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かぎろひ

作者: fmn
掲載日:2025/08/26

ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月(かたぶ)きぬ

(柿本人麻呂)

東の丘陵を抜ける国道を、柊真はひとりで歩いていた。

夜明け前の冷たい空気が頬を刺し、吐く息が白くほどける。

水たまりに街頭の残光が揺れ、濡れたアスファルトに靴音が淡く響いた。


ふと見上げれば、東の空がわずかに朱を帯び始めている。


夜の長さは、この時季がいちばんだ。

冬至を数日後に控えた今、太陽が昇る直前の時間帯は、息が詰まるほど静かで長い。

そのせいだろうか、光を待つ胸の高鳴りは、いつもより鮮やかだった。


会社を辞めて、もう半年になる。

最後まで柊真を引き留めたのは、プロジェクト責任者であり直属の上司だった田嶋部長だ。


「おまえなら、この先を任せても安心だ」

そう言ってくれたあの日の声が、まだ胸の奥に残っている。


その田嶋部長が、先週亡くなった。

突然の心筋梗塞だった。

訃報は元同僚からのメッセージで知ったが、通夜にも告別式にも行けなかった。

理由はいくつもある。でも一番は、顔を合わせる勇気がなかったのだ。

あの人のいない世界を、そして今の自分を、直視できなかった。


丘を登りきって、柊真は足を止めた。

野原の向こう、氷のような空気を裂くように、かすかな光の筋が立ちのぼっている。

冬の夜明け前にしか見えない、あの燃えるような現象。


田嶋部長と最期に飲んだ夜のことを思い出す。


「おまえはいつも外を見てるな」

「天井ばかり見てると息が詰まりますから」

そう返すと、部長はふっと笑って、グラスを置いた。


「俺が若い頃な、夜明け前にあの丘に登ったんだ。

 プロジェクトがうまくいかなくて、全部投げ出したくなったとき。

 その日は冬至の前でな、夜がひどく長く感じて。

 東の空に光が立って、西には月が沈んでいくのが見えた。

 その時に思ったんだ。長い夜も、終わらないわけじゃないってな」


そのときは、ただの昔話に聞こえた。

けれど今は、その一語一語が胸に重く沈む。


ふと振り返ると、西の街並みに沈もうとする月が、夜の名残を薄く照らしていた。

ひとつの時代が終わる。

けれど、月が沈んでも世界が消えるわけじゃない。

田嶋部長がいなくなっても、世界も、会社も、柊真の人生も、続いていく。


「……先に、行きますね」


声に出すと、冷たい空気が肺を満たした。

涙は出なかった。

ただ、凍えた手のひらを握りしめて、昇りかけた光のほうへ顔を向けた。






会社に向かう電車の中で、柊真はふとスマホのメッセージアプリを開いた。

一番上に残っている未読メッセージは、一年前の田嶋部長からだった。


「例の丘、プロジェクトが終わったら皆で行こうって話、おぼえてるか」


未読のまま、そっと画面を閉じる。

あの人と一緒に見ることは、もうできない。

けれど、あの人が見た光と、あの人が信じた「未来」は、いま、柊真の前にひらけている。


電車は静かな朝を抜けて、遠く光の射すほうへと滑り込んでいった。

人麻呂のこれは挽歌であるという説を推しています。


柊真のイメージは「秒速5センチメートル」の彼。

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