第2部 13 降伏①
由美は病室のベッドでここ数日の新聞に目を通していた。
由美を刺したのは、世田谷児童虐待死事件を起こした川下南の旦那だった。
襲撃後、すぐに自首した旦那は、警察の取り調べに対し、「妻に関する報道で恨みがあった」と供述した。由美を狙った理由は「女性だから」だった。
事件の翌朝から始まった報道では、由美を「フリージャーナリストの中川佳織氏」と取り上げ、どのメディアも「ジャーナリズムへの暴力は許されるべきではない」と書いていた。
意識が戻ってすぐ、由美は弁護士を通じて、取材の自粛をお願いするコメントを発表していた。にも関わらず、プライベートの携帯電話には、連日メディアからと思われる電話、メール、SMSを通じた取材依頼が殺到していた。
その中に埋もれるように、柏木からは、“スケジュールの関係で、しばらく帰れない”というメールが届いていたが、由美は返信しなかった。
新聞を畳んだ由美は、両手をお腹に置く。
胎児は無事だった。
意識を取り戻した由美が真っ先に訊ねたのはそのことだった。
担当医によると、由美はショック状態の中、救急隊員に対し、自身の妊娠を告げたという。
「ですので、できるだけ胎児に負担がかからないような処置をしました」
眼鏡をかけた担当医のやさしい笑み。言葉には出さないものの、医師として思うところがある様子だった。
由美は外を見る。一昨日、平年より早く梅雨明けしたが、今日は曇りだ。
病室のドアがノックされる。
由美が「どうぞ」と答える。母だった。
事件以降、毎日病室に顔を出す。
母によると、事件翌日、和昌は一度だけ病室に姿を見せたが、由美が診察を受けている間に帰っていったらしい。
その後、初めて記者の取材に応じた和昌は、再出馬の可能性について「こんなロートルにそんな話はない」とだけ答え、車に乗り込んだ。
映像を見た由美は、和昌の口調に復活を感じた。
「父さんは何してる?」
窓際の椅子に座り、読書を始めた母に尋ねる。
「朝からどこかに出かけてますよ」
「出馬は諦めたの?」
「そうみたいね」
淡々とした口ぶりだ。
「あまり嬉しそうじゃないね」
「そんなことありませんよ。でも、家の書斎にいるよりは、外で人と会ったりする方が、あの人は元気だから」
「そうかもしれないけど、元気だから怖いのよ、あの人は」
「それはそうね」
「どうして田村さんに産ませることを認めたの?」
由美の質問に、母は本から目線を上げる。
「私には産めそうになかったから。それに、父さんは私以外に守る人が増えるほど、張り切るから」
「そんな理由で?」
「なんだかんだ言っても、あの人は他の人の為の方が頑張れる人。難しいことはわからないけど、私の目から見ても、玲ちゃんが生まれる前と後では、政治家として変わった」
「どういうこと?」
「玲ちゃんが生まれて以降、あの人は女性の権利に関してかなり熱心に取り組んできた。国連で採択されていた女性の差別撤廃を目指す条約への批准や、国内法の改定とか」
「父さんが?」
「そうよ」
「知らなかった」
母がため息をつく。
「失言は取り上げても、そういったことは本当に取り上げられない。あの時期、党からは蔑ろにされ、バブルそっちのけでそんな仕事ばかりしてたら、リクルートの事件があって、今度は担ぎ出される」
「でも、それは玲が女の子だったからでしょ。男の子だったらそうじゃなかったかもしれない」
「それはそうね」
「それなら、結局の所、公私混同。自分のためじゃない」
「それがいけないというの? 公私混同であっても、父さんが尽力したことに変わりはない」
たしかにそうだ。
「それが目的?」
「そう。あの人を馬車馬のように働かせるため」
母が笑う。冗談を言ったつもりなのだろう。
「だったら、母さんには家族を守って欲しかった」
「そう?」
「そうよ。いつだって父さんの言いなりで」
「たしかにそうかもしれない。でも、そのことがわかってるなら、あなたは私や父さんのようにならなければいい」
「えっ?」
「私も父さんもあなたの考える理想の親でないなら、あなたはそうならなければいい。親というのはその程度の存在と考えておけばいい」
「それでいいの? そこで、もっと尊敬される母親になろうとは思わないわけ?」
「あなたも玲ちゃんも、私には絶対にできない生き方をしているし、してきた。私はそれを眺めてるだけでいい。喜んだり、怒ったり、悲しんだりして受けとめる……それでいいの」
そう言うと、母は再び本に目を落とす。
由美は母の顔を見つめ続ける。
化粧で隠されていてもはっきりとわかる刻まれた皺。見逃していたのか、見ることを無意識に避けてきたのか。
「母さん、私、妊娠してるの」
「そうみたいね。担当医さんから聞きました」
「『誰の子なの?』とは聞かないの?」
「私の子ではないでしょう」
「そうかもしれないけど娘の相手よ?」
「それでもよ」
「どうでもいいの?」
由美の言葉に、母は再度顔を上げ、「あなたはしっかりしてるから」と言った。




