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第1部 2 あの日⑥

 冷めたチョリソ、氷の溶けたジントニック。

 掌に水滴を感じながら、グラスを鼻先に近づける。ほのかに香るライムが鼻腔をくすぐり、冷たいアルコールが喉を下る。

 由美はカウンターから向けられる視線に気づく。柏木が心配そうにこちらの様子を窺っていた。

 店内を見まわす。いつの間にか他の客はいなくなっていた。

「チョリソ温め直そうか?」

 柏木が声をかける。

 由美が首を横に振ると、カウンターを出た柏木が、正面の椅子に腰掛ける。

 座る直前に向けられた視線は、ハグのように優しい。

 横向きに座った柏木は、無言で手元の文庫本に目を落としている。もし由美に話があるなら、この方が話しやすいだろうとわかっているように。

 そういった振る舞いを見ていると、理解というのは、それだけで優しさであると由美は思う。

 ただ、由美はその優しさに甘えるべきか迷っていた。自分の思いを聞いてもらいたいという気持ちと、自分の弱さを晒したくないという気持ちが相克そうこくしていた。

「何を読んでいるの?」

 勝ったのは後者の気持ちだった。

「大江健三郎の『われらの時代』」

 柏木が答える。

「読んだことある?」という問いに、由美は首を横に振る。

「まだ途中だけど、およそ半世紀前に書かれた本なのに、この頃から日本人って変わってないなって思う」

「どういう点が?」

「全般的にだけど……、不安なのに何もしようとしない点と、にも関わらず、希望がないと嘆く点……かな」

「自分は決して悪くないって思ってる。事件の取材でも、記事を読んだ取材相手が『私の話と違う』と言って編集部に電話をかけてくる。でも、事件取材の時は、複数の相手に話を聞くわけだから、紙面の都合で書かないことの方が多い。あと、取材を進めてみたら、実はその人の話とは真逆の内容が事実だったなんてこともざらにある。にも関わらず、当人はそんなことも想像せずに電話をかけてくる。自分が間違っているなんて微塵も疑っていない様子で」

 柏木は、由美の話を最後まで聞いてから、「でも、この中の登場人物達はまだ幸せだって思えたりもする」と続ける。

「どういった点が?」

「少なくとも『われらの時代』があると思えることが」

「本当にそう思っている?」

「ないよりはあるほうがいいでしょ」

 言葉とは裏腹に、柏木の口ぶりは全く信じていない様子だった。

「でも、今の日本で『わたしたちの時代』なんて言えるのは、バブル世代までじゃない?」

「その言葉を、その時代特有の空気とするなら、今も昔もあるんじゃない。でも、そこに明るさを見るか、暗さを見るかで、捉え方が変わる」

 そう答えた柏木は、急にトーンを変えると「それで、大丈夫なの?」と言って由美の目を見る。

「何が?」

「いや、もう店閉めるけど、閉めた後うち来る?」

 柏木は淀みなく続けたが、こちらの様子を見て言葉を変えたことが、由美にはわかった。

「今日はもう帰る」

 そう言うと、由美は財布から2千円を取り出す。

「毎度ありがとうございます」と言い、柏木はカウンターに向かう。

 荷物をまとめた由美がエレベーターの前に立つ。柏木はそこまで来て、釣り銭を渡すと、「いつでも連絡してくれていいから」と声をかける。

 由美は頷き、扉が閉まるまでの間、小さく手を振る。

 ゆっくりと動き出したエレベーターが1階に降りていくまでの間、由美は目を瞑りながら大きく息をついた。


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