program1 『Beginning of summer』
暑い。
俺の頭はそう感じていた。だからこそ、この滲み出る汗をどうにか止めようと冷静な事を考えてみるが、俺のシャツは濡れる一方だった。
周りを見渡すと、蝉は狂ったように鳴いていて、青々と茂った木々は季節を彷彿とさせていた。俺は鞄から下敷きを取り出し、身体に向けて微風を当てる。
「あちぃ……」
それでも口から漏れるのは、そんな弱弱しい言葉だった。
「お兄ちゃん! 暑い暑い言ってると、余計に暑くなっちゃうんだよ?」
横で騒々しく喋る妹は、暑さを乗り越える術を知っているようだった。まぁそれが、学会で証明されている方法かは別として。
「そんな事言ったって、暑いもんは暑いんだ」
「そう? 私はそこまでじゃないよ? この制服も通気性がいいし」
「制服というか、スカートが通気性を上げているんじゃないのか? 俺のズボンと変えてほしいわ」
「えぇ! お兄ちゃん、スカートが履きたいの?」
いや、そういう意味じゃなくな?
「気持ちの話だよ」
「やらしぃ」
「やらしくない!」
妹の希海は、変質者を見るような目で俺を蔑み、その後クスクスと笑いだした。
両親が事故で死んだあの日から、もう二年の月日が流れた。あの頃まだ中防だった俺も、晴れて高校一年生の夏を迎え、妹の希海もあの時の俺と同じ中学二年となっていた。
あの頃まだ泣き虫だった希海も、今じゃ憎たらしくも可愛らしい妹へと成長した。顔も兄の目から見ても可愛いと呼べる部類にまでなり、しぐさも女らしさを少しずつだが醸し出すようになっていた。それでも、昔と変わらない無邪気な笑顔などをみると、やっぱり妹の希海だと実感していた。もっと大人になっても、それを無くさないでいてほしいと常々思うぜ。
「何考えてんの? まさかっ! お兄ちゃん、私の制服狙ってたりしないよね?」
俺は一体どんな顔をしていたのだろう。俺の顔から何かを読み取った希海は、一歩後ずさった。
「そんな事考えてねーよ!」
「……嘘だね」
「いや嘘じゃねーよ」
「じゃぁ何考えてたの?」
「そ、それはだなぁ……」
いい成長をしてくれた妹について考えてたとは、兄として言えないよな。
「ほら! すぐに答えられないって事は、そういう事じゃん!」
「違う! 俺はただ……」
「俺はただ?」
「ああ! もう、何でもない!」
「何それ? 変なお兄ちゃん。いや、変態お兄ちゃんか」
それはやめてくれ。周りの人が聞いたら変な目で見られる。
「でもね、お兄ちゃん」
「ん?」
妹が何かを口ずさむ。だが、声が小さすぎるのか、それとも周りの蝉が五月蝿いのか、希海の言葉が俺の耳に届くことはなかった。
「なんだ? 聞こえなかったぞ?」
「何でもない。じゃあお兄ちゃん。私、こっちで友達と待ち合わせしてるから」
希海はいつもの無邪気なスマイルでそう言うと、交差点を右に曲がって小走りになって進んだ。それを見送っていると、希海は途中で立ち止まりこちらを振り向いた。
「お兄ちゃん!」
「何だ?」
「学校でスカート、盗んじゃ駄目だからね!」
俺の顔が、茹蛸よりも赤くなるのが分かった。
「し、しねーよ!」
俺が叫ぶと、希海はまた無邪気なスマイルで手を振り走っていった。まったくなんて奴だ。ここが駅前とかだったら、誰かしら通報するレベルの内容だったぞ。つくづくここが、閑静な住宅街の一角でよかったぜ。
でも待てよ? 住宅街って事は、家の数ほど人もいるって事じゃないか? なら、駅前だろうが学校だろうがここだろうが関係ないんじゃないのか?
俺は颯爽とここを去ることにした。
希海と別れてから歩く事十分。ようやく俺の通う黎明学園が見えてきた。
名前の通り完全なる私立高校で、その大きさや外観も、まるで小説の中に出てくるような魔法学校みたいな神秘さを感じる地元の名門校だ。それも、理事長を務めている人が凄いからという理由なのだが、よくもまぁ学校にこれだけ金をかけるなと感心する。
希海も来年になったらここを受験すると言っているが、兄としてもおススメするほど施設も充実しているし、生徒たちの雰囲気も悪くない。ただ、学費は少し高めだ。俺の場合は学力推薦だし、入学費をはじめとした金はあまりかかっていない。まぁ希海も学力優秀なようだし、もしかしたら推薦をもらえるかもしれないが、どこだろうとあいつの好きな進路を決めさせてやるつもりだ。金の心配なんかしなくてもいいし、兄として、保護者として、希海には幸せになってほしいからな。
『相変わらず妹思いですね。今時の言葉で言うと、シスコンですかね』
校門まで一直線の並木道を歩いていると、頭上から声がかかった。普通なら頭上から声などするはずがないのは誰でも分かることだ。俺も百七十以上は身長があるし、俺より大きい奴もいるだろうが、今のは女の声だ。それも、聞きなれた。
「それは似て非なる意味の言葉だ。人を馬鹿にしてるのか? エルザ」
俺はゆっくりと振り返った。
エルザは、いつものように俺の背後でプカプカ浮いていた。コスプレとしか思えない異様な服装に身を包み、紫と黒の間のような色をした髪は頭の後ろで一つに結ばれている。服の間からちらちらと覗かせる白い肌と大きな目に赤い瞳、整った目鼻筋は童話の世界のキャラクターのようである。
事実、こいつは人間ではない。ルックスの話ではなく、まず宙に浮いている時点で俺たち人類とは違う何かであることは間違いない。さらに付け加えると、俺以外の人間には見えないし、話せない。さっき希海といる時もずっと後ろにいたし、今だって登校中の学生が騒いだり、倒れて救急車で運ばれたりはしていない。
そう。こいつは二年前に突如俺の前に現れた、天使みたいな悪魔みたいな妖精みたいな何かだ。俺があやふやな訳じゃない。エルザがそう言っているのだ。
『そうです。エルザは天使でもあり、悪魔でもあり、妖精でもある、凄い神様なのです!』
また自分の称号を付け足しやがった。で? 結局お前は何者なんだ?
『うーん。まだ下界の概念に登場していない者。もしくは、それを全部合体させた者。って感じです。あ、でも神様は言い過ぎました。それは嘘です。ごめんなさい』
なんなんだよ。じゃあ何か? 神様は本当にいるってのか?
『はい。神様は凄いんですよ? 何が凄いって、とにかく凄いです』
いい加減な奴だなぁ。
『すみません……』
会話を続けながらも、俺は並木道を校門に向かいながら歩く。
ちなみに、俺とエルザは意識の中で会話できる。いや、正確に言うと、エルザが俺の心を読むことができるから、それに対する返答を声に出している。そのおかげで、俺が一人ごとをぶつぶつ言うような変人に思われた事はなくそこは便利であるが、謎の生物に取り憑かれているという点では、俺も変人なのかもしれない。
『エルザは謎の生物でもなければ、知樹さんに取り憑いている訳でもありません!』
じゃ何か? お前は幽霊とは違うのか?
『全然違います! 幽霊と一緒にされるのは心外です』
お前と一緒にされた幽霊の方が心外だと思うぞ。
『むぅ……知樹さん、いじわるです』
エルザは頬をフグのようにふくらまし、俺に異を唱えてきた。可愛らしいと言えばそうなんだが、パートナーとしての意識が高く、俺がこいつに目を奪われることはもうない。まぁ、会ったばかりの頃は少しあった事はここだけの内緒だ。
俺は、すねているエルザを横目に校門をくぐった。
「草壁知樹!」
丁度昇降口に入ろうとした時だった。突然横から名前を叫ばれた。一体誰だとも考えず、俺は歩みを進めた。
「ちょっと、無視するんじゃないですわよ!」
うるせーな。俺は可愛い妹と登校できて気分がいいんだよ。絡んでくるな。
『知樹さん。こっちに来るです』
まったく、めんどくせーな。
俺は渋々歩みを止め、声のした方向に身体を向けた。
「なんだよ? 朝からでけー声で名前呼ぶなよな」
「そんなの、私の勝手ですわ」
俺を殴ろうとしたのか知らないが、そいつは随分と俺の近くまで歩み寄っていた。
金色の長い髪は風に靡き、その一本一本に手入れが行き届いているのが分かるほどきめ細かい。すまし顔で閉じていた瞳は、開くとコバルトブルーに輝く。一瞬外国人と思わせるような容姿に、スレンダーながら出るところは出ている美少女。
というのが、誰しも大河原麗奈に抱く第一印象だろう。
『麗奈さんも、毎日毎日大変ですね』
エルザの言う通り、実はこの俺単独呼び出しは毎朝の事だ。いつから始まったのかなんてのはティッシュと一緒にゴミ箱に捨てちまったが、もういい加減やめてほしいわ。
「それで女帝様。今日はなんの御用で?」
大河原麗奈の学校での通り名が『女帝』である。
今も麗奈の周りには男女問わず有象無象が取り巻いていることから分かるように、この学校では絶対不可侵の支配者である。まぁ少し言い過ぎではあるが、事実こいつを憧れ、もしくは崇拝する生徒は少なくない。
だが分からなくもない。実を言うと俺は麗奈とは幼稚園からの知り合いだ。巷ではそれを幼なじみと呼ぶらしいが、俺たちはそんなお花畑のような可愛らしい間柄ではない。あってはぶつかり合う因縁の相手って感じだ。だからこそ、こいつの凄さは良く分かっているつもりだ。
容姿端麗、頭脳明晰。おまけに大河原財閥のご令嬢でこの学園の理事長の娘である。
すげーだろ。もの凄い金持ちで、もの凄いお嬢様だ。もちろん態度も。
だからこそ。おれは麗奈が昔から嫌いだった。それは現在進行形でそうなのだがな。
「ちょっと、聞いてますの?」
不機嫌そうに麗奈は腕を組む。
「え? 何?」
「本当に聞いてなかってんですの? あなたはそうやっていつも私の事を馬鹿にして!」
いや。今回ばかりは本当にそんなつもりはなかったんだけど……。
「まぁいいですわ。草壁知樹!」
麗奈は俺に向かって人差し指を突き出してくる。
だから、いちいちフルネームで呼ぶなっての。
「あなた、女装壁があるっていうのは本当ですの?」
「っ!」
な、なんだそりゃぁぁぁ!
「もしかして、図星なんですの?」
周りの目が痛い。麗奈の親衛隊以外にも、登校中の奴らが足を止めて俺を凝視してくる。
「ま、待て! 何でそんな話に? てか、誰だそんな根も葉もない噂を流したのは!」
何でいきなりそんな事になっているのか皆目見当がつかない。どういう事だ? エルザ。分かるか?
『いえ。エルザもまったく……あれ? でもこの話、どっかで聞いたような』
ちょっと待て? 俺にも覚えが……って、まさか!
「先ほど希海がそういった内容のメールを送ってきたのですわ」
俺と昔から馴染のある麗奈。すると自動的に妹の希海とも知り合いな訳で、何故かこの二人は気が合うらしく一緒に出掛けたりもする仲だ。アドレスなんかは勿論交換済みだろう。
そして俺は、それを完全に忘れていた……。
「すまん麗奈。そのメール、見せてもらってもいいか?」
有象無象が麗奈を呼び捨てにしたことに憤慨しているようだが、当の麗奈は、
「これですわ」
と、あっさり携帯を渡してきた。
いくらお嬢様と言えど、携帯に関してはどこにでも打っているスマホであるようで、俺はそのディスプレイに並ぶ文字に目を通した。
件名:麗奈ちゃんへ
本文:今日、うちの兄に女装壁があることが分かりました。学校の治安の為にも、兄がそういった奇行に走らないよう監視をお願いします。
P・S
麗奈ちゃん可愛いから、一番に制服を狙われるかも……。気を付けてね!
震えたね。足なんてもうガクガクだ。
「これは一体どういう意味ですの? 今も私の制服を狙っていたりとか……」
俺と同じように麗奈や周りの連中も震えていた。理由を知っているはずのエルザでさえ俺を蔑んだ目で見やがる。
「ちょっと待っててくれ」
俺は携帯を開き、連絡帳から草壁希海を選択、すぐさまコールする。何度かのコール音の後、相手は電話に出た。
「もしもし、希海か?」
『お兄ちゃん? どうしたの?』
「いや、どうしたもこうしたもねーよ。お前が麗奈に送ったメールのせいで――」
『え、お兄ちゃん、麗奈さんの制服もう襲っちゃったの?』
何でそうなる!
「いや、そういう事じゃなくてだな――」
『もう最低! そんな兄と話す事なんてありません』
「お前なぁ……」
『嘘嘘。ちょっと冗談が過ぎちゃったかな? 今そこに麗奈ちゃんいる?』
「ああ。いるけど?」
携帯を耳に当てながら、横目で麗奈を見る。青い瞳は完璧に俺を捉えていて、まるでゴミを見るような目をしてやがる。
『じゃあ麗奈ちゃんに代わって』
「え、ああ」
俺は麗奈に携帯を突き出す。
「なんですの?」
「希海だ。お前に話があるらしい」
「そうですか」
俺から携帯を受け取り、麗奈はそれを耳に宛て話始めた。
俺も少し余裕ができたせいか、周りを見渡してみる。まるで不良が乗り込んできたかのように野次馬が増えていた。今にも逃げ出したい気分だ。
「はい」
少し顔を赤らめ、麗奈は俺に携帯を返してきた。俺はそれをポケットにしまいながら、
「何だって?」
一番気になった事だ。
「その、あれは希海のいたずらだったみたいですわ。あなたにはそういった気質はないと説明されました。それに……」
口は動かしているものの、俺と一度も目を合わそうとしない。顔も赤いし、一体希海に何を言われたんだ?
「それで?」
「いえ。何でもないですわ。と、とにかく、今日のところはこれで勘弁しますわ。では」
そう言って、麗奈は有象無象と校舎内へと消えていった。それと同調するように、あれだけいた野次馬も徐々に数を減らしていく。一体何を言おうとしたのか気になったが、あまりここには長く居たくなかったので、俺もすぐに下駄箱へと向かった。
時計を見る。
かなり長い時間拘束されていた気がしたが、ものの五分も経っていなかった。
教室に着くと、視線が俺を突き刺した。どうやら女装壁の噂が既に広まっているようだ。俺は顔を伏せながら窓際後方二番目にある席に向かった。
重たい足取りでようやく自分のテリトリーにたどり着くと、俺は椅子にゆっくりと腰を下ろした。鞄を適当に置き、できるだけクラスの奴らと視線を合わせないよう、窓の外に顔を向ける。
まったく。何で俺がこんな目に合わないといけないんだ。
『災難でしたね』
エルザが俺の机の上で正座する。俺にははっきりと見えているこいつだが、他の奴らからは見えていないのだから、こんな不良行為も当然許される。
俺はお前が羨ましいよ。
『何でですか?』
自分で言って、何でエルザが羨ましいのか分からなかった。まぁ独り言みたいなものだ。気にするな。
『そうですか。そう言えば、知樹さん。今日は家に帰るんですか?』
この帰るとは、学校から直接帰ってくるのかって意味だ。それに対しての俺の返答はノーだ。
『分かりました。ならお家の事はお任せください!』
俺がいない時は、家の事と希海の事をエルザに任せている。とは言ったものの、エルザはただいるだけで何もしていないんだけどな。
てか、今の俺はオフモード。そういう話は無しだって前に言っただろ?
『そうでした。ごめんなさい』
そう言って、エルザは机から降りるとどこかへと飛んでいった。別にいつも俺にくっついてるって訳じゃないんだし、俺も気にせず外を眺めていると、
「お前も大変だよな」
入れ替わりに机に座ってくる影が一つ。俺はそれでも目線を変えることなく、
「そうでもないさ」
と、影に向かって声をかけた。
「ポジティブだなぁ知樹はよ。俺だったら不登校になるね」
俺はゆっくりと顔を動かす。
栗色の短髪をワックスで綺麗に立たせ、子供のような笑顔を作っているそいつは俺の悪友、久坂紀之。麗奈と同じ幼稚園からの付き合いで、昔から色々な事を一緒にやってきた中だ。
「麗奈も変わんねーよな。いい加減やめりゃいいのに」
「頼んだってやめてくんねーだろ。元々俺たちは合わねーんだよ」
「ちげーねー。でも、俺はそれだけじゃねーと思うけどな」
「ん? どういう意味だ?」
「いや。何でもねー」
紀之は昔から鋭いところがある。俺は逆に鈍感な部分があるとよく希海に言われてる分、紀之にしか分からない事ってのがあるんだろう。
「久坂君。机の上に乗るのはどうかと思います」
「やべ。委員長だ」
学級委員長の増子さんがこちらに声をかけてくる。それを聞いて紀之は机から飛び降りた。その後一度増子さんに謝ると、前の席に座った。
紀之がそこそこの学力を持っているおかげで、こうして高校まで一緒になることができたが、昔からの馬鹿さは抜けないらしく、学校では有名な不真面目生徒のリストに入っているらしい。
だから、生徒会や学級委員の人間たちが目を光らせるのも納得がいく。
「紀之の方が大変に見えるのは、俺の気のせいか?」
「はは。そうかもな」
高らかに笑う顔は、悩みなど一つもないように見えた。
「それで? どうだ、調子は」
「ん? そこそこだ。順調と言えると思う」
「そうか」
紀之の『調子』というのは、俺の秘密の話だろうと察しがついた。紀之は、学校で俺の秘密を知る唯一の人物だからだ。だが、ここで言う秘密はエルザの事ではない。エルザの件については、世界中俺以外誰も知らない事だからな。
「知樹を見てると、俺も頑張ろうって気になるぜ」
「よくそんな口から出まかせが言えたもんだな」
「本音だよ」
「気持ちわるっ」
「うるせー」
こうやって二人で馬鹿な話をしている時が、俺にとって一番楽しい時間だった。二年前も、こいつにどれだけ助けられたか。希海のことや色々な事でパンパンだった俺を、支えてくれた一人と言っても過言ではないだろう。
本気で感謝してるんだぜ? 気持ち悪いから口には出さないけどな。
「ほら。ホームルームを始めるぞ。全員席に着け」
教室の入り口から声がする。担任であり、保健体育の教師山口がいつものジャージ姿で教壇に向かう。クラスメートたちが自分の席に向かい始める様を、頬杖をつきながら見ていると、
「じゃあ知樹。俺も行くわ」
と、紀之も自分の席に向かった。
予定調和な挨拶が終わった後、俺は窓の外に視線を向けていた。今日も世界は平和ですっと。
だが、今日はいつものホームルームとは一味違った。
「今日は連絡事項の前に、転校生を紹介する」
クラスがどっと盛り上がるのが手に取るように分かった。男子女子問わず、色々な思惑が飛び交う。男か女か、かっこいいとかかわいいとか。まぁどうでもいい話だ。
「入れ」
何度か体験した転校生の紹介でいつも謎に思っていた事が一つある。それは、何故転校生は呼ばれるまで廊下で待たされるのかと言う事だ。世間話にもならないようなどうでもいい話題ではあるが、何故と聞けば皆が首をかしげる事だろう。
そんなこんなを考えていると、ドアがゆっくりとスライドする。公立高校の古いドアのように大きな音はたたない。流石は名門私立高校と言ったところだろう。俺も転校生の登場に多少の興味を示し、窓から入り口へと視線を移す。
ドアの奥から最初に見えたのは、ゆらりと靡くスカートだった。どうやら転校生は女生徒のようだ。クラスがまた騒がしくなる。もちろん男子の声の方が大きい。前方の席にいる紀之なんて立ち上がって拍手をしていた。
だが、その気持ちも分からなくはない。
なんせ扉の向こうから入ってきた転校生は 、とんでもない美少女だったからだ。
騒ぐクラスメートを横目に黒板の前まで歩いてきた転校生は、立ち止まりこちらを向く。その間にその後ろでは山口がその女生徒の名前であろう文字を黒板に書いていた。
「じゃあ、自己紹介してくれ」
「はい。柳瀬涼香といいます。どうぞ、よろしくお願いします」
頭を深く下げる。それと同時に教室は今日最大の盛り上がりを見せた。まるで夏休みが一週間ほど増えたような、そんな盛り上がり方だった。
俺はその盛り上がりに同調する事はなく、ただただ柳瀬涼香さんを見た。
黒く背中まである長い髪に白い肌。スレンダーな印象を受けるが決してスタイルが悪い訳ではない。完全なる大和撫子と言うべきか。今思うと、俺の知り合いには麗奈やエルザなどの美少女がそこそこいるが、柳瀬はまた違うベクトルの美少女だった。
「じゃあ柳瀬、お前の席は――あそこだ」
そう言って山口が指さしたのは、俺の後ろの席だった。
俺はゆっくりと頭を後ろに向けた。そこは山口の方針で先週の席替えから空席であり、俺がよく物置として使う席でもあった。今良く分かった。何故窓際最後方の席を開けていたのか。それは、転校生がくる予定だったからなのだろう。
「あのぉ」
声をかけられ、顔を前に戻す。そこには柳瀬が少し困り顔でこちらを見ていた。
「ん?」
「えっと、柳瀬涼香です」
それはもう聞いたぞ?
俺が首をかしげていると、柳瀬は言葉を続けた。
「あの、よろしくお願いします」
さっきの自己紹介の時みたいな丁寧な頭の下げ方をする。
近くでみると、改めて美少女である事を実感した。黒く大きな目は優しさを醸し出していて、顔も俺より遥かに小さい。
「え、ああ。こちらこそ」
俺も同じように頭を下げた。それを見て安心したのか、柳瀬は顔を上げるとその小さな口を緩ませ微笑んだ。
「じゃあ、また後でね」
そう言って後ろの席に向かう柳瀬だが、俺の真後ろなのにまた後でってどういう意味だろうか。
そんな疑問を抱いた時だった。背中に突然氷を入れられたかのような嫌な感覚が俺を襲った。
恐る恐る周りを見渡す。予想通りクラスメートたち――主に男子生徒が俺の事を刺すように睨んでいた。
今日は朝から、ついてないぜ……。
『一つだけ、お願いごとを叶えてあげるです』
俺の目の前に降りてきた光が人間に姿を変えたと思ったら、突然そんな事を言った。
「え?」
『聞こえなかったんですか? 一つだけ、お願いごとを叶えてあげるです』
そう言った人間は少女で、俺と同じ位の歳に見えた。
コスプレとしか言いようがない服装に身を包み、髪は紫に近い色。それでいて空から光に包まれ登場した。真性の変人であることは確かなのだが、ルックスは非常に良く、美少女と呼ぶにふさわしかった。
「何者だあんた」
俺は至って冷静だった。おそらく両親が死んだばかりという事があったせいか、頭がすべて冷静に対処するように変わってしまったのだろう。
『エルザの名前はエルザ。下界の言葉では、天使でもあり、悪魔でもあり、妖精でもある凄い存在なのです』
この瞬間。絶対に関わってはいけない人物だと、俺の中の警報器がけたたましく鳴った。
「そうですか。じゃあさようなら」
『ちょ、ちょっと待ってくださーい!』
「なんすか」
立ち去ろうとする俺の袖を、その変人は掴んだ。一応触れることは可能らしい。
『願い事を叶えてほしくないんですか?』
「いや、別に」
俺は足に力を込め、変人を振り切ろうとする。だが思ったよりも力が強く、俺の袖が開放される事はなかった。
『嘘ですぅ! 今の知樹さんは、誰よりも願いを叶えて欲しいはずです!』
俺は足に力を入れるのを止め、変人に向き直った。
「何で俺の名前を知っている?」
『それは、私が凄いからです』
理由になっていない。
『理由になってます!』
俺は眉間にしわを寄せ、袖に掛かった手を振り払った。さっきまでは微動だにもしなかったのに、あっさりと袖は解放され、変人はその手を引っ込めた。
「何なんだお前は!」
さすがに冷静さを失った。俺が心で思った事を、あたかも聞いたかのように返事をしてきやがったからだ。空から降ってきたり、変な身なりをしていたり、一体なんだっていうだ!
『そ、そんなに怒らないでください……。エルザはただ、知樹さんを見ていられなくて……』
「どういう意味だそりゃ!」
さらに感情が高ぶる。自然と声も大きくなった。
『ど、怒鳴らないでください……。エルザはいつもこの場所で知樹さんを見ていました。いつも色々な顔をしてエルザもそれを見ては晴れやかな気持ちになっていたです。でも、ご両親を一斉に亡くされた今日の知樹さんを見ていると、エルザも……エルザもぉ……うぇぇぇん!』
突然変人は泣きだした。それはもう子供みたいな泣き方で、希海とあまり変わらなかった。それを見て、俺の気持ちは少し落ち着きを取り戻した。
「まったく……。それで? 何しにお前は現れたんだよ?」
『……ひっく……エルザの話、聞いてくれるですか?』
「あぁ。話を聞くくらい無害だろうからな」
『あ、ありがろう……ごらいまふ……』
とりあえず涙を拭いてもらうため、俺はポケットからハンカチを取り出し渡した。変人はそれを受け取ると思いっきり鼻をかんだ。
「おい。それはティッシュじゃねんだから鼻かむんじゃねぇよ」
『……すびません』
まったく非常識な奴だ。
「落ち着いたか?」
『……はい』
一度鼻をすすった変人――エルザは、手を胸の前で組むと俺の目を見た。
『知樹さんの願いを、一つだけ叶えてあげるです』
またそれか。
「そんな事できるのか?」
『はいです! 私は人間の願いを一つだけ叶えてあげる事ができるです!』
「なんでもか?」
『はい!』
「じゃあ、父さんと母さんを生き返らせてくれ」
俺は八割信じていなかった。だが両親を亡くし途方に暮れていた俺は、二割でも可能性があるのならそれに縋ってみたかったのだ。
『ごめんなさいです。それはできません』
「は? 何でもじゃなかったのか?」
『すみません、言いすぎました。人の生命にかかわる事は、エルザ達の住む世界でタブーでして、その願いは叶える事はできないです』
そんな事だろうとは思っていたさ。だけども俺の落胆は意外にも大きく、少し期待していた分気持ちも落ちていた。
『で、でも、それ以外だったらできますです!』
「じゃあ、金持ちにしてくれ」
もう投槍だった。何だってよかったんだ。
『それで、いいのですか?』
はい?
「金持ちに、できるのか?」
どうやってやるんだ? 突然数億って大金が空から降ってくるとか、そういうじゃないだろうな?
『できるです。ですが、知樹さんが考えているような形ではないです』
「じゃあどうやってだ?」
『お金という形ではなく、富という形で叶えます』
「富?」
富とか名声とかいう、あの富か?
『はいです。知樹さんにも動いてもらい、その結果お金持ちになるというプロセスを与えます。ただ大金を出すだけではありませんですけど、いいですか?』
プロセスって事は、金持ちになるまでの過程を与えるという意味だ。という事は、俺が思い描いていた札束の降る夜計画とはまったく違う訳なのだが、正直悪い気はしなかった。今後どうなるか分からないのは同じだ。なら金持ちになる可能性がある方がいいに決まっている。別に金がたらふく欲しい訳じゃない。多少の金とそれを稼ぐ方法があれば、希海を俺の手で養う事ができる。親権がどうのでまだ俺たちの家にいるであろう親類たちを追い出し、あそこを守っていく事もできるんだ。
「ああ。俺はその願いを叶えてもらいたい」
俺は真面目な顔をして言った。
『分かりました。ですが、一つだけいいですか?』
なんだ?
『私の願いには代償が必要となります』
「願いを叶えてもらう代わりに何かを差し出せと? 寿命とかか?」
まるで悪魔の契約だな。
『いえいえ! さっきも言った通り、エルザの世界では人の生き死にをどうこうすることは禁じられているです。だから、代償で寿命をもらうなんて死神みたいな事はできませですよ』
さっきお前、自分を死神みたいな存在って言ってたよな?
「それじゃ、一体何を差し出せってんだ?」
『愛です』
「は?」
『エルザの世界では、お金の代償は愛となってるです』
それは随分とこの世界と認識が違うな。この世界じゃ、愛はお金で買えないだとか言われてるから代償にしてはでかすぎるぞ。
「じゃあ何か? 俺は友達を作ったり、妹を大事にしたり、女性と結婚したりできなくなるって事か?」
『いえ。ですから、エルザは知樹さんがお金持ちになるためのプロセスを与える事にしたのです』
「どう違うんだ?」
『実は今ここで大金を出すこともできるです。でもそうすると、知樹さんは人を愛せない愛されない人になってしまいますです。それはエルザとしても嫌ですから、プロセスだけを与え、実際お金持ちになるために頑張るのは知樹さんという状況を作るです。そのすれば、代償は小さくなり、友達を作る事や妹さんを大事にすることはできるようになるです。ただ……』
今までこれ見よがしに喋り続けていたエルザは、声を小さくして下を向いた。
『結婚や、誰かとお付き合いするというのはできなくなるです。もし、それができるようになった時は、知樹さんから富が奪われた時という事になりますから……』
それはまた、随分と大きな代償だな。結婚もできない、人と付き合う事もできない。これから始まる俺の青春は、どうやらバラ色ではなさそうだ。
だけどな。
「それでもいいぜ?」
『え?』
「それでもいいって言ったんだ。俺には今をどう生きるか、これからどう生きるかが重要なんだ。確かにこの契約をしなければ俺はどこかの親戚に引き取られるか施設に入れられ、普通に育っていくことだろうよ。だけどな、そんなの俺の意思じゃねぇ」
そうだ。父さんと母さんが死んで、頼れるのは俺のみだ。親戚なんて宛てになるものか。
「俺の意思は、あの家で妹と今まで通り過ごしていく事だ。その為の力が手に入るんだったら、俺一人の愛なんか代償にする」
まぁ友達を作れるし、妹と普通に家族愛を深められるようだし、なら問題なしだ。
『本当にいいのですか?』
「ああ」
『分かりました』
エルザはそう言うと、俺の目を見てそのまま瞳を閉じた。そのままゆっくりと俺に顔を近づかせてきて、そして俺の唇に唇を重ねた。
「なっ!」
俺は訳も分からず後ずさる。
「お、おおお前! 何すんだよ!」
沸騰しかけていた頭が徐々に冷えていく。目を瞑ったエルザは俺の肩に手を置き、そして……。
『何って、契約です』
「契約だ?」
唇で交わす契約なんて、俺は結婚以外しらねーぞ!
『はいです。今この時点を持って、エルザと草壁知樹は契約を結びました。ですから、知樹さんはこれからお金持ちになるのと同時に、人を愛する事を禁じられました。この契約が何等かの形で破られた場合、契約により与えられたすべてのものを没収することになることを理解するようお願いします』
突然キスされたと思えば、さっきまでとは流調な喋り方で契約のなんたるかを語られた。俺はというと、訳も分からずそれをただ聞くだけだった。
『ふぅ。ちゃんと噛まずに言えましたぁ』
という事は、あれは契約するときに言わなければならない事なのだろう。あの携帯とかを契約する時の利用規約みたいなのと同じだ。
「それで? 何も変わっていないんだが?」
変わったと言えば、俺のファーストキスが得体の知らない謎の生物に奪われたって事くらいだが。
『私も初めてだったですぅ』
は? 何が?
『あ、けけけ契約がですぅ! これからどうなるかは正直エルザにも分からないんですけど、とにかく何か変化があると思うです』
いい加減な奴だ。そう思った時である。
俺の携帯がけたたましく鳴りだし、それを取り出した俺はディスプレイを見た。
そこには、知らない番号が表示されていた。
「――べくん」
誰かが俺を呼んでいるような気がする。天使か、それとも悪魔か。いや、別に天使も悪魔も一緒にみたいなもんだったな。
「――かべくん」
何か夢を見ていたような気がする。もうどんな夢を見ていたか思い出せなくなっているけど、まぁいっか。
「草壁くん!」
ゆっくりと目を開ける。ぼやけた視界の中、俺の事をゆすりながら名前を呼んでいる影があった。
「草壁くん、起きて。もうホームルーム終わったよ」
俺はその一言で目が覚め、机を叩いて跳ね起きた。周りを見渡す。教室にはちょろっとしか生徒はおらず、いるはずの教師も既に去った後だった。窓の外を見ると、まだ太陽は昇っており、それでも校門からは生徒の大群が下校していた。左腕に着けた腕時計はまだ一時前を差している。
そういえば、もう短縮授業だったな。テストも先週終わり、あとは来週に待つ夏休みを迎えるだけだ。そのせいかクラスは妙に活気づいていて、昼に残っている生徒など部活か委員会関係の人間だけだろう。
俺はそれを悟ると、すぐに机の横に掛けてあった鞄を持ち、そそくさと教室を去ろうとした。
だが、それを阻止しようとするものがいたのだ。
「起こしてあげたのに、お礼もないの?」
背中に声をかけられる。俺の後ろには席が一つしかない。声質からして女。という事は一人しかいない。
「ありがとう、柳瀬」
俺は後ろにいるだろう美少女転校生に感謝の気持ちを述べ、また教室を出ようと歩みを進めた。
「ちょっと待ってよ」
二度目の帰宅も柳瀬によって遮られる。俺は渋々振り返り、
「まだ何か用か?」
やはりそこにいたのは柳瀬涼香だった。相変わらず可愛いのは認めよう。巷じゃ可愛いと有名な我が校の制服がマッチしてさらに可愛さを演出しているとも思う。
だけど、その噂の美少女転校生が俺に何の様だ?
「草壁くん、一緒に帰りましょう?」
「何で?」
「何となくじゃ駄目?」
いや、駄目っていう事はないけどさ。周りを見てみなさい? まだ残っている生徒の視線が痛い。女子は俺と柳瀬を交互に見て何か噂話をしているし、男子なんて俺を睨み舌打ちをしてやがる。
「分かるか? そういう事だ」
「え? 何も分からないけど……」
「周りを見渡してみな」
俺は鞄を肩にかけ言った。柳瀬は周りを見渡すが疑問符が浮かび上がるだけのようで、この子は天然なんだなという印象を受けた。
「はぁ。分かった。もう帰ろうぜ」
俺の降参です。だから、早くこの場から俺を解放する術として了承だ。
「うん」
朝見た微笑みとは違う、嬉しそうな笑顔。普通の男子なら卒倒するか告白するレベルの兵器だ。
俺たちは向けられる視線に耐えながら学校を出た。俺としても女子と下校するのは初めてであるが、まさかこんなに恥ずかしいものだというのは知らなかった。妬む男達の視線に耐えるのは、一体今日で何回目だろうか。
「あのね」
近すぎない距離感を保ちつつ、校門前の並木道を歩いていると、柳瀬が小さく呟いた。
「ふぁ?」
俺も丁度あくびと返事が重なってしまい、かなり変な言葉が口から漏れた。それが面白かったのか、柳瀬はクスリと笑うと、
「草壁くんだけなの」
一体何がでしょう?
「私ね。田舎から転校してきて都会ってよくわかんないの。だから、こんな大きな学校も見た事なかったし、あんなにも生徒が多いところにいた事がなかったの」
へぇ。
「それでね、草壁くんはずっと寝てたから知らないだろうけど、休み時間のたびにみんなに囲まれて質問攻めをされてたの」
まぁそりゃ、転校生と言えばそのイベントは付きもんだからな。
「私ああいうの苦手なの。みんなが私に興味を持って、注目されるのが」
じゃあ転校してこなきゃよかっただろ? って言ったところで、家庭の事情とか色々あるんだろうよ。
「でね、そんな中、草壁くんだけが私に興味を持ってくれなかった――ていうと語弊があるけど……なんて言うか、前にいた田舎の雰囲気に似てたっていうか……」
そりゃ俺は人を愛せないからな。興味を持つこともないさ。
「じゃあ何か? 俺は田舎臭いって事か?」
「ふふ。そうかもね」
そこは否定しろよな。これでも結構なシティー派なんだぜ俺は。
「それで? 俺に声をかけたのは、そんな事をいう為じゃないだろう?」
「うん。あのね、これから時間ある?」
「ねーよ。そんなもん」
紀之なら旅行をキャンセルするような提案だが、あいにく俺には時間がない。
「じゃあ明日は?」
「明日は……まぁ学校があるだけだな」
「なら決定ね!」
何が?
「私まだこっちに来たばかりだから、色々と案内してほしいの」
「嫌って言ったら?」
「もう決定したの。だからよろしくね」
またあの悩殺スマイルで柳瀬は言うと、じゃあまた明日と小走りで俺から離れた。
「おいっ!」
色々と考えていたせいか、気付くと駅前まで歩いて来ていた。
俺の呼び止めが聞こえたのか聞こえなかったのかは知らないが、柳瀬は一度も振り返る事なく、俺はその黒い髪が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。
「一体何だっていうんだ」
第一印象では結構おとなしめの女の子かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。俺は呆れ顔を作ったまま、ポケットから携帯を取り出した。
慣れた手つきで履歴から名前を選択し、コールする。
『はい』
二回のコールですぐに相手は出た。
「俺だ。今からそっちに向かう。車は回せるか?」
『はい。既に待機させています』
「そうか。今駅前にいるんだが、ここじゃ一目につきすぎる。西口を右折すると駄菓子屋があるからそこで待ち合わせと伝えておけ」
『分かりました』
俺は電話を切り、自分のスイッチをオフからオンへと切り替えた。
西口を出て右に少し進むと閑静な住宅街が広がっている。学校側である東口に比べ店も少なく、どちらかというとこちら側がメインの居住区となる。その中に目的地の駄菓子屋はあった。その横には場違いな黒塗りの高級車が一台。俺がその車に近づくと、運転席から初老の男性が下りて後部座席のドアを開けた。
「待たせたな吉井」
「いえ」
吉井は俺の専属運転手だ。手には白い手袋をはめ、正装に身を包む。鼻の下に生えた白い髭は、何とも言えない貫禄を出していた。
俺は後部座席に座ると、車の中にあった様々な資料に目を通す。
「会長」
運転席に戻った吉井は、慣れた手つきで車を発進させる。
「何だ?」
「本日の帰りはいかがいたしましょう」
「今日は会食もなしだ。夕方には仕事を終わらせて帰るつもりだから、その頃になったらまた連絡する」
「分かりました」
俺はまた資料に視線を落とすと、吉井は緩やかなスピードで車を進めた。
三十分位の道のりを終えると、そこには高層ビルが立ち並ぶ大都会が待っている。世界的に有名な大企業から中小企業までがこの地域に本社を置き、日本経済を支えている。俺が住んでいる町から少し離れると、これだけ景色が変わるのかと驚いたのはいくつの時だったか。
「着きました」
吉井が車を止めたのは、その高層ビル街の一角にそびえ立つ真新しいビルのロータリーだった。
『KTNコーポレーション』
それが、このビルを本社とする会社であり、俺が会長を務める新興の企業だ。
元は父さんが作った小さな会社であり、名前の由来は草壁知樹と希海の頭文字をとったらしい。その会社を俺は引き継ぎ、こうして高校一年ながら企業の会長として君臨している。
「会長。足元にお気を付けください」
俺は吉井によって開けられたドアからゆっくりと出る。
「お待ちしておりました。会長」
車の外で、一人の女性が頭を下げていた。
「ああ。変わりはないか美里さん」
「はい。今のところ何も変わりはありません」
相楽美里。わが社の社長であり、俺の秘書のような存在だ。
赤みがかった短い髪のグラマーな年上美人。スーツを着ているせいか身体の線がはっきりとしていて、何とも言えない魅力が醸し出されていた。
二年前のあの契約の後、鳴り響いた携帯の相手は美里さんだった。どうやら父さんの秘書をしていたらしく、通夜にも来ていてくれたそうだ。あの頃の俺は父さんの仕事にまったくの興味がなかったので、秘書なんているような会社の社長だったことに心底驚いた。
「美里さん、新しい契約は順調か?」
「はい。問題ありません。この分だと、会長が夏休みに入るまでには決まるかと」
「そうか。今のところ一番大きな契約だ。失敗のないよう頼む。先方には後で俺から電話しておこう」
「かしこまりました」
エントランスを抜け、エレベーターで最上階を目指す。つい三か月前に完成したこのビルだが、まさか俺もこんな城を持つとは思いもよらなかった。
『会社はあなたがお継ぎになられるのですか?』
美里さんは電話でこう言った。横にいたエルザも、自分の叶えた願いがこういう形になるとは思いもしなかったようで目を見開いていたのをよく覚えている。
俺はすぐに会社経営者としての道を歩み始めた。不動産関連だったこの会社は結構な土地を持っていて、その土地を大きな会社に売って資金を稼ぎ、それを基盤に電子機器などの販売に着手した。ここで大変だったのがメーカーとの交渉だった。中学生が経営する会社など、メーカーが相手にしてくれる訳がないのだ。
だが、結果成功した。ここはエルザの願いとやらの力が働いたのであろう。土地を餌に交渉するなど試行錯誤した結果、KTNは急成長を遂げたのだ。
「それで、例の件は?」
「それですが、今のところ有力なスポンサーが見つかっておりません」
「これさえできればわが社は大きく躍進する事が出来るはずだ。引き続き頼む」
「はい」
随分と借金をして、電子機器を売るチェーン店を開業した。流行りのサブカルチャーにも目をつけ、着実に大きな会社へと育てていった。
今ではたった二年で十数個の全国チェーンを持つ企業へと成長した。借金も返したし、メディアでも大きく取り上げられようになった。
だが、俺が表に出ることはない。いくら願いの力が働いていたとしても、高校生が仕切る会社など印象が良い訳がない。このまま順調に会社を大きくしていくためには、まだ俺は表に出る訳にはいかないのだ。
だからこそ、表の顔役として美里さんがいる。新興企業の女社長として世間で噂され、巷じゃ有名人だ。
「どうぞ」
エレベーターが十五階にたどり着く。扉が開くとその先には長い廊下があり左側は全面ガラス張り。右側には第一会議室がある。そしてその奥に会長室はあった。赤い絨毯の上を制服で歩く。平社員が見たら会社見学と間違われるような風景だろう。
会長室に着くと、美里さんが扉を開ける。中は二十畳以上ある大きな部屋だ。床は絨毯で覆われ正面には大きな一枚硝子。テーブルやソファーなども高級品で揃えられ、俺の座る机も学習机なんかよりも遥かに大きなものだった。
俺は部屋の真ん中に置かれたソファーに腰かけ、鞄を置いた。
「いいよ。座ってくれ」
「失礼します」
美里さんは俺の対角線でゆっくりとソファーに腰かけた。俺がいいと言うまでは座らない。さすがと言うべきだろう。
「では近況報告の続きを」
「はい」
美里さんは資料をテーブルに広げ、俺に様々な説明をした。結果的には何もかも順調に進んでいるとのことだ。
今進めている大きな企画や地盤固めの最終段階。俺が指示したことを美里さんは遂行してくれていた。
二年前の発足から二人で頑張ってきた。俺も経営を猛勉強し、美里さんも同じように学んでくれた。俺の右腕としても、パートナーとしても、彼女は欠かせない重要な人間だ。
「以上で報告を終わります。何かありますか?」
美里さんが手帳をたたむ。俺はそれを見て、
「いや、何もない。美里さんは良くやってくれているよ」
「はい? 突然何を」
「いや、気にするな。それはそうと、早く仕事を切り上げられるか?」
「え、ええ。本日の仕事は整理くらいの予定なのですぐにでも終わらせられます」
「なら早く切り上げてこい。俺も先方と電話した後、すぐにここを出る。それまでには終わらせられるか?」
「可能です」
「じゃあ行ってくれ」
美里さんはテーブルに蒔かれていた資料を纏めると、それを持って立ち上がり、
「失礼しました」
と言って部屋を後にした。
「さてと」
俺も立ち上がり、机の上にある電話に手を伸ばした。
「何のご用でしょう?」
仕事をちゃっちゃと終わらせた俺は、美里さんを呼び出し共に吉井の運転で帰路についていた。
「何? もしかして怒ってる?」
俺は仕事が終わると完全にオフモードに切り替わっていた。そんな俺とは反対に、美里さんは仕事が終わってもこの調子。たまには息抜きをさせようと、俺は外に連れ出す事にしたのだった。
「怒ってなどいません。なんのご用があるのかを聞いているだけです」
「ご用も何も、美里さんを家に招待するだけだよ」
「家に?」
「そう、家に」
外とは我が自宅の事である。今頃愛する妹が夕飯の支度をしていて、その匂いでエルザがよだれを垂らしているであろう、あのマイスイートホーム。
「何故、そんな事を」
「美里さん、働きすぎなんだって。顔が疲れてるよ?」
「そんな事は……」
美里さんは右手で自分の顔をぺたぺたと触った。安心してください。いつも通り美人ですから。
「美里さんもまだ二十五歳なんですから、好きな事をしてもいいだぜ?」
大人な雰囲気があっても、まだまだ二十代の真ん中。社会に出ている同世代の女性は、働きながらも趣味を両立してると思うぜ?
「いえ。私は好きで会長についてますので」
ドキドキなセリフだ。だけど俺はドキドキもしない。これが願いの代償ってやつだ。
「そっか。なら、今日くらい俺ん家で羽根を伸ばしてくれ。美里さん、酒はいける口?」
「ええ。多少なら」
「なら決定だ。吉井、ちょっとそこで酒を買ってきてくれないか? あ、領収書は頼むな?」
「了解しました」
吉井はハンドルを切り、ゆっくりと近くのコンビニの駐車場に車を止めた。
「すまないな。俺未成年だから買えないんだわ」
「承知しております」
吉井はコンビニに入ったと思うと、すぐにビニール袋を持って帰ってきた。助手席にそれを置くと、すぐに車を発進させ我が家へと向かった。
「お帰りなさい――ってああ! 美里さんだ!」
『お帰りなさいです! 知樹さんが美里さんを連れてくるなんて珍しいですね』
案の定我が家に着くと、愛する妹と謎の生命体が出迎えてくれた。
エルザは事情を知っているからいいとして、希海は美里さんの事を父さんの知り合いとしか認知していない。実は希海には会社の事も内緒だ。いくら俺が金を稼ごうが、希海には今までと変わらない生活を送ってほしいからな。
「お久しぶりです。希海さん」
「うん! 何々? 今日はデート? お兄ちゃんも済に置けないね」
「い、いや、これはだな……」
「いえ、違います。会――知樹さんが家に招待してくれただけです」
即答されると少しへこむぞ……。
『知樹さん。振られちゃいましたねぇ』
うるせぇ! てかお前、今までどこ行ってたんだよ。
『自分の家に戻ってたです。色々と作業があるみたいで呼び出されちゃいました。てへ』
可愛くねんだよ。
『ひどいですぅ』
俺はそんなエルザを横目に、愛する妹に視線を向けた。
「今日は酒もあるから盛大に盛り上がるぞ? 希海! 今からパーティーの準備だ!」
「イェッサー!」
お前もばれないように手伝え!
『はいです! ってどうやって?』
「美里さん。今日は羽目を外してくださいね?」
「……はい」
美里さんは微笑んで頷いた。