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第二話『寒い冬の日々』



 友人の母親が殺されたのは、友人が十五歳の頃だった。


 泥酔するまで酒を飲んで、暴走する三人の大学生の運転する車が夜まで長引いたパートの仕事を終え、くたくたの身体を引きずって帰ろうと横断歩道を渡っていた友人の母親を轢いたのだ。


 彼ら三人は事件を隠蔽しようと、山中に友人の母親を遺棄した。


 運んでいる時点ではまだ息があり、すぐに病院に運んだのならば助かったかもしれないのにだ。


 * * *


 苔むした団地の市営集合住宅。


 多くの家族が暖かな夕食の団欒を囲み終わり、安らかな眠りの中に入っていく時間。


 友人はいつまでも帰ってこない唯一の家族である母親のために作った冷え切った夕食にラップをして母親の帰りを待っていた。


 流石に深夜を過ぎても母親が帰ってこず、不審に思った友人は何か事件にでも巻き込まれたのではないかと警察に通報した。


 けれども、まだ事件は発覚していないために警察では袖にされ、既に山中に捨てられ冷たい土と同じ温度になっている母親が帰ってくるということは勿論なかった。


 それから、山にキノコ狩りに出かけた老人が山の浅い所でスコップなどの道具がなかったために土や落ち葉を少し被せられただけで捨てられている女性の死体を発見したのは二日後のことだ。


 更に、その死体遺棄事件と友人の通報が結びつけられ、友人が死体安置所でもう動かなくなった母親と友人が再会したのは事件発生から三日目の早朝のことだった。


 この時間間隔に間違いはない。


 なぜなら、その間学校に来てはいたが、ひどく落ち着きがなく、授業中に突然泣き出した友人のことは克明に覚えているし、友人が死体確認のためにマンションまで迎えに来たパトカーに向かう際、余りの動揺していたために一つ上の階で寝ていたおれが跳ね起きるほど激しい音を立てて友人が階段から転げ落ちたことは忘れようのないことだからだ。


 すぐさまその事件の捜査は開始され、犯人はすぐに捕まった。


 監視カメラのおかげだ。死体の捨てられた日に山に入った車を精査してみると、山の入り口にある監視カメラに映ってから、山の出口にある監視カメラに再び映るまでの時間が異様に長い車が目に付いたのだ。


 後は、その車のナンバープレートの数字から防犯カメラの映像を逆回しに追っていくと友人の母親がその車に轢かれる映像にまで容易に遡ることが出来たのだ。


 車のナンバーから車の所有者も割り出され、車の所有者だった男は捕まった。


 捕まった男は最初自分一人の犯行だと言っていたが、防犯カメラに映った車の中の影と死体を山に捨てることは何の準備もしていない男一人で出来るものではないと警察に絞られると、当日一緒に乗っていた友人とその恋人について話し、二人とも捕まることになった。


 友人は母親の死体を確認してからしばらくの間学校に来ることも同じ集合住宅に住んでいるはずなのに出会うこともなかった。


 事件の発覚から一週間ほどして、一度だけ友人は学校に来たが、朝に来てすぐに帰ってしまった。


 おれは話しかけたが、何も目に映らず、何も聞こえないというばかりに通り過ぎられた。


 おれは母親が死んだのだから当然だと思った。

 それに友人にとって、母親はただの生みの親であるという意味の母親では収まらないものだった。


 子供が父親や母親にべったりなのは珍しいことではないが、友人の場合はそれ以上だった。


 友人にとって母親は世界そのものだったんだ。父親は生まれた時からおらず、家族と呼べる人は母親しかいなかっただろうか。母親が生きる目的だったと言い換えても良いほどだった。


 小学生の頃から、母さんのためにたくさん勉強して、たくさんお金を稼いで楽をさせたやるんだと恥ずかし気もなく言う奴だった。


 おれはその日のホームルームで、友人の母親が亡くなって存在も聞いたことのなかった祖父母に引き取られるために転校するということを聞かされた。


 おれが事件のことを知ったのは、その時だ。


 家に帰ってから、事件について夕食の準備をしていた母に尋ねてみると、集合住宅の一階でいつも行われる井戸端会議で聞いたことをまるで自分が考えたことのようにもったいぶって事件の概要と勝手な推測を聞かされた。


 捕まるまでの事件の概要は後に調べたことも合わせて先に言ったことと変わりはなかった。

 母は続けて、勝手に刑罰についての予測も語り出した。


 車の所有者だった男は車を運転していて、死体を山に捨てることを最初に提案したために十八年。死体の運搬を手伝った男は三年は刑務所に入ることになるのではないだろうかとも言っていた。


 残りの女は何もしていないし、抵抗も出来なかっただろうから執行猶予で済むだろうと、男二人に比べてやけに甘い予測を刑事ドラマで執行猶予という言葉を知っていたが、実際にどういうものかは知らない母は語った。


 母の予測は実際の判決とは違うものだったが、話の筋を大きく歪める訳でもなく、それにあまり詳細に話して事件を特定されては困るから細かい点はここでは割愛しよう。


 母の話を聞いていた時、十八年とか三年とかの罰は人殺しの罪に対して果たして適切に釣り合うものかおれには分からなかった。


 今の年月を経て汚れてしまったおれにはより分からなくなってしまった。


 ただ当時のおれは、捕まってよかったな、と何も考えずにそう思っていた。


 * * *


 おれが子供の頃、最後に友人と出会ったのは友人が最後に学校に来てから一週間が経った頃だったと思う。


 とても寒く、しんしんと雪の降っている日だった。


 学校が終わって、エレベーターなんて上等なものは付いてない団地の市営集合住宅の外に突き出した階段を登っていると、強い風が吹きつけてきた。


 おれは反射的にマフラーに首を埋めた。


 すると、自然と視線が下に下がるために、下の階でしばらく会っていなかった友人の家の玄関が風で揺れていることに気が付いた。そして果たして、こんな風が強く寒い日に玄関を開けっ放しにしている人間がいるだろうかとおれは不信に思った。


 もしかしたら友人はもう何処かへ引っ越してしまったのではないだろうかという考えが頭の中を過った。


 学校で無視されてから、おれは友人と一度も話していなかった。それは友人が一度も学校に来なかったこともあるが、遠目から歩いている友人の姿を見ることは数度あった。


 しかし、おれは話しかけることはしなかった。それどころか、見つからないように隠れることすらした。


 何を話せばいいのか分からなくなってしまったからだ。


 今までそんなことはなかった。今となっては子供の頃に友人と何を話していたのかを思い出すことは難しい。それ位どうでもいいことばかりを話していた。しかし、生まれた時から当然のように隣にいた友人と意識しなければ話せないと感じたのはこの時が初めてだった。


 ただ、もう二度と会えなくなってしまうのかもしれないのならば別れの言葉くらいは言いたかった。


 おれはもう誰もいないのではないかと思いつつも、階段を降りて、友人の家の少し開いた玄関の隙間から中を覗き込んだ。


 部屋の中はカーテンで閉め切られていて、電灯もついていないために真っ暗だった。中には僅かな家具と段ボール箱が一つあるだけだった。家具と言っても傷だらけの安物のちゃぶ台と空っぽのプラスチックの洋服ダンスがあるだけだ。元々、貧乏で私物と呼べるようなものも少なく段ボール一つに収まったのだろう。


 引っ越す前という状態の部屋の中におれは友人を見つけようと玄関の隙間に首を潜らせると、暗闇の中に人が溶け込んでいることに気が付いた。


 その人間はこちらに背中を向けて、部屋の隅で小さくなり本を開いていた。


 その背中はおれには見慣れたものだった。足を折り曲げる体育座りの格好になり、膝の上に本を乗せて、背筋を丸めている姿は友人のいつもの格好だったからだ。


 教室の椅子の上でも公園のベンチでも何処だろうと友人はいつもその恰好で本を読んでいた。友人にはおれ以外に親しい友人はいなかったから、おれが呼びかけるのはいつもその背中にだった。読んでいる本も本を買う余裕なんてなかったから、いつも少し遠くの図書館や学校の図書室で借りた本ばかりを読んでいた。


 小学生の時、おれと一緒に上級生と喧嘩をしてぼろぼろにされた後も泣きながら、友人はその頃から変わらないその格好で借りた本を読んでいた。


 辛いことはそうして本を読んで、頭の中から洗い流すのだと言っていた。


 おれはしばらくの間、時間の感覚が無くなり、寒さも感じなくなってその背中から目を離すことが出来なくなっていた。


 時間が再び正常に流れ始めたのは、おれの僅かな衣擦れの音に友人が気づいてゆっくりとこちらを振り向いてくれたからだ。涙を流し切り流れなくなった跡が二筋顔にあり、何もかもを流し切って虚ろになった眼で友人はおれを見るが、おれだと認識するのに少しの時間が必要なようだった。


 友人は恐らく学校に来なくなってから洗っていない脂ぎったぼさぼさの髪に、食べ物も食べていないのか襟筋から覗く肋骨が浮いて見え、よれよれになった学校指定のシャツ姿だった。


「‥‥よ、よお」


 おれが戸惑いつつも声をかけると、「ぁぁ」という力のない漏れ出るような声と弱弱しい手招きを返される。


 重苦しい陰鬱さの漂う部屋の中に踏み入ることを少し躊躇うが、逃げ帰るわけにもいかず、小さく「お邪魔します」と言うと半メートルもない土間で靴を脱いで中へと分け入る。


 一歩踏み出す度にぎしぎしと場の緊張をかき乱す音を出す狭く短い廊下を通って、おれは壁を向いている友人の側面に腰を下ろす。友人は自分が招き入れたことも忘れたかのように、手元の本を見つめたまま微動だにしない。


 おれは何を言えばいいのか、何をすればいいのか何も分からなかった。


 身体に不快に纏わりつく重々しい空気に圧し潰されないようにするために、何度も痒くもないのに髪を搔き毟ったり、真っ暗な部屋中に視線を彷徨わせてみたりした後、おどおどしながらビクつく口を開いた。


「‥‥な、なあ、部屋の段ボールなんだけど、引っ越すのか?」

「ああ、‥‥そうらしいな」


 友人の本のページを見つめたまま、まるっきり興味のないことのようにそう答えた。


「‥‥じゃあ、寂しくなるな」

「ああ、‥‥そうらしいな」


 おれは一度口を閉じてしまえば部屋の中の空気に押しつぶされて何も言えなくなるような気がして声をかけ続けたが、友人はまるで何処か遠い世界のことに相槌を打っているかのように気の抜けた答えしか返さない。


 仕舞には、おれも黙りこくってしまって部屋の中には沈黙が積もっていく。


 おれは居心地が悪くて、何度も座り方を変えたが、友人は意固地のように身じろぎ一つせずおなじ恰好のままだった。


 目が暗闇に慣れるほどそうしていると、おれは友人が栞の挟まったページからいつまでも本を開いただけで一向にページが捲られないことに気が付いた。


 また、友人の持っている本は珍しく懐に余裕のあった友人の母親が誕生日だからと友人のために買ってあげた本だと気づいた。


 その本を買ってもらった時、普段はあまり表情の変化を見せない友人が満面の笑みで自慢してきからその表紙を強く記憶に残っていたのだ。


「――――」

 友人の口が僅かに動く。


 そこからは堰が切れたかのようだった。友人の身体はぶるぶると震えだすと、まるで心臓を掻き出そうせんばかりに胸を搔き毟りながら言った。


「なあ、本がよぉ。読めないんだよ。全部忘れたくて本を読んでも、文字が一文字も入ってこないんだよ。

 あいつらの‥‥母さんを殺した奴らの顔がチラつくんだ。

 なあ、おれはこれからどうすればいい。母さんを失って、おれは何のために生きればいい!!」


 腹の底から絞り出された聞いたこともない悲痛な声だった。


 おれはその訴えを聞いても何も答えてやることは出来なかった。本に顔を埋めて、嗚咽を漏らす友人の背中に手を置いてやることしか出来なかった。でも、何かを言わなければならないと思った。


 だから、子供だったおれはその時見ていたマンガだかのセリフをそのまま言った。

「お前は生きる目的を探せばいいんだよ。それはきっとお前の人生になる」と。


 その言葉が何を意味するかも知らずに。


 そんな無責任で呪いのような言葉を弱り切って支えを失った人間に言わなければ、ああいうことは起こらなかったかもしれないのに。


 それからずっと、おれは友人の背中をあやすように擦り続けていると、ようやく友人は顔を埋めていた本から少し顔を起こした。


 おれはもう時間が七時を回っていて、帰らないと母さんに怒られて怖いから

「それじゃあ、もう夕飯の時間だから帰るわ」

 と言って、友人の背中から手を放し、細くて狭い廊下を音を立てないように歩いて、靴を履くと、ゆっくりと玄関の扉を閉めようとした。


 そしたら、友人が壁に向かって本を見つめたままだが、泣きじゃくって上ずった声を無理矢理抑え付けて普段のように声をかけてきた。


「‥‥ありがとう。それと、またな」

「おう!またな」


 おれは出来るだけ元気よくそう答えた。


 次の日の朝、おれが再び友人の家を訪れるとそこはもうもぬけの殻だった。

 それから幾ら両親や先生に聞いても、友人が今どこにいるのか、何をしているのかを知ることは出来なかった。


 その後、友人との思い出は懐かしむべき子供の頃の思い出の一ページへと変わり、再び友人のことを思い出すのは十八年ほど経った後のことだった。



 他にも短編の話を書いているので、良かったら見ていただけると嬉しく思います。

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