かぎろひ
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
(柿本人麻呂)
東の丘陵を抜ける国道を、柊真はひとりで歩いていた。
夜明け前の冷たい空気が頬を刺し、吐く息が白くほどける。
水たまりに街頭の残光が揺れ、濡れたアスファルトに靴音が淡く響いた。
ふと見上げれば、東の空がわずかに朱を帯び始めている。
夜の長さは、この時季がいちばんだ。
冬至を数日後に控えた今、太陽が昇る直前の時間帯は、息が詰まるほど静かで長い。
そのせいだろうか、光を待つ胸の高鳴りは、いつもより鮮やかだった。
会社を辞めて、もう半年になる。
最後まで柊真を引き留めたのは、プロジェクトリーダーであり直属の上司だった田嶋部長だ。
「おまえなら、この先を任せても安心だ」
そう言ってくれたあの日の声が、まだ胸の奥に残っている。
その田嶋部長が、先週亡くなった。
突然の心筋梗塞だった。
訃報は元同僚からのメッセージで知ったが、通夜にも告別式にも行けなかった。
理由はいくつもある。でも一番は、顔を合わせる勇気がなかったのだ。
あの人のいない世界を、そして今の自分を、直視できなかった。
丘を登りきって、柊真は足を止めた。
野原の向こう、氷のような空気を裂くように、かすかな光の筋が立ちのぼっている。
冬の夜明け前にしか見えない、あの燃えるような現象。
田嶋部長と最期に飲んだ夜のことを思い出す。
「おまえはいつも外を見てるな」
「天井ばかり見てると息が詰まりますから」
そう返すと、部長はふっと笑って、グラスを置いた。
「俺が若い頃な、夜明け前にあの丘に登ったんだ。
プロジェクトがうまくいかなくて、全部投げ出したくなったとき。
その日は冬至の前でな、夜がひどく長く感じて。
東の空に光が立って、西には月が沈んでいくのが見えた。
その時に思ったんだ。長い夜も、終わらないわけじゃないってな」
そのときは、ただの昔話に聞こえた。
けれど今は、その一語一語が胸に重く沈む。
ふと振り返ると、西の街並みに沈もうとする月が、夜の名残を薄く照らしていた。
ひとつの時代が終わる。
けれど、月が沈んでも世界が消えるわけじゃない。
田嶋部長がいなくなっても、世界も、会社も、柊真の人生も、続いていく。
「……先に、行きますね」
声に出すと、冷たい空気が肺を満たした。
涙は出なかった。
ただ、凍えた手のひらを握りしめて、昇りかけた光のほうへ顔を向けた。
会社に向かう電車の中で、柊真はふとスマホのメッセージアプリを開いた。
一番上に残っている未読メッセージは、一年前の田嶋部長からだった。
「例の丘、プロジェクトが終わったら皆で行こうって話、おぼえてるか」
未読のまま、そっと画面を閉じる。
あの人と一緒に見ることは、もうできない。
けれど、あの人が見た光と、あの人が信じた「未来」は、いま、柊真の前にひらけている。
電車は静かな朝を抜けて、遠く光の射すほうへと滑り込んでいった。
人麻呂のこれは挽歌であるという説を推しています