高野山
織田信長と比叡山につきましては
焼き討ち
と言う出来事により
歴史の教科書に大きく取り上げられるなどしまして
好む好まざるに関わらず
見聞きされましたかた。
多いことかと思われます。
なぜ信長は比叡山を焼き討ちする事態にまで発展したのか?
に関しましては
比叡山は元々
東から侵入しようと試みる勢力を食い止めるべく
長岡京時代の鬼門。
北東方向にあたる彼の地に設置されました要塞でありまして
天皇の近衛兵のような位置付けとしまして
君臨して来ましたのが
比叡山でありました。
信長は京の都よりも東に位置します勢力でありましたので
上洛する際。
必ずと言ってよいほど
比叡山の南側。
比叡山から見ますと
一気に駆け下れば桶狭間を再現することの出来る
狭い道を通らなければならず、
要するに
目障りだったため。
(……だからと言いまして
火を放って良いわけではありませんが……)
であったのでありましたが
比叡山と並び
平安時代から
日本の仏教の担い手として活躍されております
もう1つの山。
高野山と信長の関係はどのようなものであったのか?
と申しますと
本願寺と紀伊勢力の関係に巻き込まれる形で
と言うのが正しい見かたなのかもわかりませんが
必ずしも良好な関係であったわけではなく、
信長後。秀吉の天下が固まるまでの期間になりますと
(秀吉の対抗勢力の逃げ場になっていたこともありましたが)
あわや比叡山の二の舞になる可能性にまで追い込まれるなどしまして
それまで持っていました
武力と大半の領土を失う形での和議を余儀なくされております。
で。ここで注目したいのが
高野山の武力
でありまして
何故彼らは武力を持っていたのか?
それも別段。京都へ通じる道の境目でも無い
和歌山の奥まった山の中で。
でありまして
(刀狩り以前は全員。
と言ってしまえば
それまでのことでありますし、
僧兵が厄介だから。
で専業武士の誕生に繋がったのではありますが
そのことは置いて置くことに致しまして……)
このヒントとなりますのが
愛知県の豊橋市にありまして
鎌倉街道。
頼朝に由来します
手洗に葦毛。駒止め
と言う地名を残します
今で言う東海道に沿う形で
豊橋には
普門寺と赤岩寺
と言う2つの寺が存在しております。
この2つの寺に共通する事項がございまして
1つは立地。
普門寺は遠江から三河に入りました
赤岩寺は三河の中にあります渥美郡から八名郡に入りました
共に最初の山に立地しております。
2つ目としまして
普門寺と赤岩寺は
共に遠江側の方向に正門。
三河より。背後の山の上に奥の院が設置されております。
この奥の院でありますが
赤岩寺に関しましては
のちに赤岩城。
城として扱われた時期がございますし、
普門寺の奥の院につきましても
のちの時代になりまして
その奥の院より更に高い位置にあります
船形山に城が築かれたことから想像しますと
普門寺と赤岩寺は
今で言う寺
と言う位置付けでは無く
境目の関所。
ないし
遠江から三河へ侵攻する
東から京を狙う勢力を食い止めるべく
築城されました
城であることが考えられます。
その証拠に
奥の院の裏手
三河から遠江へ向う側の斜面には
要害と呼べるものが何一つとして存在しないことからも
読み事が出来ると思います。
これは豊川道の三遠国境に立地していました
大知波峠廃寺跡にも共通する事項でありまして
寺の跡がキレイに整備されておりまして
その地に立つとわかるのでありますが
明らかに
城の縄張りであります。
更にその縄張りの仕方は
明らかに遠州から入って来る勢力を想定して。
であります。
三河側のほうがなだらかで
侵入しやすい地形であるにも関わらず。
このことから
誰のために建立されることになったのか?
が見えて来る。
天皇を守るため
であることを見ることが出来ると思われます。
3つ目。
普門寺と赤岩寺。
この2つの寺は
どこの宗派のお寺さんなのか?
についてでありますが
(ここまで書いて
異なる宗派でしたら
台無しになってしまうのでありますが)
これら2つの寺は
共に
真言宗。
高野山のお寺であります。
遠江側から侵攻する勢力を
国境に設置された寺で食い止めるべく
天皇から要請された勢力が
真言宗であった。
これが
高野山が武力を有していた1つの理由であったことを
読み取ることが出来ることかと思われます。
比叡山は近衛兵。
もしくは国家公務員。
その中でも
(最澄が代表格でありますね)
エリート官僚
であったのに対しまして
高野山は
地方公務員。
もしくは
国家公務員ではありますが
(空海が良い例ですね)
ノンキャリアの叩き上げ。
と見ることが出来るのかもしれませんね。




