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懐かしき面影は ミルトスの花の如し
慕わしきその声に カナリヤの歌も霞む
ああ かの人は何処 何処の旅の空
ただ 切なさは募り 心を揺らすだけ
詩人の弾き語りで立ち止まる者が出始める。琴の音は優しく、歌声は暖かい。その音色に魅かれ男を見れば、耳だけではなく目も奪われる。
最初のうちは周囲と同じくフィルも詩人に見惚れていたが、気が付くと目の前に人垣ができている。中には金持ちと思しき者もチラホラ見える。フィルはゆっくり立ち上がると、詩人を正面から見ようとしているように装って人垣の中に潜り込んだ。詩人は次の詩を始めた。
曙に光を放つ 恋の星
我が思い 届けておくれ かの人に
宵闇に空で煌めく 愛の星
星 二つ 同じものだと 誰ぞ知る
人垣は順次入れ替わり、居残り組は前面に押しやられる。居残り組には金持ちが多い。貧乏人は幾ら興味があっても、そうはのんびり詩人を眺めている暇はない。少しの間、歌声を聞き、詩人を眺めて満足するしかない。
前列のほうにいる男にフィルは目を付けていた。広場に来た時から見ていたが、供に連れていたメイドらしき女を後ろに残して、自分だけ詩人の歌声を楽しんでいる。残されたメイドはまだ若い。痩せた身体で持たされた荷物の重みに堪え、ひたすら主を待っている。メイドの腹は膨らんでいる。たぶん、子の父親は前列にいる主だろう。ありふれた、胸糞の悪い話だ。
(狙うなら、詩人が商売をやめた時)
詩人が今日の商売を畳めば、皆一斉に動き出す。その混乱に乗じて、男の懐の物を掠め取る。その前に男が帰る気になったなら、人込みを掻き分けて後ろに下がる時にできる隙、それを狙って男に近づこう。そうフィルは決めていた。
と、
「退け、こら、退かぬか! 通せ!」
後方から、怒鳴り声がする。見るからに貴族、こんな庶民が集まる場所に、およそ似つかわしくない。
男の怒鳴り声で、詩人が奏でる音色も止まる。どうやら興ざめした様子で、詩人は竪琴を仕舞い始めた。
「待て、待て!」
男が前列にどうにか辿り着いたころには、人垣も崩れていた。そのお陰で詩人が思っていたよりも早く、怒鳴り声の主は詩人の近くに着いたようだ。
「詩人、おまえに用があってきているのだ。わたしの顔を見て、逃げることもなかろうが」
男が詩人に話しかけるが、詩人は一瞥しただけで帰り支度を進めている。その目が男の足元をチラリと見、チッと舌打ちした。
「わたしはおまえの足元に用がある。そこを退いて貰おうか」
男を見もせずに詩人が言う。
男は自分の足元を眺め、そこに幾ばくかの小銭が散らばっているのを見る。詩人に向けられた投げ銭だ。
「詩人よ、こんな小銭を拾うつもりか。我が申し出に従えば、この何百倍、何千倍も手にすることができるものを」
それを詩人が鼻で笑う。
「それが? おまえの金に用はない。そこに落ちている金を稼ぐのに、どれほどの汗が流されているか。どんな思いが込められているか……それを知らず、簡単に踏みつけるおまえに興味はない」
言われた男は口籠る。退けと詩人に押しやられ、詩人が小銭を拾うのを気まずげに見ている。
「俺が悪かった、おまえの言う通りだ」
男の口調から、威張り腐った匂いが消えた。
「だから、頼む。一度でいい。我が館に赴き、その竪琴の音色、おまえの歌声、聞かせてはくれないだろうか。報酬はいくらでも出す。なんだったら前金で払ったっていい」
男が己の懐を探り、ジャラジャラと金の音をさせた。
そのころには再びローブの暗青色の面を纏っていた詩人が竪琴を入れたサックを担ぎあげている。
「待て、詩人!」
立ち去ろうとする詩人に男が走り寄る。そこに、栗色の髪の若い男がぶつかった。
「危ないな、人の前を横切るな!」
「お……すまん」
と、言いつつ男が詩人を見る。すると詩人は振り返り男を見ていた。
「気持ちを変えてくれたか?」
すがるように男が言うと、詩人が男に少し哀れんだ目を向けた。
「今の男、掏摸だ。懐中の物は大丈夫か?」
「え?」
慌てて男が懐を確認する。ない、さっき確かにあった銭袋がない。周囲を見渡すが、もちろん若い男は姿を消したあとだ。諦めるしかないと男は詩人に向き直る。
すると詩人も立ち去って、そこには人混みがあるだけだった。




