表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/83

第2部 4 出馬①

 その日の晩、由美は柏木の部屋で原稿を書いていた。

 初稿の完成まであと少し。由美は伸びをしながら時計を見る。

 23時45分――恐らく近所の作業部屋にいる柏木の帰りは、早くても明け方、遅い時は帰ってこない。

 コーヒーをおかわりしようと立ち上がった所で、テーブルの上に置いてあったプライベートの携帯電話が震える。

 ディスプレイに表示された番号は、連絡先として登録せずとも絶対に忘れることはない番号だった。

 由美は出るか迷った。だが、時間が時間なだけに、至急の用件かもしれず、通話のボタンを押す。

――もしもし

――もしもし、由美?

 母だった。

――どうしたの? こんな時間に

――この時間だったら、あなたの仕事の迷惑にならないと思って

――そう、気遣ってくれてありがとう。で、どうしたの?

――あのね……

 言いかけたところで、黙り込む。

 悪い予感しかなかった。

――どうしたの?

 由美の問いかけに、燕はおずおずと口を開く。

――相談したいことがあって

――何?

――でも、電話じゃ言えない

――どうして? また父さんのこと?

 母が黙る。沈黙が答えだった。

――そう……それとあなたのこと

――また縁談? それとも、とうとうお父さんと離婚でもしようかと考えた?

――そうじゃなくて

――じゃあ何?

――あのね……、と言いかけたところで再び黙った燕は、

――やっぱり電話じゃ言えない。明日か明後日にでも会うことはできない? と尋ねる。

――母さん、私だって忙しいの

 意に沿わない返事には黙り込む母に「ズルい人だ」と由美は思う。

――いくら電話じゃ話せないような事だとしても、少しでも聞いておかないと会ったところで何もできないでしょう

 由美が続ける。

――父さん、出馬するかもしれない

 母の言葉に、由美は絶句する。

「出馬?」「今更?」「あの身体で?」「何のために?」

 次々と湧き上がる疑問。その中の一つを尋ねる。

――あの身体で出馬するつもりなの?

――そうみたい……

――今更、出馬してどうするの?

――わからない

――止めないの?

 質問したものの、答えはわかっていた。

――そんなことできるわけないじゃない

――私にも無理。一度あの人が決めたことを止めるのは。あの人の耳は、人の話を聞くためじゃなくて、怒った時に紅くして、相手を威嚇するためのものだから

――でも、指摘できるのは、あなたしかいないでしょ?

 その言葉は間違いだ。私しかいないのではなく、私以外いなくなったのだ。

 由美はため息をついてから、

――母さんも出馬を止めさせたいのよね? と尋ねる。

――ええ

――じゃあ私が言ったら力を貸してくれるのよね?

 黙り込む燕に、――ねえ? と念押しする。

 燕は渋々といった様子だったが、――ええ、と答えた。

――じゃあ何とか明日の午前中に都合をつけて行く

 その言葉を聞いた母は、まるで全て解決したかのような口調で、――あなた相変わらず忙しいの? と尋ねる。

 由美は、母の変わりように唖然としつつ、

――母さんは私が何してるか知ってる? と問い返す。

――あなたは週刊誌の記者でしょ?

――そうだけど、例えば、去年私が本を出したこととか?

――そうだったの?

――変な取材とかこなかった?

――さあ。田村さんなら知っているかもしれないけど

――そうね、と答えた由美は、電話を切ろうとするが、

――あなたちゃんと食べているの? と言う母に会話を続ける。

――母さん、たまに電話してきても、用件が済むとその話しかしないけど、娘に対して他に訊くことはないの?

――例えば?

――そうね……、と由美は考えたが、母に聞いて欲しいことなどなかった。

 昔から母に言うと、何も考えずに口にして、和昌の耳に入るや否や、収まるものも収まらなくなるのが常だった。

――まあいいわ、と答えた由美は、――じゃあ明日の朝、適当な時間に行くようにするから、と伝え、時間が時間なので、――おやすみなさい、と言うも、言い終わる前に電話は切れた。

 由美は携帯電話を見つめる。

 この人はいつもこうだ。

 いい意味で、マイペース。悪い意味で、自分勝手。

 我が母ながら、「いい母親」とは思えなかった。

 我が子への愛情は深い。だが、あくまでそれは母にとって都合の良い部分だけだ。

 由美は携帯電話をテーブルに置き、スリープ状態のパソコンを見つめる。

 今日はこれ以上書く気が起きなかった。

 佐伯家が絡むと、いつも調子が狂ってしまう。

 由美はパソコンをしまってから、洗面所で歯を磨く。

「出馬か……」

 玲の死があったとはいえ、想定外だった。

 由美がそう考えたのは、幼い頃に和昌と交わした会話を覚えていたからだ。

 小学校三年生の時、親の仕事の話を聞いてまとめるという宿題が出た。

 その日の夜、珍しく早い時間に家にいた和昌に宿題のことを話すと、上機嫌だったのか「いいだろう」と応じてくれた。

「まずは仕事の名前から」

 由美の問いに「国会議員」と答えると、和昌は“議員”の書き方を由美に教えた。

 書き終えた由美は、学校から渡されたプリントに従い、質問を始める。

「どんな仕事ですか?」

「この国に住む人々の生活がうまくいくためのルールを決めること」

「ふーん」

「父さんの言ってることわかるか?」

「うん。みんなのためにする仕事ってことよね」

「そうだな。できるだけ多くのみんなのためにする仕事だ」

 由美はプリントに書き留める。

「じゃあ次。この仕事をしていてよかったと思う点はありますか?」

 和昌は深く考える様子を見せてから「あまりそう思うことはないな」と答える。

「みんなから『先生』って呼ばれているのに?」

「色々な人が父さんを『先生』と呼ぶのは口癖みたいなものだ。本当に『先生』と思っているわけじゃない」

「どうして?」

「それは由美が今言った『どうして?』と同じようなもので、父さんに何かをお願いしようと思った時、彼らは『先生』と呼ぶんだ」

「じゃあお父さんはどうして国会議員という仕事をしてるの? 楽しくないんでしょ?」

「その通り。楽しいものではない」

 和昌は認める。

「でも、由美にはまだわからないだろうが、社会には誰もやりたがらないけど、誰かがやらなくちゃいけないことがあるんだ」

「わかんない」

「だろうな」

 和昌は由美の目を見て、笑みを浮かべた。

「じゃあ、この仕事をしていて大変だと思う点は何ですか?」

「さっき父さんの仕事は『できるだけ多くのみんなのためにする仕事』と言ったな?」

 由美は頷く。

「でも、実は全ての人々のためになるルールは存在しないんだ」

「えー」

 由美は驚きの声をあげる。

「でも、道徳の授業で、『道徳は、みんなが協力し合って生きていくために守らなくちゃいけないルールです』って、先生言ってた」

「道徳はそうかもしれないが、父さん達が決めているルールは違うんだ」

「どういうこと?」

 由美は和昌の顔を見つめる。

「そうだな。例えば……」

 そう言った和昌は、テーブルの上にあったウイスキーの入ったグラスを手に取ると、「このグラスに穴が空いたらどうなる?」と由美に訊ねる。

「お酒がこぼれる」

「そう。だから、父さん達は、お酒がこぼれないようにこの穴を塞ぐ。でも、それを塞ごうとする間に、今度は別の穴が空いてしまう。父さん達は、それも塞ごうとする。するとまた……この繰り返しが父さんの仕事だ」

「穴を同時に塞ぐことはできないの?」

「難しい」

「穴が空かないようにするのは?」

「それもできない」

「どうして?」

「そんなルールは存在しないからだ」

「そうなの?」

「そうだ」

 和昌と目が合う。その眼差しは、厳格でありながらも優しかった。

「最後。この仕事をする上で一番大切なことは何ですか?」

 和昌はグラスを手に取り、ウイスキーを一口飲んでから、

「自分の足で立てることだ」と答える。

「自分の足で立てる?」

 繰り返す由美に、和昌は小さく頷く。

 壁時計の秒針の音が聞こえた。

「それが一番大切なこと?」

「ああ。堂々と姿勢良く立ち続ける。それがこの仕事で一番大切なことだ」

「私にもできる?」

「今のままじゃ駄目だな。もっと大きくなって、ちょっとやそっとじゃ倒れないくらいにならないと」

「じゃあお姉ちゃんくらいだったら?」

「お姉ちゃんの年齢じゃまだ無理だけど、お姉ちゃんくらい背が高くて姿勢が良ければなれるかもしれない。由美は国会議員になりたいか?」

「わかんない」

「そうか」と言った和昌が笑う。

 ご機嫌だった。

「お父さんありがとう」

 由美が立ち上がる。

「どういたしまして」

 そう答えた和昌は、「早く寝なさい」と声を掛ける。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 あの晩の出来事は、和昌の優しさを見た数少ない思い出の一つとして、由美の記憶に深く刻まれていた。だからこそ、自宅階段から転落した和昌が政界引退を決めた時も、そこまでの驚きはなかった。

 由美は柏木の帰りを待たずに、ベッドへ潜りこむ。

 ドアを閉める前に見たあの日の和昌の後ろ姿を、由美は今でも鮮明に覚えている。

 シワの入ったワイシャツ姿の背中は、とても大きく感じられた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ