第9話 プロローグ:凡庸な肉体と、退屈な時間
瑠衣 美豚です。
プロローグはこの回で終わります。
次回から7話の続きのストーリーになります。
楽しく読んでいただけますと幸いです。
【セオ視点】
私がセオという名の15歳の少年としてこの世界で二度目の生を受けてから、今日でちょうど三年が経った。鏡に映る見慣れたしかし決して私のものにはならない18歳の青年の顔。その瞳の奥にはかつての退廃的な探偵の面影が、亡霊のように今も静かに揺らめいている。
……思えば、あの女との出会いは、最悪だった。
転生して四日目の朝。まだ自力で起き上がることもままならないこの欠陥品の肉体を引きずり、ようやく扉を開けた私を待っていたのは一人の見知らぬ少女だった。亜麻色の髪を三つ編みにしたまだ幼さの残る少女。神が見せたあの姿のままだった。
「……あなたがセオ?」
少女は少し緊張した面持ちで私を見上げてくる。
「いかにも。君がミッシュか。神の言っていた『目』というのは君のことだな」
私の言葉に少女――ミッシュはぱちくりと目を丸くした。
「え、あ、うん! そうだけど……。なんだかあなたが本当にセオなの? って感じ。病気でずっと寝込んでたって聞いてたのに全然雰囲気が……」
「中身が入れ替わったからな」
私は事実をありのままに告げる。
「細かい説明は神から聞いているはずだ。私の仕事は使徒を探し無力化すること。君の仕事はそのための索敵と私の護衛。違うか?」
「う、うん。その通りだけど……」
ミッシュは私のあまりにビジネスライクな態度に戸惑っているようだった。
「……よろしくねセオ。これから相棒になるんだから」
彼女はそう言って少しぎこちなく右手を差し出してきた。握手のつもりらしい。私はその手を見下ろしたまま動かなかった。
「……握手は非合理的な行為だ。情報の伝達効率が悪すぎる。互いの手の雑菌を交換するだけの不衛生な慣習でもある」
「……」
ミッシュの顔から笑顔がすうっと消えた。彼女は黙って手を引っ込めると少しだけ俯いた。その小さな肩が傷ついたように震えているのがわかった。その瞬間私の頭の片隅で誰かが囁く声がした。
(――またやったな。お前はいつもそうだ)
生前何度となく同じような場面があったことを思い出す。論理と事実だけを突きつけ相手の感情を無視し結果として人を遠ざける。まあいい。私が欲しいのは馴れ合いの友人ではない。必要なのは優秀な『目』だ。
「行くぞ」
私は彼女に背を向けた。
「感傷に浸っている暇はない。神が反応を示したエリアは特定できている。その中で最も条件の揃っている街へすぐに向かう」
これが私と彼女の最初の出会い。
お世辞にも順調なスタートとは到底言えなかっただろう。
◆
結局その日のうちに私たちが旅に出ることはなかった。私が一歩踏み出したその瞬間。この欠陥品の肉体はあっさりと限界を迎え私は意識を失ったのだ。
転生直後の記憶はあまり鮮明ではない。
覚えているのはただ自分の意志とは無関係に震える手足と息をするだけで軋むような胸の痛み。そして隣でひどく心配そうな顔で私の世話を焼くミッシュという少女の姿だけだ。
長年病床にあったというこの肉体は魂の入れ替えという荒療治に耐えきれず完全に機能を停止しかけていた。まさに欠陥品だ。
最初の半年は地獄だった。
歩くことすらままならない。スプーンを握るだけで腕の筋肉が悲鳴を上げる。
頭の中ではすでにこの世界の魔法体系の基礎理論を構築し終えているというのに、身体が全くついてこない。この思考と肉体の圧倒的な乖離。それは私が最も嫌う**「不自由」**そのものだった。
「ほら、セオ! 今日は昨日より10歩多く歩く練習だよ!」
「薬の時間だよ、セオ。苦いからって、残したらダメだからね!」
ミッシュはまるで母親かあるいは出来の悪い弟の面倒を見る姉のように、甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。
ミッシュはそんな私の姿を最初は不思議そうに見ていた。だがある日私がこの国の古代法典の矛盾点をこともなげに指摘してみせると、彼女は初めて私という人間に畏敬とそして少しの恐怖が混じったような視線を向けた。
二年が過ぎた。
身体はようやく17歳の少年らしいものになってきた。私たちは時折街に出て小さな調査を始めた。といっても使徒探しではない。迷子の猫探しや盗まれた野菜の犯人当てといった子供の遊びのようなくだらない事件ばかりだ。だがその「くだらない事件」の中で私はミッシュという『センサー』の驚異的な性能を理解し始めた。
「……あっちの路地からすごく悲しい匂いがする」
彼女がそう言って指さした先で迷子の猫はいつも見つかった。
「あの八百屋の親父さん嘘をついてる。心がチクチクしてるもん」
彼女のその言葉を元に私が少しカマをかけると親父は自分が野菜をこっそりくすねていたことをあっさりと白状した。
彼女の捉える曖昧で非論理的な『感覚』。私が構築する冷徹で絶対的な『論理』。この二つが組み合わさった時どんな些細な謎もその形を保つことはできなかった。
私はこの時初めて神が彼女を私の『目』として遣わしたその意味を、理解したつもりになっていた。彼女のその驚異的な索敵能力。それこそが彼女の全てだと。……この時の私はまだ知らなかったのだ。彼女という人間が私のちっぽけな論理などでは到底測りきれない、どれほど深くそして悲しい『謎』をその笑顔の下に隠していたのかを。
そして三年目の今日。私の肉体はついに完全な健康を取り戻した。鏡に映る私はもうかつての退廃的な探偵の面影はない。精悍な18歳の青年の顔をしていた。
「――準備はできたか」
書斎で地図を広げる私の背後から声がした。ミッシュだった。三年前の幼さは消えその顔には相棒としての覚悟が宿っている。
「うん。いつでも行ける」
私は書斎の壁に貼られた巨大な世界地図の一点を指さした。
その地図には、この三年間で調べ上げた数多の街の情報が、無数の付箋と赤い線でびっしりと埋め尽くされている。
指先で示した街の名を、ゆっくりと口にする。
「……リブルニア」
ミッシュは理由を尋ねなかった。
この三年という時間の中で、私がどれほど思考を重ね、この最初の一点を導き出したのか──それを彼女が知っているからだろう。
代わりに、一つだけ問いかけてきた。
「……見つかるかな。使徒」
「さあな」
静かに答える。
「だが、行かねば何も始まらん」
視線を地図から外し、窓の外を見やる。
ぽつりと呟いた。
「長かったな。退屈なリハビリだった」
「そう? わたしは結構楽しかったけどな。あなたが立てるようになるまでも、歩けるようになるまでも」
ミッシュは悪戯っぽく笑った。
私は返さなかった。ただ、この三年間が決して無駄ではなかったことだけは、否定できなかった。
「行くぞ、ミッシュ」
椅子を押しのけて立ち上がる。
「神の依頼を果たしに行く。──退屈な日常は、もう終わりだ」
(第9話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は明日に投稿する予定になります。
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