楽市楽座
環太平洋戦略的経済連携協定
(いつの間にかパートナーシップの部分も日本語に翻訳されていましたね)
自由貿易圏を創出するとか言われておりますが
立場の強いところによる囲い込み。
立場の弱い地域にとりましては
関税自主権の喪失
以外の何ものでも無いのでありますが
(まだアメリカが話すことの出来る相手であったことが
悪い条件となっているとは申せ
救いと言えば救いなのかもしれません。)
最終的に何処が得をすることになるのか?
はわかりませんけれども
少なくとも
おコメに関しましては
今の段階で既に
余ってしまっているため
国が買い支えている産業構造となってしまっておりますので
冒頭の協定を批准するしないに関わらず
今のままでは……。
要は作り過ぎなんですけどね……。
その遠因となっているのは
……たぶん
江戸時代。
大きな船を建造することの禁止。
更には
国際貿易
と言うモノがNGとなってしまった各大名が
唯一許された海に対する施策が
塩田
もしくは
干拓によるコメの増産であったため
各藩がこぞって新田開発に乗り出しました結果。
需要と供給のバランスで決まりますので
当然の如く
米価は下落。
コメの量が
大名の収入であり、
家臣の給料であったこともありまして
受け取りましたおコメをお金に換えれば換えるほど
実入りが減り続けることになった。
新田開発の努力を積み重ねれば積み重ねる程。
(次の説明を
その都度書かないと
書いている本人も忘れがちになってしまっているのが
大問題なのではありますが)
私。信長の本拠地であります
尾張の国にしましても
今でこそ
見渡す限りの平野に
見渡す限りの田んぼが拡がっている印象を抱いているかた。
いらっしゃることかと思われますが
私。信長の時代の尾張の国には
田んぼ
と言うモノは
実は
それ程多くはありませんでした。
その理由の1つは
熱田神宮や津島が
港であったことからもわかりますように
それら地域より南は
今のような陸地では無く
干潟もしくは海の底であったこと。
更に目を北に移しますと
当時の木曽三川の流れが
大雨のたびに変化するような
手の施しようのない川であったため、
とてもではありませんが
稲を育てることの出来るような状況では無かった。
各家に船が常設されている様な場所でありましたので
たとえ水が浸いても大丈夫な
麻などが植えられておりまして
その麻を用い加工して来ました歴史を
起源としまして発達しましたのが
尾張北部地域の毛織物産業であります。
ここでお題となっております
楽市楽座が登場するのでありますが
私。信長は何故
楽市楽座を行ったのか?
と申しますと
自由な交易
と言うことは
あくまで建前でありまして
内実は
地元の織物産業の品々を
大市場であります
京都で自由に売り捌くことが出来るよう
参入障壁となっています
座を破壊することが
主な目的で設定しましたのが
楽市楽座のキッカケの1つでありますし、
尾張の国は今と違い、
コメの作付には不向きでありましたので
(江戸時代になり、
全ての水を美濃国。
特に輪中の地域に押し付けるようになって
初めて穀倉地帯に代えることが出来た。)
収入を確保するためには
商工業を重視せざるを得なかったことが
結果的には
私は志半ばでありましたが
家臣の秀吉の手により
天下を統一する原動力の1つとなった。
……ただ商工業重視でありますので
土地に対する概念が薄いところがありまして
どうしても
財産抱えて上手に安全地帯へ動き回る傾向がありますので
……とにかく「いくさ」に弱い……。
13段構えていたにも関わらず
気付いたら
鶴翼の陣形に変わっていた。
(釣り野伏せじゃねぇよ。)
になることしばしでありましたけれども
弱いが故に
が
また
それでも勝つためには?
で新たなモノを産み出していくことになったのも
また
面白いことではあります。