第8話 プロローグ:天才は退屈を嫌う
瑠衣 美豚です。
ここで、プロローグになります。
お待たせいたしました。
男は退屈していた。
書斎の窓から見える夜景は宝石を撒き散らしたように美しい。机の上には警察庁長官から直々に贈られた最高級のブランデーの瓶が鎮座している。世間は男のあまりの推理力に畏敬と少しの揶揄を込めてこう呼んだ。
――**“かの有名な諮問探偵の現代版”**と。
その頭脳はいかなる複雑な密室もいかなる巧妙な偽装工作も、まるで子供のパズルを解くかのようにいとも容易く解体してしまう。
だが、それ故に男――視野六 法夢は絶望的なまでに退屈していた。今日もまた一件の難事件を解決した。メディアが「世紀の迷宮入りか」と騒ぎ立てた財閥令嬢の誘拐殺人事件。犯人が残したあまりに不可解な暗号。視野六はその暗号を一目見ただけで犯人の歪んだ承認欲求と幼少期のトラウマに起因する、単純な文字列の置換トリックであることを見抜いてしまった。
「……つまらん」
ポツリと言葉が漏れる。この世界は謎に満ちているようでその実あまりに単純だ。人間の行動原理は金、色恋、怨恨、そのどれかの組み合わせに過ぎない。その単純さが視野六にとっては耐え難い苦痛だった。彼は机の引き出しから小さな注射器とアンプルを取り出す。合法非合法あらゆる薬物に手を出した。刹那的な興奮だけがこの灰色の日常に束の間の彩りを与えてくれる。だがそれももう限界だった。
(ああ、どこかにいないものか。俺のこの歪んだ知性ですら解き明かすことのできない本物の『謎』というものは)
それが彼の最期の思考だった。自らの腕に致死量の薬物を打ち込みながら彼は心の底から願った。退屈ではない世界を。
◆
意識が浮上する。死んだはずの俺の意識が。
目の前にはただどこまでも続く白があった。上も下も右も左もない。音も匂いも温度すらない。完全な無。死とはこういうものか。存外退屈な場所だ。
『――退屈か。君がそう感じるのも無理はない』
声がした。男の声か女の声か。老人の声か子供の声か。それすらも判別できないただ「声」という概念だけが俺の意識に直接響き渡る。
声のした方へ視線を向ける。そこには何かがいた。人型のようでもあり光の球のようでもありあるいはただの空間の歪みのようでもあった。それは人間の認識能力では正確な形を結ぶことのできない高次元の存在。
『初めましてと言うべきか。異世界の探偵、視野六 法夢』
「……神か」
俺がそう呟くとその「何か」は肯定するように穏やかに揺らめいた。
『私はこの宇宙に遍在する管理者の一人に過ぎない。そして君に一つの依頼があってこうして接触した』
「依頼? 死者に、か」
『死者だからこそだ。君はもういかなる世界の因果にも縛られていない。自由な観測者でありそして介入者となりうる』
神は語り始めた。この宇宙には無数の世界――並行世界、異世界と呼ばれるものが泡のように存在していること。そしてかつてその全ての泡を一つに統合し完全な調和と平和をもたらそうとした別の神がいたこと。
その神の名は『アーク』。
万物の根源を意味する名を冠した絶対的な秩序の神
『アークの理想は高潔だった。争いも悲しみも悪意もないたった一つの完璧な世界。だがその思想は他の神々にとってあまりに危険すぎた。自由意志を奪い停滞した世界を生むだけの壮大な独善だと』
結果、アークを危険視した我々は、その存在を宇宙の深淵に封印した。
『だが、アークは封印されるその間際に、最後の抵抗を試みた。彼は、自らの神としての力の全てを、12の欠片へと分解し、数多の世界へと解き放った。それは、「いつか再び、我が理が世界に戻らんことを」という、漠然とした祈りにも似た行為だった』
『その力の欠片は、長い時を彷徨い、やがてそれぞれの世界で、その力の波長と最も魂が共鳴する、12人の人間の元へと宿った。……それが、君に探してもらいたい者たちだ』
「……それが、『使徒』か」
『そうだ。我々は、彼らをそう呼んでいる。彼らは、元はただの人間でありながら、その身に神の力の一端を宿してしまった、悲劇的な存在だ。言わば、半神半人。彼らは、人間社会に紛れ込み神の力の一端である『異能』を振るって、魂を集めている可能性が非常に高い。君にはその12人の使徒を全て探し出し無力化してもらいたい』
なるほど。話が見えてきた。途方もなく、面倒で、そして……。
「……面白そうだ」
俺の口から自然と葉が漏れた。
生前感じたことのない胸の高鳴り。死ぬほど追い求めていた退屈を破壊してくれる極上の謎の匂い。
『報酬は君の願いを一つだけ何でも叶える。死んだ恋人を蘇らせることも巨万の富を得ることも君自身が新たな世界の神となることすらも可能だ』
「報酬など、どうでもいい」
俺は即答した。
「この依頼受けよう。退屈させてくれるなよ神様」
俺の答えに神は満足げに揺らめいた。
『では、契約成立だ。だが、君にはいくつかの制約を課す。君のそのあまりに歪んだ知性は時に世界の理を破壊しかねない。君を新たな世界へと『転生』させる』
「転生? 赤ん坊からやり直せと? ごめんだな。不自由な上に退屈すぎる」
『……交渉するか。ならばどうしたい?』
「15歳。それくらいが一番自由に動ける。世界のことも一から学ぶ必要があるだろうしな」
『……良かろう。君が最初に降り立つ世界でちょうど良く病でその生を終えようとしている15歳の少年がいる。その器を使え。だが君一人では使徒の『異能』を感知することはできない』
神がそう言うとその隣にぼんやりともう一つの人影が現れた。亜麻色の髪をしたまだ幼さの残る一人の少女の姿。
『彼女はミッシュ。私の代理人であり君の『目』となって使徒の気配を捉える者だ。彼女の言葉を疑うな。彼女が感じるものこそが君の論理では届かない世界の『真実』の姿だ』
『では行け。歪んだ知性の探求者よ。君の二度目の人生という名の謎解きを始めるとしよう』
その言葉を最後に俺の意識は真っ白な光に包まれた。そして次に目を開けた時俺は知らない部屋の知らないベッドの上にいた。窓の外からは嗅いだことのない花の香りと教会の鐘の音が聞こえてきていた。
(第8話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
次回もプロローグになります。