味がかった長い銀髪、軽く尖った耳、漆黒の闇のような服は体に沿った作りをしている。その白皙の顔は、テレンツィオが知る誰よりも美しかった。この紫水晶のごとき瞳をずっと眺めていたいとさえ思わせる。


 悪魔は来たれり。

 

 すべての希望を捨てよ。

 この世はもはや煉獄だ――。


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