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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

追悼

作者: Ian Field

 



 わたしは電車を降りた。向かいのホームに来る電車を待っていたが、時刻表を見ると反対側に 行く電車は一時間しなければ来ないらしかった。何もすること無しに待つのに飽きて、わたし は改札を探し、駅を出ることにした。 降り立った駅は小さな無人駅だった。改札に切符を捨て、階段を下りて出た駅の入り口には 壊れた自動販売機があるだけだった。

 わたしは息を吸い込んで歩き出した。空は晴れ渡って青かった。周りは田んぼと山しかなかった。喉が渇いたのでコンビニかスーパーがないかと思いながら、とりあえず歩いた。歩いて、歩いているうちに、看板のある建物を見つけた。売店か何かかと思ったら、そこは登山道の入り口で登山客への注意書きと公衆便所があるだけだった。登山道の地図を見ると、そこから頂上 をめざして越えた反対側の登山道を出ると、温泉や旅館がある観光街に行けるようだった。標高も1500メートルそこそこのなだらかな山で一時間半ぐらいで行けるとあった。

  わたしはため息を落とした。 携帯電話を取り出して電話しようとした。が、圏外で通話不能だった。わたしは携帯をハンドバッグにしまった。デンワはいつだってできる。たまには山登りもいいかもしれない、とその時はそう思った。何も考えず登山道に足を踏み入れた。

 その時着ていたのは、膝丈まである七分袖の黒いワンピースで、その上にラメ入りの白い薄 手のカーディガンだった。足には七センチくらいヒールのある緑色のミュールに夏用の薄手の オーバーニールを履いていた。そういう格好でいたので、登山道を進むにつれると、草木の先端が体のあちこちに突き刺さるようになって、かゆくなったり赤くなった。 鬱蒼とした樹冠に覆われた山の中は、夏とは思えないくらい涼しかった。

 しかし日が翳ると、涼しさは寒さに変わった。木漏れ日が消えて、薄やみに包まれると雨が 降り始めた。傘も雨具ももっていなかったのであわててカーディガンを頭にかぶった。風が激しく吹きすさんで雨もどしゃ降りに降り注いだ。ミュールのかかとは水分でぐしょぐしょにな った地面にめりこみ、靴下にも泥や水がしみ込んだ。ワンピースもびしょ濡れになり張り付い て重たかった。

  周りを見ると山道を少し外れた場所に大きな岩があった。その岩の下部分はめり込んでいてひと一人ぶんが入れそうな隙間があった。わたしはそこをめざして走り、体を潜り込ませた。しばらくは膝をおる体勢でいたが疲れてくるとそのまま地面に座り込んだ。膝を抱えながらわたしは雨が降り止むのを待った。


 うずくまりながらわたしは目を閉じた。しずくが垂れ落ちると冷たく肌にしみわたった。わたしはそのまま眠りに落ちていた。何か夢を見た気がしたが、目を覚ました時には思い出さなくなるぐらいの夢だった。雨音も風のうねりも消えて、鳥の声が最初に聞こえた。岩壁から顔をそむけて目に入ったのは黒い毛の塊だった。そこには狼がいた。大きくて黒い狼だった。目でわたしを見ていた。わたしは悲鳴をあげようと口 を開けたが、あまりに驚いて声が出なかった。狼の口のすきまには鋭い歯がのぞいていた。その狼とわたしは見つめ合ったままだった。どちらも動こうとはしなかった。どれくらい続いたのかは知らないが、わたしのほうは驚きから緊張感に変わると急に猛烈な空腹に襲われた。そういえば、その日は朝から何も食べていなかった。飲まず食わずで山登りなどまでしてしまったから、空腹を感じた瞬間から猛烈に何か食べたくなった。身の危険が迫っている時に限って、なぜかお腹がすいて仕方なかった。 狼の方は微動だにせず、かといってわたしを襲う気配もなかった。

 わたしは恐る恐る腕を動かし、ハンドバッグに手をつっこんだ。狼は反応は見せなかった。 ハンドバッグの中にはのど飴があった。わたしは包装をはがして口に入れた。そ の間も狼は動かなかった。だが飴のほうに視線がかすかに動いたような気がした。わたしは取り出した飴 を狼の方に差し出した。そこでようやく狼も身動きを示した。震えるわたしの手に、狼の顔が近づいてきた。そのまま腕ごと食われるのではないかと思ったが、狼はわたしの手の平を嗅いだだけだった。狼はしばらくわたしを眺めていたが、急に飛び跳ねるようにわたしの方へ近づいた。今度こ そ食われる恐怖感に、思わずわたしは目を瞑った。だが痛みも何も感じず、はっと目を開ける と狼がハンドバッグを口にくわえていた。何をするのかと思ったが、狼はくわえたまま向きを 変えて、山の奥へと向い始めた。わたしは呆然となったが、ハンドバッグには財布と携帯が入っているので、できれば取り戻したかった。狼に殺されるのも怖かったが、そのまま見送る気にもなれなかった。

 わたしはふらりと立ち上がり、狼の後を追った。

 狼は山の奥へ奥へと歩いて行く。わたしは距離を置きつつ、その黒い後ろ姿を追って行く。 どのくらい経たのかわからない時間、ただそうした。狼が止まった時、わたしも足を止めた。狼はいったん後ろを振り返ったが、すぐに向き直 って、そのまま進んだ。それを何度か繰り返した頃、菜の花が一面に広がる場所に来た。そこを通り過ぎて、茂みに覆われた険しい岩場の一角に洞穴の黒い影が見えた。狼はそこに潜り込んで行った。そこまでくるとわたしはさすがに躊躇したくなった。だが、ハンドバッグは取り戻したかった。

 洞穴を覗き込んでみた。トンネルのように長い道筋が続いていた。何も見えなかった。 わたしはため息を落とした。おそらく狼の住処だろうと思った。その先に足を踏み入れたら、ほかに仲間もいて襲われるかもしれない。あの狼がたまたま温厚で人間に友好的だったか ら助かっただけだ。常識的に考えれば、狼は猛獣だ。ニュースでも人食いの狼に襲われた人がいたことを思い出した。 躊躇ううちに日が暮れ始めた。人家も電灯も一切無い山の中は、陽が沈むと一気に真っ暗闇 になった。わたしは焦った。山を下りようにも道がわからない。そばには狼がいる。 わたしは途方に暮れて、その場にへたりこんだ。焦りと恐怖が頭の中にいっぱい広がってい たが、それよりも思い疲労感と脚の痛さでもう立ち上がる気力がなかった。周りも真っ暗闇で何も見えなかったので、洞穴の入り口に寄り、岩の上にうずくまるように 横たわった。苔の生した岩の上はぬるぬるとして冷たかったが、カーディガンを枕代わりにし て目を閉じるとどうでもよくなり、そのまま眠りに落ちた。

   目を覚ましたのは鳥の声が耳に入った時だった。 目を開けると薄明るい光が目に入った。寒かったので身震いし鼻水が出てくしゃみも何度も出た。手元や足下を見て、そこは昨晩横たえた洞穴の入り口の岩の上ではないことに気がつい た。入り口の光は遠くに離れて見えた。いびきのような音が聴こえて背後を振り返ると狼がうずくまっていた。 その気配に気がついたのか、狼は目を開けた。だが起き出すわけでも動く様子もなかった。


  その日から狼とわたしの奇妙な生活が始まった。朝になると狼はのそりと起き出し、どこか らか木の実や魚を捕ってきて、わたしの前に置いて行った。わたしはそれを食べた。理解できなかったが、お腹はすいていた。わたしは魚を食べると洞穴を出て、散歩に出かけた。暗くなると洞窟に戻った。散歩は始めは一人だった。だが、時には狼と出かけるようになった。そんな生活が何ヶ月も続いた頃、わたしのお腹もまんまるに膨れた。このまま行けば、臨月を迎えて子どもが生まれるのだろう。狼と過ごすうち、山を下りることを忘れていた。あるいは、山を降りて人里に戻ること自体が、山に登った時点ですでに人生の選択肢から消去されて いたのかもしれない。

 ある晩、わたしは下腹部に激痛を覚えた。あまりの痛さにのたうちまわった。狼のほうも わけがわからないわたしの挙動に、ぽかんとなっていた。わたしは洞穴を飛び出た。視界に月が映った。月明かりに照らされた小川をめざして、走った。激痛に汗が吹き、喉が渇いてい た。小川に辿り着く寸前、わたしはつまずいた。転んだ時、体の力が抜け、股の間からぬるいものが流れ出るのを感じた。それを見ると赤い塊だった。傍にはいつの間にか狼がいた。狼はわたしが垂れ流した赤い塊に顔を寄せ、そのままそれを口に入れた。わたしは啞然となった。 何が起こったのか、わたしはその時理解した。わたしは泣きながら、洞穴に戻った。戻って泣いた。泣いているうちに眠りについた。


 狼は戻って来なかった。代わりに洞穴にいたのは若い男だった。わたしを見つめていた。長い髪の色が風に揺れて瞳が月明かりに輝いていた。あの狼の同じ色の毛と目をした男が、わたしのそばにいた。わたしは彼に誰なのか訊いた。彼は何も言わなかった。子どもは生まれないまま死んだ。その代わりに若い男が現れた。久しぶりに自分以外の人間に会った。しかし彼は話す言葉を持たなかった。

 そしてわたしたちは山の中で暮らした。ずっと、ただ同じことを繰り返す毎日を過ごした。 食べて眠り眠っては食べる。その繰り返しだった。それがここにいることのすべてだった。わたしは老いていったが、彼はずっと若いままだった。わたしが死を迎える寸前、彼は初めて言葉を口にした。わたしは眠くなり目を閉じた。最初で最後に聞いた彼の声はとても美しかった。


 洞穴の中で彼は待ち続けた。そばにいたものが動かなくなる日を。 朝日が差し込んだ時、彼はそれが黒い毛皮に覆われているのを目の当たりにした。かつて彼 が纏っていた姿だった。彼が自分を守る為に纏っていた毛皮だった。彼女はゆっくりと起き出すと、洞穴を出て、茂みの中へと歩いて行った。その後ろ姿が見え なくなるまで、彼はその毛皮に覆われたものを見送った。後を追うことも無く、彼は立ち尽く した。そして泣いた。声も無く、涙が頬を伝い、地面に落ちた。


 その涙が落ちた地面から芽が生えた。それはやがて黄色い花を一面に咲かせた。彼はいなくなった彼女を呼んだ。 その声はあたりに響き渡った。幾つも野山を越えて、ある街まで届いた。それを耳にしたの は遠方の町立病院で生まれたひとりの嬰児だった。嬰児はその声に応えるように泣き叫んだ。 泣き叫ぶ子どもをその母親がなだめようと子守り歌を歌う。彼が呼ぶ声を、その子どもは思い出す。彼が彼女を呼び続ける声を。生まれなかった子の為に赤子は泣き続けていた。

                                                                                                 おしまい

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