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第五話『人を殺すに足る理由とは?』



「――――そうして、友人は最後の仕事のために何処かへと向かった」


 ここで男は再び話を区切った。


「ここから話は終わりまで一直線だ。

 しかし、おれは一人の青年の話を加えたい。この話の本筋には一瞬しか現れない。しかし、確かに大切なもう一人の人殺しの話だ」


 * * *


 彼が初めて人を殺したのは十歳の頃だ。


 殺したのは自分の母親だ。


 彼の母親は彼が赤ん坊の頃から少しでも泣き声を上げれば、頬を腫れあがるまで叩き、それでも泣き止まないと顔を水に沈めるような母親だった。


 だから、生後すぐに彼は一切泣かない赤ん坊になっていた。


 父親はいなかった。大方、母親が酔っぱらって肉体関係を築いたそこらの母親と同類のオスの誰かだろうと彼は言っていた。


 泣かない子供に満足したらしい母親は、その後時たま母性が湧いた時にだけ彼を可愛がり、それ以外の時はいないものとして扱った。


 普通の赤ん坊ならば、一か月も生き延びられないだろうその環境を彼は生き延びた。


 彼は特別に早熟だった。


 彼はボロボロのアパートで胎盤とべたべたの体液にまみれて生まれ、へその緒が錆びついたハサミで切られた時から歯が生えていた。一週間もしない内に、短い手足を賢明に使って這い進むことが出来るようになっていた。


 そうして、彼は窓ガラスに付着した水滴や母親が床に捨てる牛乳パックの底に僅かに残った牛乳やパンの袋についたクリームやパンくずを食べて生き延びていた。


 それだけの食べ物で彼が栄養失調で死にそうになりながらも動き回れるようになるまで生き延びることが出来たのは奇跡という他ないだろう。それが誰にとっての奇跡で、奇跡が幸福なことであるのならば誰に対して幸福を運んだ来たのかは一考の価値があると思うが。


 生後三か月になり、立ち歩きが出来るようになると彼はより広い範囲ーーーと言っても狭苦しいアパートの一室だが―――から食べ物を得ることが出来るようになっていた。


 食べ物は変わらず、窓ガラスの水滴やそこかしこに捨てられた牛乳パックやパンの袋のクリームやパンくずだったが、成長する身体が生きるために必要な分だけは得ることが出来ていた。彼は自分は覚えていないが、空腹に耐えきれず部屋に迷い込んだ虫も食べただろうと言っていた。


 しかし、彼が立ち歩くこととゴミを食べることを母親は「目ざわりだ」「気持ち悪い」と言って、顔が腫れあがるまで叩かれてからは母親のいない時以外、彼は部屋の隅で丸まって空腹に耐えていた。


 勿論、ゴミを食べることを「気持ち悪い」と言っても母親が彼に食べ物を買ってくることはなかった。


 彼は食べ物を集める時以外は、付けっぱなしになっている赤黒く点滅し、カーテンを閉め切った部屋の中を照らすブラウン管テレビを見ていた。


 付けっぱなし以外を見ることが出来なかったのは、自分で付けると母親が烈火のごとく怒りだすからだ。しかし、少ししてばれなければ怒られないことに気が付くと、母親がいない間に勝手に付けて外の音に耳をそばだてながらテレビを見ていた。


 テレビの中で動く映像と発せられる音を彼は最初理解することが出来なかった。


 ただ、母親から何も与えられず、全てを自分で得るしかなかった彼にとってテレビだけが意味が分からなくても何かを与えてくれる唯一の存在だった。


 テレビで言葉を理解し始めると、彼はテレビから多くのことを学んだ。


 この部屋の外にも世界が広がっていること。一般的な道徳。正義感。自分のいる国の名前。服を着ること。トイレの水を飲むことは汚いのだということ‥‥など全てのことはテレビから学んだ。


 彼はテレビを見て、夢を持った。


 いつか水道の蛇口に背が届くようになって綺麗な水を気が済むまで飲むこと、そして玄関の鍵を開けられるまでに背が大きくなって外の世界に出ることだ。


 蛇口から水を飲むことが出来るようになったのは三歳の頃だ。

 台所の引き出しに持ち手に手や足を引っ掛けて登ることが出来るようになったからだ。思うままに水を飲むことが出来るようになったあの日のことは今でも忘れられないと言っていた。


 外に出ることが出来るようになったのは、それから更に二年後だ。

 玄関は台所よりも足を掛ける取っ掛かりが少なく、下の鍵の持ち手に足を乗せて上の鍵を捻ることが出来るようになるまでにそれだけの時間が必要だった。


 ただ、彼は外に出られるようになったからと言ってすぐに家を出ることはなかった。


 テレビを見て、裸で外に出ることはダメだと知っていたからだ。


 最初は母親が見向きもしなくなった服を体に巻き付けて肌を隠そうと考えていたが、寒い冬の日に母親が見向きもしなくなった服を巻いて寝ていた所母親にたたき起こされて殴られたことを思い出して止めた。


 彼はそう言えばと思い出して、ベランダに出て、隣の部屋のベランダを見た。


 普段ならば部屋の外に自分が出ることを母親が嫌うし、人のものを盗むことは悪いことだと分かっていたためにこんなことはしなかっただろうが今回は仕方がないと言って隣の部屋のベランダから子供服を盗んだ。


 盗んだ服を着たり、長く伸びた髪をさび付いたハサミで切ったり、身体を水道で洗うなどの身だしなみを整えてから彼は外に出た。でも、彼は外が怖くなってすぐさま部屋の中に引き返した。


 それから何度も外に慣れて行き、少しずつ遠くまで出ていくことが出来るようになった。


 ただ、母親が帰ってくるまでには必ず部屋に戻っていた。


 母親以外の人間に初めて出会ったのもこの頃だ。


 初めて出会ったのは、だるだるに伸びた服に母親がいつも寝る前に飲んでいるあの苦手な臭いのする飲み物と同じ強烈なにおいを口から発するおばちゃんだった。少しボケている様子で「おんやー。隣の人は子持ちだったのかい」と言われたことを覚えている。


 こういう時、テレビでは子供は元気よく返事をするものだと学んでいたから、声を出して返事をしようとしたが、今まで声を出すと母親に殴られてきたために声の出し方が分からず、小さく頷くしか出来なかった。


 この頃から、身体が大きくなり水や母親の食べ残しではどうしても足りなくなり始めていた。


 彼は近所のスーパーや誰かの置きっぱなしの自転車の買い物カバンから食べ物やお金を奪うことを覚えた。それが悪いことだということを彼は良く理解していた。


 ただそうしなければ生きていけないために、彼は仕方がないと理由をつけて盗みを続けた。


 だから、十歳の頃に、母親を殺すと決めた時も仕方がないと思った。


 そうしなければ、この後の人生をまともに歩むことは出来ず、自分がまともな人間に成れる機会は訪れないと考えたからだ。


 殺し方はテレビドラマの探偵物や刑事物を見て考えた。

 包丁を手に取って、足を滑らせた子供の事故のように見せかけることにしたのだ。


 決行の日。彼は酒気を帯びて帰ってきた母親を足を滑らせた振りをして、包丁を母親の横腹に突き立てた。

 確実に死んだことを確認してから、隣のおばあちゃんに泣きつくつもりだった。


 しかし、ここで少し問題が起こった。


 涙が出なかったのだ。テレビでは、母親が死ぬと子供は泣くものだったのに。


 仕方なく、母親の目薬を瞼に貯めてから、隣の酔っ払いのおばあちゃんの家の扉を叩いて、おばあちゃんが出てくると何度も練習したセリフを言った。


「助けてください!お母さんに包丁が刺さって‥‥!!」


 そのままおばあちゃんの手を引いて、母親の死体の所まで連れていく。


 その間ずっと、お母さんなんて初めて言ったな、と思わず吹き出しそうになることを我慢していた。


 その後、警察が呼ばれて、死体が運ばれていったが事故で死んだことになった。誰も十歳の子供が明確な意志を持って実の母親を殺したとは思わなかった。


 それにそんな人一人が死んだことよりも、自分が戸籍も名前も無いことのほうが大きな騒ぎとなり、テレビでも報道されるほどだった。


 その頃には、青年の今とほとんど変わらない精神を持っていた彼にとってもその混乱と慌ただしさは凄まじく、その間の記憶はほとんど抽象的なものとしてしか残っていないほどだ。


 今となってはあの頃の全てが夢のように思えてしまう。唯一、母親の肉を刺し貫いたあの甘美な感覚を除いては。


 その後、彼は三年ほどしてとある優しい老夫婦に引き取られた。


 それ以来、彼は盗みも殺人もしていない。なぜなら、それをする理由がないからだ。


 孤児院で一度だけどうしてもお腹が空いて三時のお菓子を朝の家に少し摘まみ食いしたことはあったが、その程度は子供ならば一度はすることだろう。


 * * *


 彼が丁度大学生になった頃だった。


 彼は十分な食事を与えてくれて、勉学の機会も与えてくれる老夫婦にとても感謝していた。


 そんな彼の今の趣味は夜の散歩だ。


 夜風が心地よいという理由もあるのだが、彼は理由を探しているのだ。人を殺すに値する理由を。母親を刺したあの感覚が忘れられないのだ。


 ただ、今の日本で人を殺す理由なんてものはそう見つかるものではない。


 見つかるのは半年に一度未満で親と喧嘩した少年や家出少女程度のものだ。


 酷い虐待を受けているのならば今度こそ自分に人殺しの理由を与えてくれるかもしれないと勇んで話しかけるのだが、大したことのない喧嘩や思春期特有の仲たがいなどのしょうもない理由ばかりだ。


 話しかけた手前「はい、そうですか」と聞くだけ聞いて立ち去る訳にはも行かず、毎度解決しなければならない。その度に感謝されることは気持ちの悪いことではないのだが、それでもそんな理由で助けたのではないという物足りなさは残る。


 その日も彼はもう夜の耽った公園で街頭の光の端しか届かないベンチに座っている少女を見つけてしまう。


 自分の望んだものは得られないかもしれないが、それでも僅かな期待を胸に彼は少女の方へと足を向かわせる。


「初めまして。こんな夜にこんな所にいたら危ないよ。何か困ったことでもあるの?」


 鏡の前で練習した警戒されない優しい笑顔と声音で少女に話しかける。少女はうつむいたまま、こちらを見ようとしない。


 今までの子たちも最初はこんな風だった。


 彼は拒絶されないだけの距離を空けて、少女の座っているベンチにゆっくりと腰を下ろす。


 そして、細心の注意を払いながら、少女から言葉が引き出されることを待つ。


 どんな悩みでも人は誰かに吐き出してしまいたいものであって、それは知り合いよりも赤の他人である方が吐き出しやすいということは彼の持論だった。


 少女は何度か言葉を吐き出そうと小さく唇を開閉させる。彼は辛抱強く言葉が吐き出される時を待つ。


 そして、沈黙故に長く感じられたがそう長くない時間で少女は口を開く。


「‥‥お父さんとお母さんが殺されたんです。


 私が部活から家に帰った時には家の前にはパトカーが何台も止まっていて、警察の人が慌ただしく駆け回っていました。

 私がその家の娘だと言うと、警察の人は落ち着くように言ってから両親が殺されたことを教えてくれました。


 私は目の前が真っ暗になってしまいました。

 どうして、私のお父さんとお母さんは殺されなければならなかったのでしょう。あんなに人の良いお父さんとお母さんだったのに」


 殺された、という言葉に彼は自分の心臓が大きく跳ねるのを感じた。

 しかし、彼はそんな彼の心中を一切見せずに、身体を丸めてしくしくと泣き出してしまった少女に言葉を選んで話しかける。


「それでどこに行けばいいのかも分からずに、ここでうずくまっていたのかい?」


「いいえ。連絡を受けたおばあちゃんが急いで来てくれて、私はそのままおばあちゃんのお家に連れて行ってもらったんです。

 車の中でもおばあちゃんの家でも私は泣き続けちゃって、おばあちゃんはその間ずっと私を抱きしめて、背中をさすってくれました。


 その日、私は疲れて泣き疲れて寝てしまいました。


 一日経って、ようやくいつまでも泣いて悲しんでいるだけじゃだめだ。お父さんもお母さんも私が泣いていることなんて望んでいないと思って、頑張って生きることを決めたんです。


 それから三日後でした。

 朝刊をポストから出すと、一面にお父さんとお母さんの殺された事件が乗っていたんです。


 そこには、お父さんとお母さんは昔大学のサークル仲間の人と一人の女性をひき殺して、山に捨てたって書いてあったんです。そして、その三人は殺され、現場にはその女性の息子の指紋の付いた凶器が残されていたって。これは復讐だって書いてあったんです。


 私は怒りとむかつきで心が一杯になってしまったんです。二人はそんな人を殺すなんてする人じゃないのに、こんな嘘を書きやがって、って」


「その新聞は今どこに?」


 彼が尋ねると少女は暗がりの地面の方を指差す。そこには少女は怒りに任せてぐしゃぐしゃにした跡の残る新聞が転がっていた。


 彼はその新聞を拾うと、土を払って、少し皺を伸ばしてから読んだ。


 確かにそこには少女の両親を殺したらしい男の中学校の卒業写真と概ね少女の言ったことが、もう少し丁寧にだが毒のある調子で書かれていた。


 その記事を読むと、少女はその記事を嘘だと言ったが、彼は本当のことだろうと考えた。


 彼は新聞を含めメディアというものを大して信用していなかったが、何の証拠もなしにこんな内容のここまで断定口調の記事が掲載されるとは思えないからだ。


 そして、彼はその記事を読んで、少女は独白のように言った「どうして私のお父さんとお母さんは殺されなければならなかったのでしょうか」という問いに答えられる気がした。


 『復讐という人を殺すのに十分な理由があったからだ』と。

 勿論、そんなことを少女に直接言うつもりはない。


 ただ、彼は少女の耳元で優しく囁く。

「君は両親を殺した男を殺したかい?」と。


 少女は答える。

「ええ、とっても」


 彼はその言葉に内心では絶頂のように歓喜していた。


 少女からは見えないことを良いことに口角が上がることを止められず、いつもポケットの中に入れてある折り畳みナイフが熱く熱を帯びていくのを感じた。


 彼にはその言葉だけで十分だった。普段ならば考えただろう成し遂げるために必要な労力やリスクの計算すら頭から抜け落ちていた。


 長い間、探し求めた人殺しの理由が見つかったのだから。


 そんな時にだ。

「少し、良いかな」

 と公園の街頭の光の届かない所から男の声が投げかけられた。


 男は公園の荒砂を踏むじゃりじゃりという足音をさせながら、こちらへと近づいて来て、街頭の光の下にその身体を晒した。


 その時には彼は少女を庇うようにして少女と男の間に立ち、ポケットの折り畳みナイフを抜いて男に向けていた。


 それは男の顔に新聞記事の写真の面影を見つけたからではない。

 男に洗っても洗っても決して落ちることのない自分と同じ血の匂いを感じ取ったからだ。


 彼は自分が獲物を前にした肉食獣のような笑みを浮かべ、よだれを垂らしてることに気が付きすらしなかった。


 彼は眼前の男と言葉を交わして見たかった。

 同じ人殺しとして、同じサガを共有する者として語り明かして見たかった。


 ただ、今回の人を殺す理由が後ろの少女のために眼前の男を殺すというもののために今回は断念するしかなかった。


 彼は男が殺し損ねた復讐相手の娘を殺しに来たのだと考えた。それ以外の理由があったとしてもこの状況だけでその理由をこじつけるには十分だと判断した。


 そして、少女を守ろうとして護身用のナイフでうっかり殺してしまったと言うシナリオは十分に通用するものだと考えると、彼は喜び勇んでナイフを男の首筋目掛けて振り下ろした。



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