舞い踊る巫女、舞い散る影
篝火に照らされて、鈴音神社に影が踊る。鈴音町の例祭『玉兎夜祭』に向けて、水乃は巫女神楽の練習に励んでいた。
いつもの白扇を両手に構え、神楽殿の舞台上を音も無く飛び跳ねる姿はこの上なく雅やかである。
真達の背中を見送ってから、水乃は一心に舞を踏んだ。自分を勇気付けてくれた真のため、武運長久の祈りを込めて。
「……何……?」
その時、鳥居付近の石灯籠から火が消えた。舞を中止して境内を見渡す水乃は、汗ばむ身体から急速に熱が奪われていく感覚に神経を尖らせる。神社を覆う冷気の正体は疑いようもなく『死の悪寒』だが、何かがおかしい。
「黒ちゃんが気配を察知するよりも早く、どうしてこんなに沢山の『怨鬼』が……」
鈴音の地を護る蒼眼の黒兎の危機感知能力は、八百万の神々の中でも群を抜く。そのため『怨鬼』の出現情報は、宇佐美の巫女である水乃へと逸早く届けられるはずなのだ。
そして何よりおかしいのは、『怨鬼』の数である。鈴音神社の上空を埋め尽くす黒雲から、境内に繋がった深淵の塚穴から、千を超える『怨鬼』の群れが渡り来ようとしていた。
「あ、有り得ません、こんな……」
水乃の脳裏に『死の悪寒』ならぬ、“死の予感”がよぎる。目の前をちらつく絶望の二文字を振り払い、水乃は白扇を構え直して神楽殿から降り立つ。そして──、
「吐普加身依身多女、祓い玉い清め給う」
開戦の祝詞が、詠われた。
「やあぁぁああぁぁーーッ!」
藁草履で地を削り、凄まじい素早さで手近の人型に迫る。右手の白扇を瞬時に閉じ、すれ違い様に打ち付けて首を落とすと、左の白扇を開いたまま逆袈裟に薙ぐ。巻き起こる科戸の風が異形の群れを切り裂いた。
「“蒼玉・月華星彩”!」
両の扇を閉じて頭上高くに放り投げ、胸の前で交差させた手を腰の横まで振るう。その動作で白衣の袖口から無数の護符を手元に滑り落とすと、緋袴をふわりと翻しながら回転。周囲に霊力を込めた護符を放射する。
「種種の罪事、本打ち切り末打ち断ちて神掃え……“蒼玉・水月無崩”!」
投げた白扇を器用に捕まえ、両脚を揃えて祝詞を奏上する。
飛び交う護符が物の怪を追尾する中、境内の地を波打つ光の波紋が水乃の足元を中心に広がる。波紋が静まるのを待って、水乃の藁草履が再び地面を引っ掻く。その刹那、蒼く輝く両眼の光を残し、水乃の姿が境内から掻き消えた。
いささかの砂塵も上げずに急発進した水乃は、稲妻の如く敵影の間を駆け巡る。
方向転換にも、跳躍にも、着地にも、そして制動にすら音を立てない。今の水乃ならば、水面を走っても波紋一つ残さない、そう思わせる神速の足裁きだ。
地面は言うに及ばず、鳥居、石灯籠、狛犬(鈴音神社では狛兎とでも言うべきか)、社殿の屋根や御神木、果ては宙に撒いた護符に至るまで、ありとあらゆる場所を足継ぎにして跳梁する水乃は、手にした扇で瞬く間に『怨鬼』を懲伏していく。
その最中、巨大な骸骨の化け物が大地を割って這い出した。他の小物とは一線を画する、御神木より高い痩躯の死霊だ。
水乃の進行方向を予測した骸骨は、細く長大な腕をしならせて掌を振り下ろす。
轟音と同時に舞い上がった土煙が水乃の姿を隠し、一拍。
土煙を破って飛び出した水乃は、ムーンサルトで骸骨の指をすり抜けていた。
「諸諸の禍事、本刈り断ち末刈り切りて神掃え……“黒天・氷月踏破”!」
空中で体勢を整えながら新たな祝詞を奏でると、水乃の髪型に変化が起こった。
ロップイヤーの黒ちゃんを模したような髪──脳天から左右に伸びて顔の両側面に垂れていた二束の髪──が、まるでネザーランドドワーフの耳ように、ピンと天を向いて立ち上がったのだ。
これは宇佐美の方術、『蒼黒式跳梁術・玉兎神楽』が全開まで引き出された証でもある。
ダァンッ!
骸骨の手の甲を激しく蹴り付けて着地する水乃。そして、
ドンッ、ドンッ、ドンッドンッドンドンドドドドッ!
徐々に加速するリズムを刻んで腕を駆け上がっていく水乃の足跡が、青白く光る刻印となって骸骨の腕に焼き付いていく。
先程までの優婉な足捌きを捨てた水乃が繰り出す雄々しくも荒々しい踏みつけのフィニッシュは、
ズドォンッ!!
両足を揃えての一際強い踏み切りだった。
踏み切り板代わりに使われた肩が音を立てて崩落する中、僅かに欠けた月を背負って宇佐美の巫女は夜空を舞う。
肩から下を失くして傾く骸骨の顔面に、水乃は両腕を交差して迫る。
「下弦と上弦以ちて八重雲を切り払う事の如く──」
閉じた扇で罰の字に打ち付けて、着地。
「──咎という咎は影像も無し」
立ち上がりつつ、パン! と白扇を開いて夜風を撫でた。
──からん。
「あっちゃ~……もうナノちゃんってば強過ぎ。やっぱり量より質を取るべきじゃったかのぅ」
その時、『怨鬼』の断末魔に紛れて下駄の鳴く音が境内に響く。と同時に、どこか飄々として締まりの無い声が御神木の陰から発せられた。
「せっかく集めた千の『怨鬼』が全滅させられては敵わんし……」
闇に潜むは一つの人影。御神木の幹から樹皮の欠片を拝借すると、影はタバコをポイ捨てするかのような気軽さで、
「……仕舞いにするかの」
それを肩越しに放った。
「なっ!? きゃああああああぁぁぁぁーーっっ!!」
ひらりと舞った樹皮は、一呼吸の間を置いて加速。ほうき星の如く光の尾を伸ばし、水乃の心臓目掛けて迸る。
しかし水乃の危機感知能力も流石なもので、一対の白扇を重ねて咄嗟に飛来物を防御した。その結果は、防御失敗に終わったが。
「くっ……そ、そんな……」
扇を破壊され、殺しきれなかった衝撃に押されて地面を転がる水乃。全身に力を込めて上体を起こそうとする彼女に、更なる追い討ちが待っていた。御神木の裏からフィンガースナップの快音が鳴ると同時に、地中から青白く仄光る無数の腕が伸びて来たのだ。
それは以前、瑠天山の河原でリリーを苦しめたものと酷似していた。
「いやっ! いやあぁっ!」
骨と皮しかないような細腕だが異様に力が強く、何本もの腕に四肢を搦め捕られては身動きも敵わない。
巫女装束を乱暴に剥ぎ取られ、裸身を雁字搦めのまま宙吊りにされた水乃は、にじり寄る『怨鬼』の気配に血の凍るような戦慄を覚える。
「たす、け……し、真様……真様ぁ……!」
震える涙声で助けを求めるも、ここに真の姿は無い。
神楽殿から照らす篝火が水乃の影を地面に映す。
そこには彼女を縛る腕も、彼女に迫る『怨鬼』も映ってはいない。
──だが。
「ひっ!? や、ああぐっ! ぃあっ、ああぁぁ」
身を様々にくねらせて喘ぐ、影絵の少女。最期に背筋を大きく反らし、
「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーッッ!!」
篝火に照らされて、鈴音神社に、影が散る。