安土城
江戸時代に入りまして
新田開発が進んだ理由を考えていきますと
1つは
平和な時代が訪れたことにより
領国を脅かされる心配が無くなったため
内政にエネルギーを投じることが出来るようになったから。
2つ目としまして
平和な時代が訪れたため
力による現状変更が許されなくなったため
収入を増やし、
家臣に支給するコメの量を増やす方法としまして
新田開発に目が向けられたから。
3つ目としまして
平和な時代が訪れたため
城を防御のために使う必要が無くなったから。
全て平和であることが
キーワードになって来るのでありますが
今。21世紀になりました現在。
500年前。
私。信長が居城にしていました
安土城のありました場所。周辺には
一面の田んぼが拡がっております。
私が治めていた時代は
必ずしもそうではありませんでした。
何故か?
今、田んぼになっております場所は
元々湿地でありまして
武具を身に纏い進もうとしますと
そのまま沈み込み
身動きをとることが出来なくなるような
深い泥地でありまして
その泥地を
城の防衛に用いていましたのが
安土城。
(厳密に言いますと
安土城を築いた頃には
周囲全て織田家の領土でありましたので
どちらかと言いますと
六角氏の居城でありました観音寺城に置き換えたほうが
正しいのかもしれませんが)
これと同じことは
戦国時代。
特に
平城。平山城。
と称されました城の防御の特徴でありまして
例えば
今の大阪城。
石山本願寺でありますと
石山本願寺と天王寺を結ぶラインを除きまして
飛鳥時代辺りまでは
海の底でありまして
戦国時代になりますと
淀川からの土砂が堆積したこともありまして
陸地となっている場所が増えつつあったとは申せ
ヒトが住まいを構えるような場所としては
まだ不向き。
乾いていない土地でありまして
その乾いていない土地を天然の要害とし、
唯一乾いていました
天王寺からの道を塞ぐことにより、
難攻不落の城として
私。信長の前に立ち塞がることになった。
ここでの10年が……。
になるのでありまして
そのほかですと
江戸城。
こちらも
今の国道20号線を除きまして
とてもではありませんが
陸で行き来することが困難な
(ほかは……海?と言っても良かったのかも)
場所でありましたので
江戸時代に入りまして
甲州街道沿いに
御三家の屋敷が
更に西の八王子に
明治時代の北海道で見られました
屯田の形で
唯一の入り口であります
西からの備えとした。
この湿地帯を最大限に活かし
勝利を修めた戦いとして
後世伝えられることになりましたのが
九州島原半島で繰り広げられました
沖田畷の戦い。
島津得意の釣り野伏せで龍造寺軍を
狭い通り道しかないところにおびき寄せ
膠着しているところに
竜造寺隆信の突撃指令。
その命に従い、
泥地に飛び込んだ龍造寺軍でありましたが
入ったが最後。
身動きが取れなくなり、
立ち往生している龍造寺軍目掛け
隠れていました島津の伏兵が
四方八方から弓、鉄砲を放ったため……。
と言いましたように
山城に比べ
位置エネルギーの点で
優位に立てるとは思えないように見えます
平城でありますが
高さが無いとは言え
湿地など
乾いていない大地を活用することにより
大阪城は
最終的には
騙し討ち。
全ての堀を埋め尽くすことによりまして
ようやく
落とすことが出来たことからもわかりますように
必ずしも守りに難があったわけでは無かった。
江戸時代に入りまして
城を守るため。
防御としての役目を終えました
城周囲の湿地帯を
新田に転用することにより、
収入を増やす助けとなった。と……。
これが行き過ぎてしまいましと
八代将軍吉宗の頃のように
作り過ぎが禍ししまして
安い値段でしか取引されない。
消費者でしか無く
現金が必要であるにも関わらず
おコメで支給される
武士にとりましては
現金収入が少なくなることになる……。
その辺りのさじ加減は難しいのでありますが
最近、住居に関するニュースが増えております。
住居を構えられる際、
やはり便利なところを選択される。
可能であれば安値で。
と選択されることになるかと思われます。
今。各自治体の役所。役場は
大抵
江戸時代。城がありました周辺に立地していることかと思われます。
その中で
こんなに便が良いのにも関わらず
比較的手ごろな価格で売りに出されていて
これまでそれ程人口の多く無かったところ
の中に
もしかしますと
戦国時代。
防御のために用いられていました
湿地や
深い田んぼであった場所が
もしかすると潜んでいるのかもしれない……。
と言うことを念頭に置かれまして
土地選び
家探しをされたほうが
良いのかもしれない……。
と言う場所が
(……ございます)。




