黄泉路に立つ者
──その日の夜。
「ほいキョウちゃん。この紙に守護の魔法陣を描いておいたから、儀式は必ずこの上に立って行う事じゃ。後は上手くやんなさい」
「ありがとう比良坂。こんな茶番に時間を取らせて、すまないな」
ここは安アパート“曼珠沙華”。親元を離れて暮らす強と黄泉は、中学時代からこのアパートで暮らしている隣人同士の間柄である。
強の部屋の前でコソコソと怪しげなやり取りをする二人は、黄泉から強へ何かを受け渡す事で決着がついたようだ。
「良い良い。その代わりわしの命令には絶対服従、それを忘れるでないぞ~? んっふふ」
──バタン。
「……“こんな茶番”、か……我ながら正気を疑う。だが、もう一度だけその声が聞けるなら……俺は悪魔に魂を売ってもいい」
六畳間。お世辞にも広いとはいえなかったこの部屋が、今は途方もなく広い。
飾る物の一切を排した部屋にただ一つだけ残ったモノは、制服。強達の通う、鈴音高校の女子学生服だ。
黄泉から授かった魔法陣を部屋の中央に敷き、その上に立って目を閉じる。窓から射し込む月影が、明かりの消えた部屋を青く儚く照らしていた。
「冥府に座する閻王よ、俺の声に耳をそばだて……そして叶えろ」
秋の夜に歌う虫の音が、湿った風に乗って流れる。
「我が妹──“鬼萌”の魂を、今一度彼岸より還したまえ……!」
虫の音が消え、月には叢雲。闇に閉ざされた無音の世界に響いたのは──、
「のぉっ! 扇風機が臨終しとる!? おのれ、今夜はわしを寝かさぬ気じゃな?」
薄い壁を隔てた先の隣人が発する、間の抜けた悲鳴だけだった。
「……ふ、分かっていたさ。比良坂が面白半分に考えた降霊術なんかで……いや、たとえどんな手段を用いたとしても、やはり死者の魂を呼び戻すなど最初から不可能だったんだ」
肩を落とし、自嘲気味に口元を歪めて言う強は、魔法陣を折り畳んで部屋の隅に置く。
〈──お兄ちゃん〉
その時、部屋の中に声が響いた。強を兄と呼ぶこの可憐な声の主こそ、
「萌っ!? 萌なのか!?」
半年前、高校進学を目前にしてこの世を去った、
〈うん。ただいま……で、いいのかな〉
強の双子の妹──鬼萌だった。
「あぁ、勿論だ! 良く帰ってきてくれた。どこにいるんだ? 姿を見せてくれ」
部屋の中央に正座して辺りを見回す強を、上品な笑い声がくすぐる。
〈ふふ、やだお兄ちゃん。わたし目の前に居るのに、おかしいんだぁ〉
冷たい空気が左頬を撫で、強はそれが萌の手だと直感的に理解した。
「すまない。声は聞こえるが姿は見えないらしい」
〈そうなんだ? 良かったぁ、わたし今裸だから、ちょっと安心しちゃった〉
強は苦笑して半袖の腕を擦りながら、見えざる妹に声を掛ける。
「萌、俺な……生きているうちに、お前に何もしてやれなかった。親父とお袋が死んで、金も無くてさ。叔父貴に甘えるのも違うと思って一人暮らしを始めた俺に、お前は付いて来てくれた。俺、強くなって……早く一人前になってお前を支えてやりたかった。なのに……お前は先に逝ってしまった」
過去を悔いる言葉の数々が、褪せた畳に吸い込まれていく。
「萌。もう一度お前に会えたら、聞きたい事があったんだ」
〈何、お兄ちゃん〉
「お前、ちゃんと幸せだったか?」
〈…………うん。幸せだったよ〉
返答までに時間を要した。その事実を重く受け止めた強は、萌の本心を聞き出そうとさらに質問を投げ掛ける。
「何か、未練があるんだな? 言ってみろ、萌の頼みなら何でも聞こう」
〈……本当に? 本当に何でも聞いてくれる?〉
「あぁ、何でもだ」
そう答えた瞬間、葉擦れの音を伴って吹く風が暗雲を取り払う。上弦の薄明かりが照らす部屋に、愛しの妹の姿が朧々と浮かび上がった。
「も、萌……お前、その姿……!!」
〈あはっ! 兄妹でもここまで見せた事、無かったよね。うふふ、ちょっと刺激が強すぎちゃったかな? あっははははははははははははははははははははははは!〉
狂気に満ちた笑い声を上げる萌の肢体は、雪のように白かった。
絶句する強の目に映ったのは、全裸の妹。そう、包み隠すモノが何一つ無い──白骨死体が、そこにいた。
「ひ……そん、な……萌が……」
いつしか吐息は白く染まり、強の白い歯がガチガチと音を鳴らす。
〈ね、オ兄ちゃン。わタし、お兄ちャンが欲しいナ。オ兄チャンの、身体ガ欲シいノ。あはハハッ! ソウスレバネ、真君ニ逢イニ行ケルモノ〉
眼前に迫った白骨に怖けて後退る強の手に、守護の魔法陣を描いた紙が触れる。
「真、だと……? 真に会って、どうする気だ……?」
萌に気取られぬよう紙を捲る強の手に、細く冷たい指が重なる。
〈ナ・イ・ショ〉
刹那、萌の肋骨が観音開きに裂け、
「ぐああぁぁああああああぁぁぁぁぁーーーッ!!」
強の身体を、飲み込んだ──。