第2部 12 衝撃③
平井に見送られ、エレベーターに乗った由美は、社員通用口から外に出た。
諦めたのか、テレビクルーの姿はなかった。
由美はビニール傘を差しながら、潮談館の社屋を振り返りると、『週刊プレス』編集部の窓を見上げる。
365日明かりが消えることのない不夜城。猥雑だが不思議と落ち着くにおい。
追い出されたにも関わらず、できることなら帰りたいと思う。
地下鉄に乗った由美は、ホテルではなく、自宅に帰ることにした。どこに行ってもマスコミが追いかけてくるなら、自分が落ち着ける空間でゆっくりする方が楽だった。
何かあった時のため、コインロッカーに預けた荷物はそのままにした。
最寄駅に着く。
会社を出た時よりも激しさを増した雨で、少し歩いただけで靴もスーツもびしょびしょだ。
雨音に交じり背後から駆け寄る足音。
マスコミかと思い、振り返った瞬間、衝撃とともに由美は地面に飛ばされる。
気づいた時にはうつ伏せで倒れていた。
目を開けた由美は、視界の端に人影を捉える。
黒い雨合羽姿の男性が近づいてくる。物々しい雰囲気に、直感で危険を感じる。
立ち上がろうとするが、うまく力が入らない。
恐怖。加えて、左脇腹に熱があった。左手で触れる。棒のようなもの。
横に立った男がそれを引き抜く。息が漏れると同時に、雨とは違う温かいものがシャツを濡らしていく。
右手に握られた包丁を見て、由美はもう一度身体を起こそうとするが、足で背中を押さえつけられる。
だめだ。その時、聞こえた声。
「由美は力持ちね」
「それだけ力があれば大丈夫」
由美は叫び声をあげる。
男の足から一瞬力が抜ける。
由美は身体を起こしながら、左手で男の足を払う。
男の体勢が崩れる。その瞬間、全ての力を込めて、数メートル先に転がったビニール傘まで這うように進むと、掴んだ傘を背後に突き出す。
先端が男の胸に当たり、駆け寄ってきた反動で後ろに倒れる。
その間に立ち上がった由美は、開いた傘を両手で構える。
所詮、ビニール傘。武器になるとは思えない。
だが、他に方法はない。これが今の自分にできること。
男がゆっくりと近づいてくる。
「包丁から目を離すな」
そう自分に言い聞かせながら、由美は傘の柄を握る手に力を込める。
足元を照らす光。その光は徐々に濃くなり、男の全身を照らした所で止まる。
男は足を止め、振り返ると、反対方向に駆け出す。
姿が見えなくなった所で、由美も光源に目を向ける。
一台の軽自動車が止まっていた。
運転席の窓が開く。
「大丈夫ですか?」
大声で話しかけられる。女性の声だった。
「すみませんが、救急車を呼んでもらえますか?」
できるだけはっきりとした声で返事をした所で、由美はその場にへたり込む。
ドアが開き、女性が傘も差さずに飛び出してくる。
「大丈夫ですか?」
女性の髪と服がみるみる濡れていく。
由美はその様子を心配できるほど、自分が冷静なことに驚く。
「すみませんが、救急車を……」
再度伝えた所で、女性は車に戻ると、雨に濡れながら、鞄を引っかき回している。
由美は自分のバッグを探す。
数メートル先、最初に刺された場所に落ちている。
由美は這いながら進む。
雨に濡れて、形が崩れている。取材ノートやHDDのデータが心配だった。
音声データ、書きかけの原稿、取材メモ……今後フリーになるなら、この内容を記事にするのが最初の仕事と考えていた。
失うわけにいかない。
「動いちゃダメです」
車から戻ってきた女性に抱えられる。バランスを崩し、二人ともアスファルトに倒れる。
降りかかる雨が、由美の気持ちを冷まし、振り絞っていた力を流していく。
「大丈夫ですか?」
身体を起こした女性が、心配そうな表情で覗き込む。
「立てますか?」
首を横に振る。彼女もずぶ濡れで、服には由美の血がついていた。
「濡れない場所まで……」と、女性は由美の腕を取るが、一人の力で動かすことなど到底無理だった。
「このままで大丈夫だから」
由美が声をかける。
「すぐに救急車が来ますから」
傍で女性が励ましてくれる。
雨に濡れた服がのしかかる。全身にまわった脇腹の痛みで、もはや自力で動けなかった。
由美は自分を無力と思う。だが、不思議にも、それを受け入れていて、このまま跡形もなく雨と共に流れ去りたいと考えていた。
顔に当たる雨粒が止む。
女性が泣きそうな笑みを向けながら、ビニール傘を差し掛けていた。
救急車のサイレンが少しずつこちらに近づいてくる。
正義の音だった。けれども、由美の耳には、その音がひどく威圧的に聞こえた。
ヘッドライトと、回転する赤色灯がビニール傘に映る。
近づいているはずなのに、音はどんどん小さくなっていく。
「ありがとう。あなたの名前は?」
女性にそう訊ねようとした瞬間、由美の意識は遠のいていった。
次の更新は2023/7/17の21時です。次回で完結します。




