4話
結婚とは、誓いだ。
病める刻も、健やかなる刻も。
互いに手を取り合い、愛し合うことを。
死がふたりを別つまで。
ーーならば、死したあとはどうなるのだろう。
新しい世界。新しい人生を手に入れたあと、そのふたりが出会ったなら。
ーー誓いは、どうなるのだろう。
*****
絢爛豪華な春。
緑豊かなアクゼリュオンの中腹にそびえ建つのは、名門と名高い国立の学院だった。
ロズフェルト魔法学院。
ここには限られた名門貴族の子弟や、大商家のお嬢様、またはその手のつてのある富裕層が通う。
平民に開かれていないのは、学費が高額であるのと同時に、貴族ばかりが通う印象があるからだ。
そこは、創立して20年余りの新しいと言える学院であることも理由のひとつだった。
膨大な敷地にある巨大な校舎に沿うように、L字型に建つのは学生寮。ここは男女分かれてふたつあった。
毎年沢山の学生から希望があり、その部屋数から、またも限られた人数しか入れないのだという。
その一角。
比較的綺麗な部屋に、件の幼女、キヨは通された。
彼女は規定の範囲外である10才に届かない5才児であることから、学生寮の生徒だけでなく職員からも注目されていた。
彼女の入学にはなんと、王家から直接の打診があったらしい。
しかも彼女自身は貴族でも何でもなく、ただの平民とのこと。
これには学院長までもが首を傾げた。
平民には、姓が無いものもいるが、彼女の姓はとても珍かなもので、最近音に聞く“ミシマ村”と同じ名であることから、村との関係が伺い知れる。捨て置くには謎が多い幼女だった。
「なんじゃ、入学式は来週かえ」
そう言ったのは、職員からの説明を一通り聞いていたキヨだった。
城下に到着後、キヨ一行が入寮したのはギリギリのことで、支度に時間のかかる貴族の子息や令嬢は、更に1週間も余裕をもって入寮しているらしい。
寮に入ってすぐに入学式だと思っていたキヨは、早速暇を持て余すことになった。
キヨが与えられた部屋は日当たりの良い角部屋。
シーリーンは隣室だ。彼女はキヨの身の回りの世話も任されている。キヨはまだ5才とあって、出来ない事も多いからだ。
因みに男子寮のテオとラディも隣同士とのこと。
「うぅむ。暇じゃの……」
ミシマ村では休みなど無く働いていた彼女にしてみれば、何も無い日に何をすればいいか、迷うところであった。
仕方なく配られた教材を開いてみると、おや、と思った。そこには魔法の基礎となる事柄が書かれていて、そのどれもがテオに教わったことだったからだ。
もしかしたら彼には、家庭教師か何かがいたのかも知れない。そういったものは、貴族家庭では珍しくないからだ。
ここに、テオが兄弟から命を狙われていることを伺わせるものがあった。
「和解……は、難しいのかのぅ」
人間、金が絡むとろくな関係にはならない。それが彼の問題の延長線上であるような気がする。
キヨは、どうにもならないことをしばし頭に浮かべ、暇を潰すのだった。
*****
恙無く終えた入学式からふた月。
既に梅雨が始まった頃、事件は起こった。
「何でお前みたいなガキがいるんだよ」
突如聞こえてきた声にキヨが後方を振り返ると、12才くらいの少年がいた。キヨがたまたまひとりになっていた時だった。
「はて。どちら様ですかの」
彼は貴族だ。
その居丈高な物言いから即座に判じ、キヨは低姿勢をとった。
「平民に名乗る名などないが……。俺はクラスター侯爵家の嫡子、ジェイムス様だ!」
しっかり名乗っているではないか。と、言いたくなったが、ここは黙っておく。
ーーそう。まるで英語の教科書に載っていそうな素敵な名前ね。
キヨの心の中で、シーリーンの皮肉の声が聴こえた気がしたが、お首にも出さずに彼に対峙した。
「して。そのジェイムス様が私に何の用かえ」
「お前みたいな平民に用などない!早くここから出て行けよ!」
声高に叫ぶものだから、通りがかった生徒で観客が出来てしまうが、眉を顰める彼らを寧ろ歓迎するかのように、ジェイムスの声は大きくなっていった。
「どうせ汚い手で入ったんだろ。平民のクセに目障りなんだよ!」
二言目には平民と、彼らを貶す言葉に、キヨは溜息を吐く。
「汚い手とは、コネクションのことかえ?」
「きっと学院に大金詰んだんだろう?分かってるんだよ」
彼は忌々しそうに返す。ーーが、キヨは至極あっさりと言い切った。
「金もコネも遣うためにあるんじゃろ。お前さん、知らないのかえ?」
挑発のためにわざと言ってやったが、これにはジェイムスのみならず観客たちも唖然とした。
「これでひとつお利口になったの。ジェイムス?」
馬鹿話に付き合ってられんと言い捨て、悠々と歩き去るキヨを、皆が口を開けて見送ったのだった。
ーーその数日後。
またも、キヨの前に立ち塞がる少年の姿があった。ジェイムス・クラスターだ。
「おい、お前ーー、」
「ちょっとあんた、何なのよ」
間髪入れずに応じたのは、一緒にいたシーリーンだ。
「お前じゃない!腰巾着が」
これにはシーリーンが顔を真っ赤にした。
「いきなり呼びつけて何なの⁉︎貴族のお坊っちゃまってそんなに偉いの‼︎」
「これ、シーリーン」
「そうやって見下すくせに、いざって時に貴族なんて役立たずじゃない」
「うるさい、平民‼︎」
「やめんか、ふたりとも!シーリーン、下がっておいで」
キヨがいつになく声を強めると、シーリーンはピタリと罵倒を止め、押し黙った。
「はっ、流石平民の親玉だな。しっかり犬を躾けてやがる」
「このっ、」
「これ、相手をするでないよ。このくらいなんてことない。聞き流しておいで」
「でも、そんちょ、キヨちゃんを馬鹿にしたのよ、こいつ」
シーリーンはどちらかというと、キヨを舐められたことに一番腹が立ったらしい。
「お前は優しい子じゃの。私は嬉しい」
キヨは極上の笑みを湛えた。シーリーンやジェイムスをはじめ、そこに居合わせた数名の生徒が顔を赤らめる。
その時、騒ぎを聞きつけたのかラディがやってきた。すぐ後ろにはテオもいる。
「おい!てめー、何やってる!」
その声にジェイムスは反応し、足早に去って行った。他の生徒たちもそそくさと離れてゆく。
「おう、ラディか」
「よっ。何かモメてたけど、誰?あいつ」
ラディの疑問に応えたのはテオだ。
「確か、クラスター侯爵家の者だったと思うけど」
「テオ。お前さんも来てくれたのかい。済まないねえ」
「いや、僕は何も」
「そういやあいつ、クラスター?だっけか。こないだ試験で次席とか言われてなかったか?」
試験とは、入学してすぐに行われたクラス編成のための実力テストだ。努力家のシーリーンは好成績で、ラディは最下位だった。
キヨは主席である。なるほど、逆恨みか。
因みに、キヨの魔法の師であるテオは、目立たぬようにわざと平均点を取っていた。
「実力でキヨちゃんに勝てないから嫌がらせなんて、ラディより馬鹿だわ」
「なんで俺が比べられるんだ⁉︎」
釈然としないといった風に、ラディが気色ばむ。新たな抗争の予感に、テオは話を逸らそうと話題を提供した。
「そう言えばそろそろ遠征だね。皆、準備終わった?」
遠征は、1年生と2年生が合同で行く校外学習だ。
一学年は1組から5組あり、数十名からなる。キヨとシーリーンは1組、テオは2組、ラディは5組と、学力別になっている。
テオのいる2組は貴族階級が多く、先のジェイムスもそこに在籍しているが、選択教科から授業が合わないこともあり彼とは話すこともないらしい。ーーというか、顔を合わせても本人に余り興味が湧かないので話すこともない、というのがテオの本音だったが。
そうして学力や階級で差別化されることにより、キヨたちはあまり会うこともなかった。
しかし遠征ではそういった区別はなく、またグループを好きに決められることから、4人は組むことにしていたのだ。
「私のはシーリーンが殆ど手配してくれたのでな」
「私の分も終わっているわ」
「ええっ、俺まだだ!」
遠征は大まかに言えば遠足だ。クラス階級にこだわらずに交流を図ることに意味を置いている。ただし大所帯になるため、グループ内で互いを管理し合う。ここでも、連帯感や協調性を高め合う目的があった。
「なにモタモタしているのよ……」
シーリーンは呆れ顔だ。
「先生が課題提出してないって言っていたわよ。もしかしてそれもまだなんじゃないの?」
「やっべ!忘れてた」
やれやれと溜息を吐くシーリーン。テオは曖昧に笑っている。
「あんた……、本当に。当日は明日引っ張らないで頂戴よね」
ラディは姉の辛辣な言葉に、気まず気に眼を逸らすのであった。
*****
ーー初夏。
いよいよ遠征が始まる。
この頃になると、クラス内でもその話題が多くなり、グループのメンバー同士でつるむことが増えていた。
ーーそうなると当然、一人でいる人物が目立つ様になる。
「筆記用具に、羊皮紙。雨具は……、要らんか」
キヨは明日に迫った遠征に向けて、自分の部屋で持ち物の最終確認を行っていた。
「この世界は便利よの〜。雨も魔法で防げるんじゃからの」
そう。フィレスでは魔法はファジーでイージーなのである。
イメージさえしっかりとすれば。“魔力”さえあれば、ある程度の事が出来る。
飲み水も魔法で作り出せるのだ。
ただし、前世で情報社会に生きたキヨだからこそ、想像できる事象がかなりを占めているのだが。
「あとは当日の弁当じゃな」
今回の遠征でキヨが持って行くものはとても少なかった。それらを革製のバッグに詰め込んでゆく。そんな時だった。
「キヨちゃん、いる?」
シーリーンの声だった。
彼女は軽くノックした後、キヨの部屋に入って来た。
「どうしたえ?」
「担任の先生が呼んでいるの。一階の歓談室で待っているわ」
「私をかえ?はて……」
担任が一体何の用だろう。キヨにはとんと覚えがない。
取り敢えずバッグをそのままに、一階へと向かう。歓談室に入ると、シーリーンの言った通り担任の先生が見えていた。
「ああ、ミシマ君」
担任はすぐにキヨに気付き、顔を上げた。
「私に御用だとか」
相手方の顔色を見て、正直良い予感はしない。早く切り上げようと、キヨは早速本題に移った。
「突然で悪いのだが、クラスター家のジェイムス君は知っているかな?」
この世界の貴族階級ではまず、名前の前に何某家の、と入る。キヨはそれを聞いて、やはり良くない話だと思った。
クラスター家のジェイムスとの間では、問題が起こったばかりである。
「その、クラスターさんがどうなさいました?」
もしやこの間の件か。
キヨは悟られぬように密かに警戒した。
「それがーー、」
担任は苦い顔で切り出した。
ーーキヨは目が点になった。
それは予期せぬ言葉だったからだ。担任の説明はこうだ。
ジェイムス・クラスターがグループに入らず、ひとりであぶれている。
ーーとまあ、そんな感じだ。
平民のキヨに貴族の相談はし難いのか担任は物凄く、物凄〜く遠回しに言っているが、つまりはキヨの班に入れて欲しい。そういうことだった。
「はあ。それは構いませぬが。彼は納得しておるのでしょうな?」
「いや、クラスターくんには……。何せ本人はひとりで良いと開き直っているくらいで」
「彼のクラスでは声を掛けませなんだか?」
確かに、ひとりでは校外学習の意味はない。旅の醍醐味も楽しみもなさそうだ。しかも単位に関わる行事なのだ。引率の職員たちも傍観はできないだろう。
しかし、どうして平民筆頭の、しかも5才児のキヨのグループに白羽の矢が立ったのだろう。解せない。
そう言うと、担任はとても気まずそうに答えたのだった。
「クラスター君はね、他の貴族の子達と折り合いが悪……、良くなくて……、」
「つまりは嫌われておるのじゃな」
キヨがはっきりと言い直す。
担任は顔を青くしたが、否定しようとはしなかった。
「引き受けてくれるかね?」
「説得も含め、ですかの。あい、分り申した」
キヨは溜息を吐きつつ、頷くしかなかった。
*****
「ええっ⁉︎それで、引き受けちゃったんですか⁉︎」
部屋に帰って待ち構えていたシーリーンに件の経緯を説明すると、彼女は廊下に響く程の大声をあげて、次の瞬間、我に返り己の口を慌てて塞いだ。
「あんなお坊ちゃまを同じグループに?私は反対です。面倒見きれませんよ!」
「そう言ってくれるな。あんな坊やでも貴族じゃ。学院にも対面があるでの」
「だからって、何で私たちの班に入れてあげなくちゃいけないんですか!」
「それはあれじゃ。他に入れる班が無いからじゃろうて」
キヨの言葉も大概だが、それだけ良い印象がないということだ。貴族連中のなかであぶれた理由も知れたものだ。
「テオには私から言っておこう。お前はラディを頼めるかえ」
「う〜、分かりました……」
シーリーンは尚も不服そうだった。
*****
「え。クラスターって、あのジェイムス・クラスターのこと?」
「うむ、そのクラスターじゃ」
というか、その他にクラスター姓の生徒は学院には存在しない。良い意味でも悪い意味でも、クラスター侯爵家は有名なのだ。
「うーん、僕はいいけど。ラディたちにはもう言ってあるの?」
「ラディには今頃シーリーンが説明しておるじゃろうな。私はお前さん担当じゃ」
そう言うと、テオはどこか面白そうに笑った。
「そうなんだ。キヨは僕担当か」
「即決で済まんが、決定事項じゃ」
キヨは今、そうとは知らずに村長の顔をしている。
「そうなんだ。決定事項か」
テオはずっとニコニコしていて、キヨは首を傾げたが、特に取り合わずに話を終えた。
その日の夕刻。
食事を終えて部屋に戻ったキヨの元にシーリーンがやって来た。
彼女の説明でラディは強制的に頷かせられたというような内容だった。
ーー次の日。
「済まんが、ここにジェイムス・クラスターはおるかえ?」
彼のクラスにひょっこりと姿を現したのはキヨだった。
「クラスター、お客だぞ」
「……なんだ、お前か」
彼女を驚いて見た後、取り繕うような表情を作ったジェイムスに、彼女は言った。
「お前さん、私の班に決まったからの」
決定事項だ。というと、ジェイムスはきょとんとして一転、怒りを滲ませる。
「なんだそれは⁉︎俺は聞いていないぞ‼︎」
「……班に入ったからには指示に従って貰うでの。心しておくように」
「なっ!冗談じゃない。何で平民なんかに‼︎」
「当日、遅れたら迎えに行くでの」
「ふ、ふざけっ、」
キヨは抗議の声を聞き流して踵を返す。ジェイムスは興奮し過ぎたのか、それ以上の言葉が出ないようだった。
*****
それは心地のいい日だった。
名門貴族に名を連ねるヴェルデ家の嫡男キースは、その日を待ち焦がれていた。
今日は遠征当日。
彼にとっては学院で2度目だが、今年は特に特別だ。
一年の行事の中でとても重要な日だった。
「ああ、やっと逢える」
彼、キースの心はいつもある人物に占められていた。普段会うことが出来ないのも、その要因のひとつだ。
ーー今日は。今日こそは。
彼はざわめく心を持て余しながら、何度も、何度も、呟くのであった。
*****
学院の敷地。初夏の日差しにさんざめく花々の咲いた広場に、1・2年の生徒たちは集まっていた。
「教材よーし、弁当よーし。後は……」
「クラスターがまだだね」
「ふむ。間も無く点呼じゃ。呼びに行こうかの」
キヨの言葉に頷く一同。
絵的には5才児に従う中学生たちの図だが、キヨは前世を合わせれば彼らの何倍も生きている。彼女にしてみれば自然の流れだった。
ーーと、噂をすれば影。
ジェイムスの姿が目端に写り、キヨは顔を向けた。
「おう、ちゃんと来たな」
「うるさい、遅れたら迎えに来るって言ったのはお前だろ!」
「うむ。その通りじゃ。今日はよろしくの」
「ふんっ」
シーリーンは嫌悪を隠すことなく彼を睨み付けている。
彼女とラディには前日によくよく言い含めていた。ジェイムスの言葉にまともに返すな、と。
シーリーンはちゃんと約束を守るつもりのようだ。だが、ラディはというとーー、
「てっめ!表に出やがれ‼︎」
早速、噛み付いてしまった。
憶えて間も無い言葉なのだろうが、10才の彼が使いこなすにはお脳が足りていないようだ。然りーー、
「表に出ているが?」
それがなんだと、ジェイムスは鼻でせせら笑った。これでラディは彼と同い年なのだ。ーー温かく見守ってやって欲しい。
シーリーンは不出来な弟に情けなそうに赤くなった。
「まあまあ。それじゃ、点呼とるね」
険悪な雰囲気の中、同じく10才のはずのテオはどこまでもマイペースに仕切っている。
「キヨ」
「おう」
「シーリーン」
「はい」
「クラスター」
「ふん」
「ラディは欠席、と」
「おう!……えっ、何で⁉︎俺いるよ⁉︎」
「さて、先生に報告に行くよ。ラディは病欠ということで」
「うむ。問題ない」
「さあ、行きましょ」
因みに他のグループと違い、僅か5人のメンバーでとる点呼など、一見して終わりだ。
つまりこれはラディを弄るためのちょっとした悪戯だった。
仕掛け人はテオだが、分かっていて乗ったキヨとシーリーンも同罪。これぞ、協調性いう罠。
しかしテオの真に迫った演技に、ラディは慌てふためいた。その様子に、ジェイムス以外の全員が爆笑する。
「あはははっ、ごめんごめん!」
「なにマジにとってんのよ、馬鹿ねー!」
「冗談じゃよ、ラディはかわゆいのぅ!」
自分が笑われていると知ったラディは呆然とした表情をくしゃりと歪め、涙目で怒った。
「ちっくしょーっ!馬鹿にしやがって‼︎」
「ごめんて。ラディ」
「はいはい。じゃあ、今度こそ行くわよ」
「ほれ、ラディ。本当に置いて行かれるぞ?」
「くっそ!お前ら、憶えてろよ!」
その後、皆で引率の職員に点呼の確認へ行く間、ラディは始終不機嫌だった。
ジェイムスはそれに輪をかけて不機嫌だったが。
*****
「うぅ、腹減ったぜ……」
昼近くになると、ラディが盛大に腹を鳴らしてぼやいた。
「あんた、今朝は寝坊してご飯食べてなかったんじゃないの?」
シーリーンの指摘に、ラディはしおしおと頷く。
どうやら遠征が楽しみ過ぎて昨晩は眠れなかったらしい。寝坊は本当のようだった。
「そろそろ昼休憩に入るじゃろ。これでも食べて我慢しておいで」
キヨが、自身のカバンからサンドイッチをひとつ取り出してラディの口元に持って行くと、それを彼は何の抵抗もなくパクリと咥えた。
「うぐ、んまひ」
「食べながら喋るんじゃないわよ。行儀が悪いわ」
ラディは素直に呑み込んで、今度ははっきりと言った。
「うん、美味い!」
その声にキヨは満足そうに笑う。シーリーンやテオも微笑んでいる。その様子を、ジェイムスは意味あり気に見つめていた。
*****
半刻もすると、職員の掛け声が響いて食事休憩に入った。
皆、各々(おのおの)のグループに分かれて自分の昼食を広げる中、キヨたちも弁当を広げた。
「うおー!二人の弁当違う!」
「本当だ。自分で作ったの?」
遠征に出た生徒たちの大半は、寮の食堂で弁当を予約する。テオとラディもそうだった。
「うむ。私はシーリーンに手伝って貰っての」
「私の部屋に調理台があるのよ」
シーリーンに割り当てられたのはキヨの隣の部屋だが、元はメイド用の部屋だったのか、調理台とシンクが設置されていた。キヨもシーリーンも料理が出来るため、必要な時は自分たちで食事を用意するのだ。
ただし、キヨの場合は身長に難があるため、シーリーンに手伝って貰うことになるのだが。
談笑しながら食事をとる中、キヨはある人物を気にしていた。班から少し離れたところにいるジェイムスだ。
移動中もひとりでむっつりしていたが、今も彼は不機嫌そうにしている。手元に弁当を広げていない。
これはもしやと思い、キヨはカバンの中を探って、もうひとつある弁当箱を取り出した。
「済まんが、ちと外す。お前さんたちは気にせず食べておいで」
そう言うと、皆思うところがあるようで、黙って送り出してくれた。
キヨがジェイムスに近づくと、彼は警戒心を見せた。
「……なんだよ」
「うむ。お前さんは弁当を食べんのかえ」
そう言うと、ジェイムスはぎくりと固まる。予想通りの反応だった。
「お、俺はお前たち平民に混じって外で食事なんかしないんだよ」
ここまでも予想通り。キヨは敢えて班に見えないように背を向け、声を潜めた。
「そうか。……ところで頼みがあるんじゃが」
「頼み……?」
「実は、はりきって弁当を作り過ぎてしまっての。皆には恥ずかしくて言えんのじゃが。このままではカバンの中で腐ってしまうでの」
「は?何で俺に言うんだよ……」
ジェイムスはごくりと喉を鳴らした。あと一息といったところだ。
「お前さんの腹に余裕があるなら、ーーこっそり片付けてくれんかの」
そう言って、弁当の包をそっと押し出すと、引き寄せられるようにしてジェイムスの腕に収まった。
「なっ、……し、仕方ないな。食べてやるよ……」
「皆には秘密じゃぞ」
実はこれ、ラディが忘れるかもしれないと余分に作っておいた予備なのである。ラディがちゃんと持って来たので要らなくなったのだが、用意しておいて正解だった。
ジェイムスが弁当を忘れ、しかも誰にも言い出せなかったのだ。これで秘密裏に処理が出来る。
因みに、バッグの中で腐ると言ったのは嘘だ。キヨお手製の皮の鞄には魔法で状態維持が掛けられているので、腐敗も劣化もしないのである。まさにファンタスティック。
こうして昼休憩が過ぎていった。
*****
休憩の後、更に行った先。生徒たち一行が辿り着いたのは、広大な草花の広がる谷間だった。
爽やかな初夏の風に揺られ、香りと共に花弁が舞う。美しい場所だった。
「素敵……」
シーリーンがうっとりとする中、ラディが幾人かの生徒と一緒になって草の絨毯へとダイブする。
「これは、綺麗だね」
「うぅ〜む。圧感じゃの」
「胸に迫りますね」
日本ではなかなか見られなくなった壮大な自然の風景に、キヨは吸い寄せられたかの様に足を踏み出した。
柔らかい芝の感触に心が弾む。
こうして感応出来るということは、己もまだまだ若い証拠だな。と、キヨは思った。
「おい」
背後から声を掛けられ振り向くと、ジェイムスがおずおずとした様子で立っていた。
「なんじゃ?」
「その、いや。何でも……」
「……?」
歯切れの悪い言葉に首を傾げていると、また別の方から声が掛かる。
「おーい、キヨ!呼ばれてるぞ」
「うむ?誰がじゃ?」
見れば、ラディがこちらの様子を伺いつつ、見知らぬ生徒を伴って佇んでいた。
「……はて」
「おい、今は俺が話を、」
話を中断されたジェイムスが気色ばむが、生徒の胸に2年生の印章が付いているのを見て抗議の声を収めた。
「君がキヨ・ミシマ?」
問われ、キヨは素直に頷く。
年は10才前後か。ラディやテオより幾分背が高い。
その生徒はキヨに近づいて、何事かを耳打ちすると、彼女の思考は固まった。
「ここじゃなんだ。ちょっと二人にならないか」
言われるがままにキヨたちは移動する。その間、ジェイムスやラディは怪訝そうに見つめていたが、頭が真っ白になっていたキヨは気付かなかった。