〜 1品目 マカロニグラタン 〜
人がこれでもかと詰め込まれていた満員電車からやっとのことで降り、とぼとぼと家路を歩く。
今日も早朝から夜遅くまで、仕事仕事の1日だった。初任給で買ったが、もう大分くたびれてきた腕時計に目をやると、針は10時を指していた。
ぼんやりと今日1日のことを思い出す。
「おい!佐藤!今朝話した案件まだ終わってないのか!?納期遅れんぞ!」
「あなたの所の商品だけどねぇ、使いにくくて敵わないわ。返金してくれないかしら?」
うー、と唸りながら頭を振る。毎日のことではあるのだが酷くストレスを感じる。
決して仕事が嫌いな訳ではない、やる気が無い訳でもない。
だが毎日毎日夜遅くまで残業して、帰ればほぼ寝るだけの日々。そんな毎日に嫌気がさしていることだけは確かだ。
ストレス解消のために遊ぼうにもそんな時間はなく、上京してきてから友達も作れず、塞ぎ切った生活だ。
正直、もう限界に近い。だが辞表を叩きつけて仕事を辞める度胸も、故郷に帰る決心もなく、惰性で日々を生きている。
考え出すと、ますます嫌になってくる。
今日は、どこかで一杯飲んでから帰ろうか。酒でも飲んで嫌なことを忘れでもしないと、とてもやっていられない。
すでに帰り道へついていた足をくるりと返し、歓楽街へと足を伸ばす。
「あれ?こんなとこに路地なんかあったっけかな...?」
行きつけの安居酒屋へ行く途中の道で、見覚えのない路地を見つけた。
何度も通っている道に突然道が現れるなど、おかしい話だと思ったが、何故か僕の足はフラフラとその道へ誘われて行った。
その道の先には、小洒落た雰囲気の店が一件立っていた。
間接的な照明でぼんやりと照らされた店先。宝石のような色ガラスがはめられた小さな窓。暖かい風合いの木で作られた小さなドア。まるで童話にでも出てきそうな趣だ。
お世辞にも入りやすそうな店とは言えないが、それ故に非常に興味をそそられる。
小さな看板にはDining Bar Aliceと書いてある
「Alice...アリスって読むのかな?この英語。バーなんて普段行かないけど...どうせ今から戻ったっていつもの安居酒屋だ。入ってみるかな。」
日頃の激務の唯一の恩恵か、一人暮らしにしてはそこそこ収入があるため、お金にはそれほど困っていない。
たまには、冒険してみるのもいいだろう。
僕はドアを開け、中へ入った。
「すみません、まだいいですかね?」
中に居た店主と思われる人物に声をかけてみる。
「おや、これは珍しい。お客様ですか。はい、もちろん大丈夫でございます。」
そう言って振り返った店主の顔を見て僕は思わず驚き、声をあげてしまった。
それもそうだろう。何故なら店主はまるでウサギのような顔をしていたのだから。
「ああ、すみません。驚かせてしまったようですね。これは、着ぐるみの様なものなのです。何せ、恥ずかしがり屋なものでして。」
「き、着ぐるみですか...?」
確かに耳や目は本物のウサギよりかなり大きいし、顔つきも本物のウサギよりかはファンシーな見た目になっている。
恥ずかしがり屋というのは建前で、着ぐるみを被るような深い理由がきっとあるのだろうと、半ば自分に言い聞かせるようにして、無理矢理納得することにした。
店主は、清潔感のある白いシャツに黒いベストに赤の蝶ネクタイ、それに細身の茶色のスラックスを合わせている。
非常にスタイリッシュな大人の男性といった出で立ちだった。
...ウサギの顔でさえ無ければだが。
「まぁまぁ。私の風貌についてはそれくらいにしてください。どうぞ、こちらの席へ。ああ、私、当店店主のラビと申します。私のことはどうぞ気軽にマスターとお呼びください。」
促されるまま、僕はカウンターのテーブルへ腰掛ける。こういったバーの椅子は高いもので、座るまで一苦労だった。
「ふふ...。バーは初めてですか?」
「いえ、何度か来たことはありますが、どうも私には慣れ付けません。」
店主の悪戯めいた質問に苦笑いをうかべながら答える。
「当店はバーと言えど、ダイニングバーとなっております。簡単に言えば、お料理もお楽しみいただけるバーということです。ぜひお酒とお料理のマリアージュをお楽しみ下さい。」
店主の言葉に少し安堵する。それならば、普段そこまでお酒を飲むことのない僕でも楽しめそうだ。
「さて、まずは何を召し上がりますか?本日は良いワインが入っておりますが。」
「では、それを一杯頂けますか?」
「かしこまりました。」
ウサギ顔の店主は恭しくかしづき、ワインボトルに手を伸ばした。慣れた手つきでコルクを外し、グラスへワインを注いで行く。
「どうぞ、ワインでございます。それと、つきだしのチーズです。」
出されたワインは白ワインだった。まるで透明な湖に一つ、琥珀を溶かしたような、透明感の中にも重みのある色合いだ。
一口含み、香りを確かめながら飲み下す。
「...うまい!」
白ブドウの爽やかな酸味とわずかな甘み、その後に控えるどっしりとした香り。
まるでこのワインの色合いそのもののようだった。
「それは良かった。ではお料理の方を作らせていただきますので、しばらくお待ち下さいませ。」
そう言って店主は奥のキッチンへと下がって行った。
つきだしのチーズとワインの見事な相性に驚きつつ、ワインを楽しんでいると、不意に香ばしい良い香りが漂ってきた。
この香り...なんだか懐かしい。子供の頃に心を鷲掴みにされていたような、そんな香りだ。
しばらくその香りに惚けていると、店主がミトンに手を包み、白くて深い角皿を運んできた。
「どうぞお客様。本日の〈メイン〉マカロニグラタンでございます。」
ドシッと目の前に置かれた皿からは、熱そうな湯気が立ち込め、プジュプジュとホワイトソースが煮立っている。これでもかと敷き詰められたチーズは程よい焦げ目がついていて、嫌でも食欲をそそる。
そういえば、今日も仕事で忙しく、夕食には液体ゼリーしか摂っていなかったことを思い出し、急にお腹が空いてきた。
「いただきます。マスター。」
「どうぞ、お召し上がりください。」
フォークでグラタンをすくい、息を吹き掛けて冷ましながら、口へと運ぶ。それでも熱さに吹き出しそうになるが、そこを我慢してゆっくりと咀嚼する。
濃厚なチーズの味に、同じく濃厚なホワイトソースの味。そこにマカロニとタマネギ、それにベーコンが絡み合い、絶妙なバランスの味わいだ。
たしかに、美味しい。だが僕はこれと同じ物を食べたことは無いだろうか。胸に懐かしさが込み上げてくる。
一口、また一口と食べ進めていく。そして知らぬうちに僕は、大粒の涙をこぼしていた。
「あれ...おかしいな...なんだろう...なんで、泣けてくるんだろう...。」
「おや、申し訳ございません。タマネギが生煮えでしたでしょうか?」
「ちがうんです...とても、おいしい...。おいしくて懐かしいんです...。」
ああ。なんで、こんなに泣けてくるのか。ようやく分かった。
これは母さんの作ってくれたマカロニグラタンにそっくりなんだ。
子供の頃、大好きだったマカロニグラタン。何が食べたいと聞かれれば僕はいつもマカロニグラタンって答えてたっけ。
あんまり同じメニューばかり答えるものだから、またグラタンかって父さんは呆れていたけど、それでもいつも一緒に食べてくれていた。
僕はどうして、こんな大切なことすら忘れてしまっていたんだろう。忙しい日々の中で、僕は心まで擦り減らし、お金に変えてしまっていたのだろうか。
僕は泣きじゃくりながら、一気に、マカロニグラタンをかきこんだ。
口の中を火傷するのも厭わずに。
「...ごちそうさまでした。お酒も、お料理も、とても、とても美味しかったです。今日はそろそろ帰ろうと思います。お会計、お願いします。」
「お金は、要りませんよ。」
「えっ?」
「その代わり、いつか、また貴方がこの店にお越しになって下さった時、あなたのご家族の話を聞かせて頂きたい。おっと、昔話では、ありませんよ。ご家族の近況について、です。」
僕は、唖然としてしまった。この人は何故、僕が家族のことを思い出したことが分かるのだろう。そして猛烈に会いたくなったことさえも。
いや、思い返せば、ここに来るまでに不思議なことはいくつもあった。それに何より、店主がウサギ顔なのだ。今更、何も不思議がることはないのかもしれない。
「ありがとうございました。必ず、必ずまた来ます。その時はマカロニグラタンはもう食べ飽きているかもしれませんけどね。」
「その時は、違うメニューでおもてなしさせて頂きますよ。それでは、またのご来店を心よりお待ちしております。」
そうして僕は店を出た。振り返るともうそこには、さっきまであった不思議な、そして凄く素敵なお店は無くなっていた。
「さて、と、まずは明日、有給申請して、新幹線の切符でも買いにいこうかな。」
そして僕は家路への一歩目を歩き出した。




