うさぎ「死神に気をつけて」
朝食を終えた真は、鈴音神社の階段を上る。鈴音神社が祀る御神体、その世話をするのが真の日課だからだ。
鳥居をくぐり、拝殿を越し、本殿へと足を運ぶ。そこには──一匹のウサギがいた。
ざらざらざらっ! カリコリカリコリ……。
「よしよし、いっぱい食えよ」
真に見守られ、エサ皿に盛られた飼料を無表情で貪り食うウサギ。
「ほれ、ペレットだけじゃ飽きるだろ。キャベツとニンジン、どっちがいい?」
真の手からキャベツを奪い取ると、ウサギは一心不乱に咀嚼する。
知ってるかい? ウサギはニンジンよりキャベツが好きなのさ。しかも硬い芯は残してしまうというグルメっぷりだ。いやまぁ、もちろん個体の好みにもよるだろうけどね。
このウサギ、名を“蒼眼の黒兎”、通称“黒ちゃん”という。
鈴音の地を護る、由緒正しい氏神様……らしいのだが、どこからどう見てもただの黒いロップイヤーである。ちなみにロップイヤーとは垂れ耳ウサギの総称だ。
宇佐美神社が人々から愛される理由は二つあるのだが、その一つが生きている御神体といつでも誰でも戯れる事ができるところ。
神様とそんな気軽に接していいのかと心配してしまうが、黒ちゃん本人が許可しているらしい。
ちなみに宇佐美神社が人気な理由の二つ目は何かと言うと……巫女さんが可愛いところだ。
「神様……か。もしかしたら、ホントにそうなのかもな」
「いつもありがとう」
「……え」
感慨に浸る真に語りかける、何者かの声。
「いつもお世話してくれてありがとう」
「う……う……ウサギが喋ったぁ!? ……なワケねぇだろ、こら」
振り返り、そこに居た水乃の額を指で小突く真。
ウサギの口の動きに合わせて聞こえたのは、腹話術の要領で声色を変えた水乃の声だった。
「えへへ……真様、やっと黒ちゃんが神様だって認めてくれたんですね」
「いんや、ちょっとした気の迷いだ。ま、少なくともコイツはただのウサギだろ」
「真様、そんな不信心な事をおっしゃってはいけません。黒ちゃんの御神徳は『安産祈願』、『子宝祈願』、『合格祈願』、『勝運祈願』、『学業成就』、『良縁成就』、『心願成就』、『家内安全』、『交通安全』、『無病息災』、『病気平癒』、『不老長寿』、『商売繁盛』、『開運招福』、『立身出世』などなど、それはもう霊験あらたかな神様なんですから」
「どんな邪神だよ! 多過ぎて逆に胡散臭いわ! ったく、そんだけ掲げてりゃあ何かしらご利益あるに決まってんだろ」
う~ん、残念だけど今回ばかりは真に一票と言わざるを得ないね。
「よし、行こうぜ水乃。後でダッシュしないためにも、今ダッシュだ」
「はい、真様」
本殿を出ようと背を向けた──その時、
〈死神に気を付けて〉
「んっ?」
突然の警告に、真は足を止める。
〈急に声を掛けてごめんね。でも、どうしても言っておきたい事があって。ボクは今、キミにだけ聞こえる声で話し掛けているから、どうかそのまま聞いて欲しい。キミは死神に命を狙われている。この町でキミを救えるのは、多分ミナノだけ。だけど……ごめん。ミナノには助けを求めないで欲しいんだ。もしもキミの危機をミナノが知ったら、宇佐美の使命を放棄してでもキミの側にいようとするだろうから。そうなれば鈴音町全体が危険に晒されてしまう。残酷なようだけど、キミには自力で生き延びてもらうしかない。だけどもし、ミナノが自分で死神の存在に気付いてキミを護ろうとしたなら、ボクは彼女を止めないと約束する。だからそれまで……頑張って〉
再びの可愛らしい声は真の背後、それもやや低い位置から聞こえていた。
(な、何だ……今のって、まさか黒ちゃん? いや、いやいやそんな訳ねぇ、ウサギが口を利いてたまるか! どうせまた水乃のイタズラだろ……ったく、ウサギ目線にしゃがんで腹話術たぁ手の込んだ事を)
「いーかげんにしろ、いたずらウサ……ぎ?」
真は水乃の額を小突くため、しゃがみながら振り返って人差し指を突き出した。次の瞬間、背後に立っていた水乃の局部に指がグニュッと沈み込む。
「ぁんッ!?」
「うおぅっ!?」
そこに水乃は確かにいた。しかし、しゃがんではいなかった。
しゃがんでいたならソコは水乃の額だっただろうけど、このように立っていた場合、位置的にソコはアソコになる訳で……いやぁ天晴れ、とんだラッキースケベもあったもんだ。
「ひっ、ししし真様? あっ、あっ、そんな、いけませんっ! し、神前で、しかもこんな明るい時間から……!」
「あ、あれ? ……ち、ちちち違っ、いやほら、今しゃがんで腹話術してたよな? それなら額はこれくらいの位置にあると思って、はは、おっかしいなぁ……あはは、は」
真も水乃も真っ赤になって硬直している。そんな青春真っ只中の二人の間、神様ウサギは涼しい顔で鼻をヒクヒクさせていた。
さて、そんなこんなで通学路。
先を歩く真、その後ろを三歩遅れて歩く水乃。うーん、微妙な距離だ……。
「あ、あのさぁ……さっきはその、悪かったな」
「ぁ……ぅ……」
全く真の奴、よせばいいものをまたそうやって蒸し返す。せっかく落ち着いてきたところなのに、また水乃が真っ赤になってしまったじゃないか。
「ほら、さっきのヤツだよ。オレが水乃の、えー……女の子の部分を」
「いやぁっ!? いいです、言わないで下さい! 気にしてませんからっ!」
馬鹿っ、それじゃあただのセクハラだ。
「ふぅ~、あっちぃあっちぃ……ん? 何だこりゃ」
そう言って足を止める真の隣へ水乃が追いつく。
頭に疑問符を浮かべて周囲に視線を巡らす真、その様子を見て水乃は一瞬驚いた表情を作る。
真は飛んでいる蚊を狙うかのようにゆっくり両手を動かすと、
──パシンッ!
「っと! おぉ、捕まえた! なぁ水乃、オレの掌を見てくれ、コイツをどう思う?」
「……生命線が切れています」
「いや、そうじゃなくてコレ。このぼんやり光る球体だよ。あっ! もしかしてケサランパサランとかスカイフィッシュかも!? すっげぇ!」
おいおい……幽霊や妖怪は信じないのに未確認動物は信じてるのか?
「すみません真様……水乃には何も見えないのですが」
「あれ、そうなの? あぁっ!? いつの間にか消えてる! ちくしょう、せっかく一儲けできると思ったのによぉ」
なるほど、そういう魂胆か。
もったいねぇと呟きながら歩みを再開する真、その五歩後ろを追いかける水乃もまた、小さな呟きを漏らす。
「真様にも『幽鬼』の欠片が見えていた……? でも、どうして……」
怪訝そうに眉を曇らす水乃は、これから始まるであろう狂乱の日々を知る由もない。
もしも僕の声が彼女に届くなら、それに挫けないようエールを送るのだけど……ね。