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第2部 9 故郷③

「ここらへんですね」

 運転手がタクシーを停める。

 由美が代金を払うと「お帰りの際は、またご連絡ください」と言って、おつりと領収書を渡される。

「何もない場所か」

 運転手の言葉通り、田んぼと山しかない田園風景。

 聞こえるのは、道路脇の用水路を流れる水の音だけだ。

 曇り空の下、アスファルトにできた薄い影。これまで他の事件の取材で訪れた場所を思い出しても、山深い場所にある集落というのは、どこもそんなに変わらない。

 五軒単位の家々が極小の集落を形成し、そこから少し離れた場所に同様の集落が散在する。

 風が吹き、由美の服を叩く。

 集落から少し離れた高台に一軒だけある現代住宅。

 高木瑠香が幼少時に両親と過ごした家は、朽ちるに任せた状態だった。外壁は雨曝しで塗装が剥げ、所々錆びも見られる。

 借り手もつかず、こんな状態になっても取り壊されない理由は簡単だ。

 改めてこの地に移り住む人間など誰もいないからだろう。

 高木瑠香は6歳までここに住んでいた。

 彼女の父親は絵本作家で、母親はフルート奏者。そんな二人でも、この家を建てることができたのは、バブル時代に夫婦が働いて貯めたお金のおかげだった。

 移住後、母親は富山市内の音楽教室でピアノを教え、父親は創作に励んだ。

 慎ましい生活だった。だが、高木瑠香が幼稚園にいる間に夫婦二人で買い物に出かけた帰り道、対向車線をはみ出してきたトラックと衝突。年代物の古い軽自動車にはエアバッグがなく、夫婦は胸を強く打って死亡した。

 由美は近くの住宅を一軒ずつ訪ねていく。

 ほとんどの家は留守か、身元を明かした段階で取材を断られた。

 ようやく話を聞けたのは、集落の端っこの家に住む老人からだった。

 老人は、軒下に置かれた一人用ソファに座って眠っていた。

「ごめんください」

 由美が声を掛ける。

 ゆっくりと目を開けた老人は「どちらさん?」と尋ねる。

「私は東京の記者で、取材に来たのですが……」

 由美が頭を下げる、

「取材?」

 老人は目を細めると、一気に表情が険しくなる。

 断られるかなと身を固くした由美だったが、老人は「まあちょっとここに座ってお茶でも飲んでいきなさい」と言葉をかける。

 由美は軒下に腰掛ける。

 老人は傍のポットで急須にお湯を注ぐと、ふきんの上で逆さにしてあった湯呑みの一つに緑茶を淹れる。

「その格好で寒くありませんか?」

 作業着を羽織っただけの姿の老人に由美は訊ねる。

 老人は答えずに、茶碗を渡すと「ここに来るのは初めてか?」と質問する。

「はい」

「どう思った?」

「静かな場所ですね」

 由美が答える。

「嘘をつくな」と老人は厳しい口調になる。

「何もない場所だと思っただろ」

「はい」

「そうだろう。何もない。いい所だろ」

 老人がくちゃくちゃと音をたてて笑う。

「東京から来たと言ったか?」

「ええ」

「東京と言えば、人が多いところだ」

「そうですね」

「テレビでしか見たことないが、あの……人がたくさんいる交差点、あれも東京だろ?」

 渋谷のスクランブル交差点のことだろう。

 由美が頷く。

「東京は夜でもあんなに明るくて、人がたくさんいるんだな」

「はい」

「見ればわかるように、ここには街灯なんかない。夜出歩かないっていうのは、ここでは車がないとどこにも行けないからだ。どこにも行けないんだ、ここは」

 由美が相槌を打つ。

「俺の息子も『都会に行きたい』と言ってここを出ていったが、東京はそんなに良い所か?」

「どうでしょうね。私は生まれも育ちも東京なので。便利な街だとは思いますけど」

「便利ってのは何だ? 人が多いと便利なのか?」

 由美は少し考えてから「選択肢が多いってことが、便利なんじゃないですか」と答える。

「そんなもんかね」

 納得したのかわからないが、老人は黙る。

「いただきます」と言って、由美はお茶に口をつける。

「俺の兄もここを出ていった」

 老人は唐突に身の上話を始める。

「兄は頭が良くてな。京都の帝国大学に進学して、卒業後は新聞記者になった。けれども、特派員としてアメリカに渡ってからは、二度と帰ってこなかった」

「そうなんですね」

「一家自慢の兄だった。こんな田舎からアメリカまで行ったんだから。ただ、兄が出ていった代わりに、次男だった俺がこの家を守らなきゃいけなくなった」

「その後、お兄様は?」

「ずっと消息不明だったが、3年前に国際郵便で手紙が来た。知り合いの英語の分かるお嬢ちゃんに訳してもらったら、もう5年ほど前に向こうで死んだそうだ」

「そうですか」

 老人の話が終わった所で、由美は高木瑠香について訊ねる。

「昔、高台の家に住んでいた女の子をご存知ですか?」

「瑠香ちゃんか。覚えてるよ」

「どんな子でしたか?」

「恥ずかしがり屋さんだった。ご近所さんに会っても、挨拶をすると、そそくさとその場を離れていく、そんな子だった。当時からこの集落には他に子どもがいなかったから、いつも一人で、田んぼの間を歩いたり、用水路を覗き込んだりしていた」

 由美が相槌を打つ。

「夕陽を見るのが好きな子で、野良仕事を終えて帰る時、家の前で山の向こうに沈む夕陽をじっと眺めていた姿が印象に残っている」

 由美の脳裏に当時の情景が思い浮かぶ。

「ご両親が事故に遭われた後すぐの、彼女の様子について知りませんか?」

「かみさんと通夜に行った時は、叔母さんの隣に座って頭を下げていた」

「動揺した様子はなかったですか?」

「全く状況を理解できずにいる、というわけではなさそうだった。帰り道、かみさんに『これからあの子はどうなるのかね』と聞くと、『前から思ってたけど、ちょっと変な子ね』と言っていた」

「理由はおっしゃってました?」

「『いきなり両親がいなくなったのに、全てを受け入れている様子だった』と」

「それが彼女を見た最後の姿ですか?」

「いや、その後、家財を整理するために叔父夫妻と来た時に会っている」

「その時の様子は?」

「あの日、山から帰ってきたら、うちの前で地面を眺めていた。『こんにちは』と挨拶すると、『どうしてエサを見つけたアリさんは列になって取りに行くの?』と訊かれた。科学的な正解は知らなかった。だから、『みんなと一緒だと安心なんじゃないかな』と答えた。するとあの子は言った。『かわいそう』と」

 由美が頷く。

「ぞっとするような口調だった。それから、かみさんが言っていた『ちょっと変な子』という言葉を思い出した」

 老人がお茶を啜る。由美も倣う。お茶は冷めていた。

「昨年、彼女が起こした事件についてはご存知ですか?」

「聞いた聞いた」

「どう思いました?」

「『ここを出た後も色々あったんだろうな』と思ったよ」

「そうですか」と言って、由美が黙ると、「そういえば」と思い出したように老人が口を開く。

「あの子も東京にいたのか?」

「はい」

「やっぱり都会には、何かあるのかね。ここにはない何かが」

 由美はお茶のお礼を伝え、老人の家を後にする。

 少し離れた別の集落に歩いて向かう。薄曇りの空から差し込んだ光で、青々とした苗と田んぼの水が輝いている。

 別の集落に足を伸ばしても、留守か取材拒否で話を聞くことはできなかった。

 由美はタクシー会社に迎車を依頼してから、田んぼの間の道を抜け、来た時に降ろしてもらった県道に向かう。

 途中のトタン小屋の前で、足を止める。

 トラクターの隅で何かが動いていた。

 由美は目を凝らす。

 犬と猫の交尾だった。黒の雄犬が茶色の雌猫に跨がり腰を動かしている。

 雄犬が息を荒げながら性器をこすりつけるように腰を振る一方で、雌猫は抵抗する様子もなく、どこか遠くを見ている。

 由美の靴音に反応した犬は「キャン」と小さく鳴くと、壁に空いた隙間から逃げていく。取り残された猫は、何事もなかったかのように欠伸をすると、由美の方に近づいてくる。

 由美はその場を離れ、少し離れた場所から振り返る。

 猫はひなたぼっこでもするように道路の真ん中で横になっている。ただそれだけなのに、由美の目にはその光景が淫らなものに映った。

「取材はうまくいきましたか?」

 タクシーの運転手はさっきと同じだった。

「近所の方から、ここに住んでいた時の様子について、話を聞けました」

「それって、兄がアメリカに行ったって爺さんじゃないかい?」

「そうですけど」

「それなら話半分に訊いといた方がいい。だいぶボケてるから」

「よくご存知なんですね」

「俺、爺さんの息子と同級生なんだよ」

「そうだったんですか?」

「『前は全くそんな話したことなかったのに、ボケてからは、来る人捕まえてはその話ばっかりだ』って嘆いてた」

「そうなんですね」

「ばあさんを亡くして5年かな。息子は施設に入れたがってるけど、『俺はこの家で死ぬ』と言って聞かないそうだ。あまりにも頑なだから、今は訪問ヘルパーさんに来てもらって何とかやってるらしい」

 由美は頷き、外の景色を眺める。山の向こうに日が落ち始めていた。

 運転手は少しの間無言で運転していたが、突然「俺は歳を取ってもああはなりたくないね」と呟く。

 由美がバックミラーに視線を向ける。

「嫌だね。呆けてさ。自分の境遇に対する後悔から目を逸らすために、理想の兄を空想してさ……。そんなに嫌だったんなら、さっさと山も田畑も捨てて都会に出ちまえば良かったんだ」

 運転手はそう言うと、丁字路で一時停止してから、左折し、駅に向かう。


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