悩める青年と月夜と妖怪
ふと思い立って、鮫島保はオフィスの屋上へ上がって行った。人気の無い屋上へ出ると、晴れた空に浮かぶ三日月が目に飛び込んできた。保は柵に寄りかかると、ふーーっと長めのため息を吐き出した。このところ仕事のミスのリカバリーに掛かりきりで、疲れすぎているというのが正直なところだった。金網越しに地上を見下ろすと、大通りにはまだ車のライトが行き来するのが見えるが、真下の路地は薄暗く人通りも見当たら無かった。
ガシャガシャン
背中越しに柵にもたれかかると、思ったより大きな音が響き振動が体に伝わって来る。一瞬そのまま後ろ向きに落ちるのかとヒヤリとしたが、それも悪くないなと思ってしまう自分の精神状態の危うさに苦笑する。
「良い月夜だね」
ふいに呼びかけられて、心臓が飛び出るかと思う程驚いたが、平静を装って声の方へ首を向ける。視線の先には丸いカフェテーブルに白いシャツ姿の若い男が座っていた。まだ過ごし易い気候とはいえ、初秋の夜はシャツ一枚では少し肌寒い。そして、男は場違いにもティーカップを手にしている。
「こんばんは。君も妖怪探しかな?」
「妖怪?」
「あれ?違った?この屋上は有名な心霊スポットらしいよ」
あっけに取られる保にはお構い無しに、男はお茶を勧めてきた。
「ちょうど紅茶を入れたところなんだけど、良かったらどう?」
「いや、その」
戸惑う保にお構い無しに向かいの椅子を勧め、真新しいティーカップに湯気の立つ紅茶を注ぎ入れる。
「何か悩み事?」
保の表情が硬くなったのに気がついたのか、どうか。
「じゃあ、特別なおまけをつけてあげよう」
そういうと、男は保の目の前にカップを持ち上げた。カップ越しに月が見える。すると、その下弦の月から滴り落ちる様に光の雫が一滴溢れてカップへポチャンと落ちて来た。
「さぁ、どうぞ」
勧められるままにカップを口に運ぶ。紅茶の香りに混じって不思議な香りが立ち昇る。ゆっくり飲み干すと、光の塊に満たされていくような感覚が広がった。
「携帯、着信があるね」
手に持った携帯を見ると、着信を示す灯が点いている。履歴を見ると梨紗からだった。そういえば、一昨日喧嘩したっきり連絡を取っていなかった。謝らないとな。そう思って目を上げるとそこには誰もおらず、保は木のベンチに一人で座っているのだった。見回すと、一角に小さな社が祀ってあった。
あの人は何だったのか。保は社に手を合わせると、階下に降りて行った。