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妊娠や自殺といった表現がございます。苦手な方はお気をつけください。
このページを飛ばされた方用に、次回の最初に要約を付け加えます。
うちは母子家庭で、近くに住んでる母方の祖父母の家を行き来しながら育ったの。
母さんは二十五で父さんと結婚して私を産んだんだけど、父さんと少し色々あって、憎み合いたくないからって、円満に離婚したんだって。
子供の頃は月一くらいで父さんと会ってたけど、それもいつの間にかなくなっちゃった。私が中学校に入って忙しくなった頃だったと思う。休日も部活だったりで会うのが難しくなったんだよね。二度三度続くと、それから父さんも誘いにくくなったのかあまり連絡をくれなくなって、それきり。
でも、母さんもおじいちゃんもおばあちゃんもいたし、参観日も体育祭も卒業式も入学式も、ずっと、誰かが時間を合わせて来てくれていたから寂しいとか思わなかったよ。
春は家族でお花見をしたし、夏は母さんや友達とプールに行ったし、冬は皆でこたつでミカンを食べたよ。それがとてもとても、幸せな時だったんだよね。
みんな、笑ってた。
地元の高校に入学して卒業して、進学せずに就職したの。
就職先で、年上の優しい上司に会ったんだ。
株式会社シンジョーの社長の息子で、新城正樹さん。
最初、資料室から資料を持ってきてくれって先輩に頼まれて、カート使えばいいのにそんなこと考えもつかなくて、一人で重い〜って運んでたの。そこで声かけてくれてさ。
「きみ、大丈夫? こんな重いもの一人で持っちゃダメだよ。資料室はさ、あ、ほらここだ。ここにカートがあるから、これを使っていいんだよ」
そう言って、資料室の端っこに片づけられていたカートを出してくれて、部署まで持っていくのを手伝ってくれたの。
最初誰か全然わかんなかったんだけど、胸に下げてた社員カードに【専務 新城 正樹】って書かれててびっくりしちゃった! すっごく気さくで、めっちゃ話しやすかったんだもん。
この人が次期社長さんかーなんて考えた。優しいし、部下のこと見てくれてるし、いい人だなって。
それから、度々資料室とか廊下とかで会うようになっていった。この間はありがとうございました、いやいや大丈夫だよ、それより困ってることない? そんな、普通の会話ばかりしてた。
凄いなって。優しいなって。……そこで止めてたらよかったのに。
酷い台風の日だった。傘は持ってきてたんだけどそんなものじゃ何もできないくらい酷い雨と風で、下手に外に出たら飛ばされるんじゃないかなって思ってた。それで困ってた時にまた、新城さんが来てくれたんだ。
「え、台風で帰れなくて困ってる? じゃあ俺が送ってあげるよ」
って、地下の駐車場から高級外車に乗せて家まで送ってくれたの! 凄いでしょ!
それでお返しにって、美味しい紅茶のセットをプレゼントして、そのまたお返しにって食事に誘われて、それが三回目の時に、告白された。
好きだよ、って。
天にも上るってこんな気持ちだって思った。めちゃくちゃ嬉しかった。
大企業の社長子息と母子家庭の娘。絶対無理だってわかってたから、心に蓋してたのに、それでも惹かれていってたから。ダメだって、思ってたのに。
嬉しかったのも、本当だったの。
私も好きですって返して、自分の顔が赤い自覚があって正樹さんの顔、見れなかった。
その代わり、テーブルの上に出してた手に私の手を重ねて、ぎゅ、って。
この温もりが愛しい人の体温なんだなって、手だけなんだけど思っちゃって。
私よりも暖かい手が、すごくすごく、愛おしかった。
でも社内だし社長の息子だからってんで、もし私にやっかみが来たらダメだからって、付き合ってることは秘密にしてたの。それでも幸せだった。
だって彼は、会ってる間は誰より大切にしてくれたもの。とっても優しかった。
軽い残業を受けて、皆とは時間をずらして会社を出て、正樹さんと待ち合わせてご飯を食べに行ったり、ホテルに行ったりしてた。
そんな時、妊娠がわかった。生理が先月も来なかったなーって、一応妊娠検査薬を使ってみたらビンゴ。赤いラインが、目に映るくらい、何度も見返したよ。
嬉しい、それしか考えられなかった。
その頃ちょっと正樹さんの仕事が忙しくなっててあんまり会えなかったんだけど、やっと落ち着いたからって久しぶりに会えたから言ったんだ。
正樹さんに伝えてから一緒に病院行こうかなって思ってたから病院も行ってなくって、自分の体調とか、全然気にしてなかったんだ。何も知らなかったの。
「あのね、赤ちゃんができたの。私と正樹さんの赤ちゃんだよ」
喜んでくれるって、思ってた。
でも。
「は? 子供? ふざけんなよ。お前なんかただの遊びなんだよ、さっさと堕してこい」
いつも優しく笑ってたはずの顔が、歪んだの。
それで続けたんだ。
今、本命と結婚するためにとりあえず身辺整理中だったって。私のことも最後に遊んで捨てるつもりだったって。子供なんか邪魔でしかないって。
嘘だよ。なんで? だってあんなに優しかったじゃない。
そう言ったらさ、そりゃそうだろ、バカらしくて笑うしかなかったからな。社会に出たばかりで男に慣れてなくて、ちょっと優しくしたらころっと騙される。バッカだよなぁ、って歪んだ顔で笑うの。
……そっから後はもう、覚えてない。
家に帰って寝て、朝になって仕事に行って、仕事が終わったら家に帰って、繰り返し。
輝いてたはずの世界はすっかり色褪せちゃった。
そんな状態でまともに動けるわけがなくてさ、仕事ではミスを連発して先輩が気遣ってくれるし、家ではご飯が食べられなくて母さんに心配かけて。
どうしようどうしよう、って思ってるうちに、お腹はどんどん大きくなってった。
え、どうしようってまた思って、とりあえず病院行かなきゃ、って思って行ったらさ、妊娠二十三週ですねって。
知ってる? 妊娠二十二週以降は堕したりできないの。法律で決まってるんだって。
だから私、堕すことも出来なくなって、妊娠がわかった時は喜んだはずの思いは、もうこの時、私の中に残ってなかった。
どうしよう、それしか考えられなかった。
どうしようどうしようって頭の中ぐるぐる回るの。
気がついたら目の前もずっと、『どうしよう』って見えてくるようになった。
そんな時ね、文字の隙間から見えたんだよ。
たくさんの人が出入りする建物。多くのものが行き来する場所。
そう、駅。飛び込んだらどうなるかなって。
会社への通勤で定期券持ってたからそのまま改札通ってさ、階段上がってホームに出るの。
ホームって風がよく通る。私、この風、好きだったな。
『二番線に電車が通過します。黄色い線の内側までお下がりください……』
声に従って見てみると、電車が向かってきてた。この駅には停車しない、通過するだけの電車だった。
速いなって思って見てたんだよ。
本当に。ほとんど何も考えてなかったの。
ただ、──引き込まれただけ。
甲高いブレーキ音が聞こえて、目の前が真っ赤に染まった。
これって走馬灯っていうのかな、花見をして、プールに行って、こたつでミカンを食べて……。
みんな、笑ってる。
目の裏に映ったのは、 か あ さ ん ……?
泣 い て る の ……?
──ココハドコ? イタイ、イタイ、イタイィィィ……!
ア、ア、アアアァァァ……!
光ガアッタハズナノニ消エチャッタ!
光……光ハ、ドコ……?
アイツガモッテルノ……? ジャアアノ女……?
ドコ、ドコ、──ドコオォォォォォ!!
「須藤美也さんという方だそうです。株式会社シンジョーの総務課に勤めておられました。しかし、ある日を境に仕事が手につかなくなり、先輩が話を訊くと、新城さんと付き合っていたが捨てられたと泣いたと。……数日後に駅のホームから電車の前に……」
プロポーズされて、世界は輝いていると思っていた。
それが偽りだったのだと知らされた時、人はどれほどに冷静でいられるのだろうか。
真由美の顔色が青を通り越して白に、白を通り越して土気色になるのを見つめながら、ミコトは、彼女の心が弾けたような音を聞いた気がした。
明かりを灯しているはずのリビングが、何故か、酷く昏かった。
時は止まらず刻まれているのに心は閉じていくのだ。