表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

42/42

木曽義昌

今年から

これまで二十歳以上でありました

有権者の年齢が

18歳にまで引き下げられる

と言いました

大きな変更が実施されることになりました

選挙制度。

私もそうでありましたけれども

……今も!?

と言う部分も否定することは出来ないのでありますが

テレビなどのインタビューの中で

『どこに入れて良いのかわからない』

と回答されます

学生さんの姿を

しばし目にする

(真摯に応えられていること自体が素晴らしいことであります)

のでありますが

これが

記名投票でありましたら

私も

『勝馬に乗る』

のでありますが

残念ながら

『私はあなたに投票しました』

と言う証拠を残すことが出来ない上、

近隣住民との面倒くさい接点を好まないこともありまして

期日前に

一票を投じておりますので

いつも記入ボックスの前に立ってから考える。

なんてことを繰り返しているのでありますが


こう言うことが出来るのも

何処が勝とうが

ビクともしない。

正しくは

影響の無い

大したことの無い仕事をしているからでありまして


そうでは無い。

このかたが当選しないことには。

というかたがたにとりましては

選挙は

切実な問題である

そうなのでありますので


私みたいな

(こんな輩に対しましても)

愛想を振りまいて頂くことの出来る。

貴重な期間が

選挙なのでありますが


国政レベルですと

参議院選挙があることもありましてか

生き残るためには……

と後押しとなる

強力な看板を求め

右往左往される姿が

今後見られることかと思われます。


この動きは

昔からあることでありまして

勢力を保持しているかたのみならず

家臣や

その勢力下に住まいを構えます

住民に至るまで

共通した願い事がありまして

それは何か?

と申しますと

今の暮らしを維持すること。

であります。

そのため

揉め事が起こりましても

穏便に……。

で終わることが普通。

であるのでありますが

そこに野心のあるかたが出て来ますと

否応なく

係争に巻き込まれることになり、

当事者で無くとも

どちらに着くか?

の選択を迫られることになる。

特にその係争しているモノ同士の

境目に位置する勢力

となりますと

尚更のことでありまして。


……の代表とも言って人物の1人が

木曽義昌でありまして


世が平和な時代でありましたら

義仲以来の

源氏一族としまして

木曽谷で

平穏な暮らしを営むことが出来たのでありましたが


武田家の膨張政策により

傘下に収められるも

武田家の一族となり、

本貫地であります木曽谷を安堵される。

ここまでは

まだ良かったのでありましたが


尾張の織田信長が美濃へ進出。

当初。織田家と武田家は良好な関係にあったのでありましたが

武田信玄が

これまで目指していました越後から

足利義昭の影響もあったのかもしれません。

東海道へ矛先を変えたため、

木曽義昌が治めている地域が

織田家と武田家の境目。

係争地帯に変わってしまった。


それでも当時は

信長の畿内経営が安定していなかったこと。

信玄が健在であり、

武田家が最も充実していた時代。

東濃の一部も武田家の勢力圏でありましたので

木曽義昌の治める地域が境目を為す場所では無かったこともありまして

そのまま武田家の傘の下に収まっていれば良かったのでありましたが


信玄の死。

足利幕府の滅亡。

長篠の戦い。

上杉後継問題より北条家の関係悪化。

本願寺の石山退去。

高天神城陥落など

ありまして

織田家と武田家との

パワーバランスが

織田家優位に傾きました

天正10年。

1582年に

最前線で圧迫を受けていたこともあるのでしょう。

駿河の穴山梅雪同様。

武田家を離反。

これをキッカケとしまして

織田・徳川の手により、武田家は滅亡。


その功績により、

木曽義昌は南信濃に確固たる地位を築き上げたのでありましたが


本能寺の変。


北信濃から逃げ帰ろうとする

森長可を捕らえようとするも

逆に息子を奪われるところから始まりまして


主家を

北条から徳川。

徳川から羽柴と移し、

本貫地であります木曽谷の所領を守り抜くも

秀吉より

家康の家臣になるように。

との沙汰が下され

再び徳川の家臣となり

関東へ。

と時代の流れに翻弄され、

義昌存命中は

家名を残すことは出来たのでありましたが

義昌逝去後。

木曽家は消滅の憂き目に遭っております。


木曽義昌の経歴を読みますと

『失意の内に』

と言う文言が記されております。

同じく一度、家康を見限るも

のちに

家康が天下を治めることになってしまいました

徳川家元筆頭家老

石川数正の息子同様。

肩身の狭い思いをさせられていたことと思われます。


結果を知っているモノが

その結果を見て

その時の判断について

ジャッジを下すことは

アンフェアなことでありますし、

実際、自分が義昌の立場であった場合。

人質を見殺しにしてでも。

と言いました

この行為は

長篠の戦いにおける

奥平信昌も同じことをやっておりますし、


もっと言いますと

徳川家康自身も幼少時代。

今川家の人質として向かう途中。

その今川家のライバルであり、

家康の父。広忠が苦しめられていました

織田家に売り飛ばされた挙げ句。

父から見捨てられる。

と言う経験をしておりますように


(……平和な時代でありましたならば)

がよくあったのが

戦国時代の

風景の1つであります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ