お婆ちゃん、異世界へ行く⁉︎
大きな町というものは、昼夜に関らず騒がしい。
その土地の一角に、まるで世界を切り取ったかの様な静寂に満ちた家があった。
真新しい畳の青臭さが広がる一室に、一同は並んで座る。
この日、三島家には鎮痛な気配と啜り泣きの声が満ちていた。
よくあるサスペンスドラマの冒頭で鳴っている木魚が白々(しらじら)しく聴こえないのは、参列する縁者が皆、本心からその死を悼んでいるからだろう。若いひ孫達も、いつもの様なふざけたような態度は形を潜め、粛々(しゅくしゅく)とした雰囲気に溶け込んでいた。
三島清春、享年89才。
春に生まれ、春に天寿を全うした老婆だ。
棺桶に敷詰められたのは、彼女が一番愛した木。ソメイヨシノの花弁だった。
天命を全うしたと言い捨てるには、惜し過ぎる人の死だった。
「婆ちゃん……」
「キヨちゃん、昨日まで、元気だったのにな」
キヨ、と呼んだのは、清春の60才になる次男だ。彼女は二男一女を産み育て、一人は早くに亡くなったものの、二人の息子は健在だった。
二人の息子には子供達。更にはその子供達と、清春、もといキヨにはひ孫までいる。一人くらい遺産についての話題を出しそうなものだが、三島家では誰もそのれには触れようとしなかった。
キヨは40代で夫を亡くし、女手一つで子を養い育てた。そんな中でも家族の触れ合いや対話を疎かにすることはなく、少ない時間に愛情をたっぷりと注ぎ、親子の絆を確立していた。
息子達にはそれが痛い程分かっていたのだ。
二人共それに習い子を育て、今の世代に至る。
「新築に移って、ようやく新しい人生を送れるところだったのに」
「畳の上で死にたいって言ってたのは叶えてやれたけどな」
それは二人の息子の嘆き。それを打ち払う様に孫達は敢えて明るく言った。
「ほら、父さん達。そんな顔してたら婆ちゃんが天国で心配するよ」
「箒持って飛んで来るぞ」
「キヨ婆、最期まで元気だったからなぁ」
そこからはキヨの武勇伝が始まり、やや空気が和んだ。
二人の息子も、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかないと、哀しみを滲ませながらも何とか笑顔を浮かべたのだった。
*****
“第二の人生”とは、こう云うものだっただろうか?
三島清春、89才。ここではキヨと名乗ろう。
私は可愛い子孫達に囲まれて、一生を遂げた。
ーー筈だった。
(ここは天国かえ?)
疑問を浮かべたのは、その場所が汚いぼろ屋だったからだ。
ぼやけた視界の向こう、くたびれた風情の娘が複雑な笑顔を浮かべていた。そのすぐ側にいる若い男も、何やら申し訳なさそうな表情をしている。
「ーーー」
娘が聞いたことのない言葉を放つ。声から、謝罪の念が読み取れた。
どこからか喧騒が響いてくると、男は娘から私を“受け取って”ぼろ屋を後にした。
木戸一枚向こうは火に包まれ、走り去る人や甲冑姿の兵士らしき者達がちらほら見える。
(ここは地獄かえ⁉︎)
キヨは先程とは真逆の言葉を心の中で叫んだ。声を出そうとしても、唇が巧く動かないからだ。ぐずる赤子のような音が発せられるばかりだった。
「ーーー」
男が宥めるように声を掛ける。
煙から逃げ、キヨを軽々と抱えて走るその姿と、先程からちらちら見える小さな自分の身体から、彼女は自身に降りかかった事態をようやく悟った。
「あじゃぁうあえあぁったんえ‼︎」
(私ゃ、生まれ変わったんかえ‼︎)
一際高く叫ぶと、男は驚いたかのように目を見開き、キヨの口を塞いだ。
すぐ様、物陰に隠れ周囲を見回す男は、長屋から姿を現した兵士に息を詰めた。
キヨも同時に絶句する。
兵士の左手に、赤黒い何かがぶら下がっていたからだ。
薄汚れた髪を手提げにする兵士。気付けば、キヨを抱えていた男が彼女を降ろして、兵士に飛び掛かっていた。
「ーーー‼︎」
「ーーッ」
男の咆哮に次ぎ、兵士が怒号を放つ。
兵士の持っていた槍が、吸い込まれる様にして男の腹に収まると、苦悶の絶叫が周囲に木霊した。
耳を塞ごうにも腕は動いてくれず、眼を閉じようにも目蓋を伏せることすら叶わない。出来ることならば地を蹴って逃げ出したい。
キヨが不自由な己の身体を嘆く中、視覚があるものを拾った。
腹を刺されながら男が兵士から取り返した人の頭部。此方を向いたそれは、目を開けてこそいなかったものの、顔形から先程キヨを抱いていた娘だと分かった。
恐らくは、キヨをこの世に産み落としたであろう母。
ならばそこにいる男は、もしかすると父親か……。
それを確かめる術がもうないと分かるのは、彼の者の首が槍を投げ出した兵士の短剣によって斬り落とされてしまったからだ。
キヨの頭に血が登る。長らく湧くことのなかった怒りが、胸の中を焼き尽くそうとした時ーー。
煙の向こうから号令が響き、兵士は亡骸を捨て置いて足早に行ってしまった。
非道な兵士の後ろ姿を、恐らくは両親かも知れない男女の血に塗れた亡骸を、キヨは動かない身体の代わりにしっかりと眼裏に焼き付けたのだった。
*****
人間、生きている限りは腹が減る。
ーーそれは、早くに夫を亡くし泣き暮れていた頃にキヨが学んだことである。
赤子の身では尚更、空腹感に襲われた。
村の焼き討ちから一年が経っている。この頃には“この世界”(フィレス)の言葉がある程度分かるようになった。
ここは大国に挟まれる様にして存在する、元は流民の集落。名も無き小さな村だった。焼き討ちを仕掛けたのは隣国ティグマーレンという軍事国家で、今はアクゼリュオンという国と戦争中らしい。
村を襲ったのは、アクゼリュオン侵攻の足掛かりにする為、拠点の確保に手を伸ばしてきたということだ。
しかし、タイミング悪くアクゼリュオンの軍に見つかり、退却を余儀無くされた。村人の死は、文字通り無駄となってしまったのだ。キヨは、ティグマーレンに並々ならぬ怒りを抱いていた。
「あら。お乳かしら?」
赤子らしからぬ低い声で唸ると、若い娘がそそくさとやって来た。キヨは現在、拾われて別の娘に育てられているのだ。
キヨがぐずると、娘はすぐに乳やおしめを替えてくれる。面倒見の良い娘だった。
「ちょっと待ってね、今用意するから」
娘は手慣れた様子で衣服をはだけ、吸口にキヨの頭を寄せた。
こういう時、少しも恥ずかしいと思わないのは、自分が本当は90才にもなるお婆ちゃんだからだろうか。それとも、10代で亡くした前世の母に通じるものがあるからだろうか。
ミラという19才になる娘は、先の戦火で産まれたばかりの子を亡くしたらしい。
物陰に泣くキヨに気付いて安全な場所まで運んでくれて、そのまま面倒を見てくれたのだった。
淡い金の髪を肩に垂らした、深い緑の瞳の優しげな娘に、当初は戸惑ったものだ。
ミラだけでなく他の住人も日本にはない色を持っている様だ。今では目も慣れてしまったのか、どんな色彩の顔に覗き込まれても驚かない自信はあるが。
お乳を貰いながらミラの顔を凝視ていると、彼女が笑み掛けてくる。
キヨは70年ぶりにもなる母の温もりに、身を委ねるのだった。
****
ーー更に2年が経った。
村は相変わらず廃れるばかりで、キヨも健やかに育ったとは言い難い。
キヨだけでなくミラも他の村人も皆、痩せ細り木の根を齧る様な暮らしぶりだった。
2年経っても今だ焼け落ちたままの建物や木々が視界に映り、気分が下降する。そんな日々の中、明るいその声が響く度に、キヨは心を救われていた。
「キヨちゃん。3才の誕生日おめでとう」
そう言ったのは、淡い金糸の髪を一つに束ね、細い面を笑み崩したミラだった。彼女は過酷な村の生活でも輝いて見える。キヨはそれを愛おしく思った。
彼女にはキヨの過去を包み隠さず話している。話す、というより地面に描いた絵を用いた説明が多いが。
この大陸には中立地帯であるこの村を省いて3国から成る。豊穣の大国アクゼリュオン、軍事国家ティグマーレン、鎖国して久しい砂の国マハトラ。
それらは一部を除いて共通の言語らしいが、識字率は中流階級以下は皆無。当然ながら、貧困な中立地帯の村に字を書ける者など存在しない。だからこそ、絵に頼った説明になったのだった。ミラには代わりに分かる範囲で周囲の状況を教えて貰った。
キヨと名乗ったのは、彼女が2才になってようやく発音が鮮明になってきてからになる。それまでは名付けに困ったのか、“チビちゃん”や“ラピスちゃん”などと呼ばれていた。何故“ラピスちゃん”なのかというと、瞳の色が瑠璃色だかららしい。鏡などない村では確認の仕様もないが。
今日は、キヨがこの世に生を受けて3年目になる。ひもじい村だが少し行った所に海があるらしく、ミラが頑張って捕って来たであろう小魚が数匹、木の葉に並べて出された。
「おぉ!さかなかっ!」
「うふふ。キヨちゃん、お魚好きよね〜」
「わたしのためにわざわざ……、ありがたくいただこう」
年を取ると涙腺が緩んでいかん、と幼い声でジジ臭く言いながら手を合わせる。ミラも真似をして“いただきます”をしてから自ら捕った魚を箸で突付いた。
キヨは赤子だが90年分の記憶と知識がある。対するミラは母親の立場だが血縁者ではなく、まだ21才の若い娘だ。
二人は微妙な位置関係だったが、お互いのあり様を受け入れ、尊重し合って今に至る。
「あ、キヨちゃん。髪にくっついているわよ」
見れば、キヨの真っ白な髪に鈍色の魚の皮が着いていた。ミラがそれをひょいと取って自身の口に運ぶ姿を見て、お節介心が湧く。
「すまんな。ーーしかしミラ、かみについたものをくちにするのはいかん。きたないでの」
「え〜、もったいないじゃないの」
幼い声でジジ臭く説教する姿も見慣れたもの。ミラは不満気な口調ながら、笑みを浮かべていた。
「おしんではらをこわしても、こまるじゃろ?」
「だぁいじょうぶよ。キヨちゃんの髪は綺麗だから!」
確かにキヨの髪は綺麗だ。貧しい村に風呂があるはずはなく、雨天に水浴びをするか海で海水浴するしかないにも関わらず、真っ白な新雪の雪を思わせる白い髪は、年々伸びつつも穢れることは無かった。
ーーしかし、問題はそこではない。
「みためはきれいでも、みえないよごれというものがあるんじゃよ」
村のある中立地帯にも山があり、清水が流れていて、村の生活水は全てそこから賄っている。しかし、水を引いている訳ではない。皆、手ずから運んで使っているのだ。
水引きには日数も人手もいる。しかし、稀に巡廻に来るティグマーレン兵に攻撃されかねない上、その湖が駐屯地に使われることもあるので、思い切って移住することも出来ないのだった。
何が困るかというと、不衛生なのである。
下水がない為に水は使い回され、最後には地面にそのまま捨てられる。水捌けは悪くないのだが、汚ない水は腐りやすく、辺りには根腐れした草花や木々が点々としている状態。
流石に泥水を啜ることはないものの、余りに不潔だ。しかも問題なのは、村人達はそれを知らない事だった。
怪我の化膿や病気に感染しやすく、非常に危うい現状だが、誰もそれらに気付かないのだ。
これは抜本的改革が必要。ーーキヨは心に固く誓いを立てたのだった。
*****
フィレス大陸。中立の無名の村に、キヨが産まれてから4年の月日が経った。
3才の誕生日から始めた村の“改革”(かいかく)は、恙無く進んでいる。
真っ先に手を付けたのは、やはり衛生面だ。清潔の定義を布教することをはじめ、排水に関してや手洗いうがいの大切さなど、当初は全く相手にされなかったのだが、ミラの補助や確かな実績によって、現在ではすっかり受け入れられている。
同時に進めた水引作業で生活水道、下水道設備を整え、結果として病気に掛かり難くもなった。それによってキヨの言葉(実際はミラだが)に村人は期待と信頼を置くようになった。
林業を始め漁業も同時進行し、僅か50名足らずしかいない中、作業を割り振った。
始めこそキツかったが、最近流民が入る様になった為、人員は着実に増えている。
以前は村の廃れ具合に中々居着かず、他国、主にティグマーレンの脅威に晒され減るばかりだった人口は、今や150名に達する程だ。
この一年間で100人も増えたことは、キヨーー牽いては村にとっては僥倖だった。
しかし人数が増えれば増える程、個人というものは疎かになりがち。そこでキヨは、ミラに人口の管理をお願いすることにした。
「ミラ。すまんが、人事を頼めんかの」
「じんじ?何かしら……」
「元よりいる村人や、出入りする人の数と状態を調べて、情報を管理する。これによって全体を把握して、住居や仕事の割り振りを考えるのじゃ」
澄んだ声で淀みなく話すキヨに、ミラは首を傾げながらも頷いた。
「うーん。……よく分からないけど、人数を数えればいいのかしら。でも、どうやって?」
「先ずは土地に記号を振る。そこに村民の名前と世帯、人数を記していけばよい」
「分かったわ」
「ああ、怪我人や病人、子供の数も分かる様にな。頼んだぞ」
「は〜い」
実は最近、流民の中で元・中流家庭の商人が入ったのだ。彼は妻子共々字が書ける為、キヨは勿論のこと、ミラ以下数十名の村人に文字を教えて貰っている。
ミラにはキヨの手足になって貰っているので、読み書き算術は必須だった。
彼女はキヨの保護者としての顔を持ちながら、村の運営の仕事を手伝ってくれる。とても貴重で重要な人物だからだ。ーー例えミミズがのたうち回ったような字でも、読めさえすれば良いのだ。
フィレス共通語は割と単純で覚え易く、これなら識字率を上げるのは難しくないと見た。同時に、キヨは自身が赤子からやり直せた事に初めて感謝した。呆けてはいなくとも、90才の身体で読み書き練習は余りに酷だったろう。
林業を進めたお陰で紙が作れる様になった為、インク製造に人員を振った。全て手作業な為に今は難しいが、いずれ一家庭に紙30枚、インク1瓶は配りたいものだ。
しかしまさか、たった一年でここまで変わるとは。
予想以上の成果だ。外交もなく自給自足のみでも以前の暮らし振りからは想像もつかない変わりようだった。叩けば響く様に策は実り、着実に理想が叶いつつある。
ーーさて。次はどこに手を付けようか。
キヨはこの頃、新しい人生を楽しむ様になっていた。
*****
ーーアクゼリュオンの王城にて。
とある一室では間諜より報告書が提出されていた。
布製のそれを眺めるのは穏やかな面差しの少年。アクゼリュオンの第4王子だった。
齢9才ながら政務に携わる彼が、兄弟姉妹の中で、実は国王に1番近しい性質を持つことを一部を除いて知られてはいない。
「ありがとう、もういいよ」
子供らしからぬ落ち着いた声音が、僅かに明るく響く。間諜は一礼した後、すぐ様退出して行った。
部屋に残された王子は報告書を片手に思案に耽る。それは、ここ数ヶ月で大きく変化した中立地帯についての報告だ。
「朽ちかけた村に増える移民……」
布を広げると、そこにはやや乱れた字で女性の名が書かれていた。
「ミラ、ね」
それは急激に息を吹き返したという廃村の、代表者の欄に書かれた名だった。
中立地帯は、永きに渡るティグマーレンとの戦争の犠牲になり続けた土地だ。両国間で拠点にされていた土地は枯れ果て、誰にも顧られることなく打ち捨てられた場所だった。彼の記憶では、異端や訳ありの者が流れ着く土地だと耳にしたことがある。
古い地図にすら名前のない村だった。
ーーところが最近、商人の出入りが頻繁にあるという。物が流通し、雰囲気がガラリと変わったらしい。
王子は非常に興味を惹かれた。
一体どんな様子なのか。どんな変化があったのか。は報告書では分からない詳細が知りたくなった。
「誰か、母上に先触れを出せ。今すぐお目処おりしたい」
高らかな声は穏やかに、しかし確かな強制力を持っていた。