第1部 8 道化と魔女②
会社に戻った由美は、すぐに中山の話を下書きとしてまとめる。
それが終わると、18時過ぎに会社を出て、新宿に向かう。今日は柏木のバンドのワンマンライブがあった。
ライブハウスに着いた由美は、前売券を見せて中に入る。「言ってくれれば、いつでもゲスト枠に入れておくよ」と柏木は言うが、由美は必ずチケットを買うようにしていた。
フロアはほぼ満員で、開演5分前では、ステージ前方に行くのは無理だった。由美はドリンクカウンターでミネラルウォーターを買うと、フロア後方の壁沿いで開演を待つ。傾斜があるハコなので、この位置からでもステージの様子がよく見える。既にドラム、ベース、キーボード、二本のギターがセットされていた。
開演時刻を過ぎ暗転すると、袖からメンバーが出てくる。バンドの登場に歓声が上がるも、楽器を構えた瞬間、それはピタリと止む。
ここからは一音たりとも聴き漏らしたくない――そんな情熱的な静寂がフロアを充たしていた。
ゆったりとしたベースの演奏でライブが始まる。同じフレーズを繰り返す演奏に、ドラムが加わり、さらにキーボードが重なることで、徐々に音は厚みを増していく。
聴衆が音の世界に浸り、身を委ね始めた所に残響のエフェクトを効かせた二本のギターが加わり、音景がゆっくりと変化していく……かと思えば、急に激しい演奏に変わり、音の嵐が吹き荒れる。
CDで何度も聴いた楽曲も、ライブハウスの空間で聴くと全く別物になる。それぞれの楽器の音が交じり合ってできた音の川は、時に静かに、時に激しく、静と動を繰り返す。
これが、柏木が“緊急煽動装置”解散後に始めたバンド、“the Yellow Clowns”の音楽だった。
ファーストアルバム『本日は気狂いなり』を聴いた時、“緊急煽動装置”とのあまりの違いに、由美は柏木に色々と質問したものだ。
「バンドのコンセプトは、道化は人を動かすことができるのかという疑問からきている」
「楽曲は、自分が書いた物語をベースに、道化を取り巻く状況と感情の変化を表している」
「楽曲の幅が広がったのは、作曲にピアノを用いるようになったから」
そんなことを柏木は話していた。
「作品の基となった物語を見せてほしい」
由美が頼むと、柏木はこちらが驚くほどあっさり承諾した。
生まれつき耳の聞こえない道化は、父親と山里から降りてきた所、街で起きていた一揆に巻き込まれた。混乱の中、父親とはぐれた道化は、群衆と共に逮捕された。
父親は迎えに来なかった。もしかしたら捨てられたのかもしれない。
取り調べを担当した保安官に事情を説明した所、道化は召使いとして家に迎え入れられた。
道化は持ち前の明るさで、保安官の妻とも仲良くなり、幸せに暮らし始めた。
しかし、しばらくして、道化といる時の彼女の様子が、苦しげなものとなっていった。表面上は変わらず優しいままだったが、二人きりになることを避けようとする。
ある日、道化は筆談で彼女に尋ねた。
“私が怖いですか?”
“そんなことはない”
その言葉に道化は安心し、彼女に笑みを向けた。
その晩、彼女は、自らの首をナイフで切りつけ自殺した。第一発見者となった道化は動転し、血のついた服を着たまま街へ飛び出してしまう。
道化は逮捕され、勾留される。話を聞かれることなく鎖に繋がれ、助けてもらった恩人の妻を殺した聾として、暴行を加えられる。
ボロボロとなった道化の前に、地方の村から急ぎ帰ってきた保安官が現れる。
道化は後ろめたさで、顔を見ることができなかった。保安官がランプで顔を照らす。道化は眼を瞑っていた。それでも、うっすらと目を開けた時に見た道化を慮る眼差しに、涙が零れそうになる。
保安官が帳面に書きつける。
“君には迷惑をかけたな”
“傷の様子からすぐに自殺とすぐにわかったよ”
“まもなく解放されるから、待っていたまえ”
道化は涙を流しながら頷く。
帰りの馬車で、道化は筆談で尋ねる。
“奥様はどうして自殺を?”
“彼女は私と出会う前、精神に変調をきたしていた時期があった。結婚後は収まっていたが、少し前からあまり調子は良くなかった”
“それは私のせいですか?”
“違う。だから安心するといい”
葬儀を終え、保安官との二人きりの生活が始まる。
ある日、保安官に頼まれた道化が、遺品の整理をしていると、戸棚から日記が出てきた。
道化は、申し訳ないと思いながら開く。
“あの人は私が知らないとでも思っているのだろうか”
“あの人が連れてきた道化。あの人はまだ私を苦しめたいのか”
“あの子は私に復讐しに来たのだ。そうに決まっている。あの子は真実を知っている。それをおくびにも出さない、なんて恐ろしい子”
“ああ神よ。私の罪は消えないのでしょうか。ここに記すことすらおぞましき罪。でも、仕方なかったのです。当時の私には止める力などありませんでした。おお、しかし赦されないのですね”
“神よ、お赦しください。いや、神などいないのだ。あの人こそ、恐ろしい悪魔であり、彼の悪意に打ち勝つことすらできないのが神なのだ。それでも、私は祈ります。神よ、もし私を神の徒と認めてくださるなら、あの悪魔に罰をお与えください。それが、あの子の救済にも繋がるのです、神よ”
“殺される。殺してください。殺されたくない。あれは悪魔の微笑みだ。私は悪魔には負けない。悪魔の刃にはかからない”
日記は殴り書きされたこの文章で止まっていた。
「一体どういうことだ」
道化は顔を曇らせる。
それから少しして、道化は保安官から告げられる。
“私は居を変えようと思う”
“申し訳ないが、お前をそこに連れて行くことはできない”
“だが、支度金と次の勤め先は提供しよう”
道化は同意した後、彼女の日記を保安官に渡す。
目を通した保安官が、手元の紙に書きつける。
“なんたる悲劇だ。お前もそう思わないかい?”
“どういうことか教えていただけますか?”
“私の愛する妻はとうに失われてしまっていたのだよ、悲しいことに”
“私のせいでしょうか”
保安官が道化を見る。
“この日記を読む限り、そうなのかもしれない”
“お気づきになられていたなら、どうしてこうなる前に自分を追い出さなかったのですか?”
“お前こそ気づいていたんじゃないのか? それならばなぜ出て行かなかった?”
道化は歯を食いしばる。
“今すぐ出て行きます”
そう書いて出て行こうとする道化の腕を保安官が引く。
“最後の忠告だ。感情に任せて行動してはならない。もっとしたたかに生きることだ”
保安官の元を離れた道化は、紹介先の新しい家庭で働き始める。
ある日のこと、道化はその家で働く老婆の召使いに訊かれる。
“保安官の奥様が亡くなっているのを発見したのはあなた?”
“そうですが?”
“奥様には、保安官と出会う前に愛を誓い合っていた男性がいた。だが、妊娠してすぐ、男は罪を犯して、町を逐われた。彼女は周囲の反対を押し切って出産したが、生まれてきた子は養子に出された。その子は養子先で虐待を受け、耳が聞こえなくなり、山に棄てられた。それがおよそ10年前の話”
道化は老婆を見つめ、静かに頷く。
“でも、実は男性は冤罪だった。ありもしない罪を被せたのが保安官。このことをきっかけに彼女の両親と昵懇になった保安官は、彼女と結婚した。けれども、結局は遺産目的だった。両親の死後、保安官は愛人を作り、更に耳の聞こえないあなたを招き入れた。これがどういうことかわかる?”
道化は、怒りに震えながらも、念のため確認する。
“それは本当ですか?”
“耳が聞こえないと大変ね。このことは町の人間であれば誰もが知っている。それでも、誰も彼には刃向かえない。自分が追放されたくないから”
その晩、ベッドに潜りこんだ道化には、様々な思いが声となって聞こえていた。
もう終わった話だ。今更どうこうしたところで、奥様が生き返るわけでもない。幸いにも、ここの家族は親切だ。ここでなら今後も生きていけるだろう。
それでも、道化は真実を知りたかった。
道化はベッドを出て、保安官の家に向かう。
ドアの前に立つ道化に、保安官は驚いた表情を浮かべるも、思い詰めた様子を察して、部屋に招き入れる。
ガウン姿の保安官は、タバコを喫みながら、何も言わず、道化の言葉を待つ。
道化は、テーブルの上のペンを取り、目の前の紙に書きつける。
“奥様が死んで幸せですか?”
保安官は、全てを悟ったのか、笑みを浮かべたように見えた。
その瞬間、道化は保安官に飛びかかり、地面に押し倒すと、叫び声を上げながら何度も顔面に拳を振り下ろした。
押し倒された際に、後頭部を強く打った保安官は気を失っていた。そんなことに気づく余裕もなく、馬乗りになった道化は、怒りにまかせ、髪の毛を掴み後頭部を何度も床に叩きつける。飛び散る血が全身にかかり、それは道化の感情と同色になる。
道化が我に返った時、眼前に広がっていた光景は凄惨そのものだった。血溜まりの中で、保安官の顔面は赤い肉塊と化していた。指についた髪の毛、爪の間に入った肉片に呆然とする。
突然、若い女性が現れる。
一瞬で何が起こったかを想像できる状況にも関わらず、彼女は躊躇うことなく部屋に入ってきた。
倒れたテーブルからペンを取り、血溜まりに浸し、床に書きつける。
“一時間経ったら近所に知らせます。それまでに町の外へ”
道化は戸惑いながら彼女を見る。
“これをお持ちになって”
彼女はペンを道化に渡す。
道化が部屋を出る。そこには、あの老婆の召使いがいた。老婆は、歪んだ笑みを浮かべると、道化の脇を抜け部屋に入っていく。
道化はその場に崩れ落ちる。自らの笑えない道化ぶりに絶望する。
道化は右手に握られたペンを見つめると、左腕に何度も突き立てる。傷口から溢れた血が腕を伝い、床に垂れていく。
阿呆なら阿呆として生きろ。何が起きようか知ったことか。
保安官を殺した。それが何だ。
愛人に金が入る。それがどうした。
道化は立ち上がる。部屋に戻り、保安官の死体を前に話し合う二人に音を立てずに近づき、頭に手を乗せる。
愛人と老婆の驚愕の表情に、道化は自分が笑みを浮かべているのがわかった。
道化は愛人の襟口をしっかり掴んでから、老婆の頭を地面に叩きつけ、何度も踏みつける。同時に、悲鳴をあげようとする愛人の口元を塞ぐ。
老婆が動かなくなったのを確認してから、道化はポケットから取り出したペンを愛人の喉に突っ込みかき回す。目を見開いた愛人の口から血が溢れる。
両手で首を絞める。愛人は口から血を吐きながら必死に抵抗するが、徐々にその力も弱まり、動かなくなる。
両手を離す。愛人が地面に音を立てて倒れる。苦しみ悶えた最後の表情に満足した道化は、老婆の髪を掴んで持ち上げる。前歯が砕け、白目を剥いて気絶する表情の醜さ、そして、意識を取り戻した時に目にする光景を見て感じるであろう地獄のような気持ちを想像し、口元を緩める。
殺してしまえば関係ない。死んでしまえば関係ない。
これが道化の阿呆だった。
部屋を出た道化は、浴室に向かう。服を脱ぎ、血だらけの身体を濡らしたタオルで拭ってから、保安官の部屋で服を着替える。
道化は町を出て山に入る。真っ暗な森を奥へと進んでいく。
闇への恐れはなかった。むしろもっと深い闇に入っていくことを望んでいた。いや、道化は闇そのものになりたかった……
由美が現実に戻る。
ドラムロールがどんどん早くなり、道化が森の奥に進んでいく。同時に、道化の怒りと悲しみを表したようなピアノと轟音のギターノイズが鳴り響いた後、それは唐突に途絶える。
圧倒された観客の一瞬の沈黙の後、歓声と拍手がライブハウスを充たす。
楽器から離れたメンバーが、一人ずつ軽く手を挙げながら、ステージ袖へ消えていく。
客電が点く。「マジすげえ」「ヤバすぎでしょ」といった感想を口にする観客の声が聞こえる。
およそ二年ぶりに“the Yellow Clowns”のライブを観たが、長い海外ツアーを経た結果、完成された世界観に圧倒される。
観客の反応を見ながら、由美は物語を読んだ後、柏木と交わしたやりとりを思い出す。
「どうして耳の聞こえない道化が主人公なの?」
「はっきりとした理由があるわけじゃないけど、欠けているというのは、当たり前であることがそうではないということで、劇的なんだよ。あと、果たして耳で聞こえる音だけが音なのか、耳では聞こえないような音があるんじゃないか、って感じで妄想が捗りそうじゃない?」
そう言った柏木は照れ笑いを浮かべていた。
由美は、改めて、自分も負けてられない、と気持ちが高まる。
ライブハウスを出た由美は、その足で近くのコーヒーショップに入り、これまでの記事を書籍用に再編集する作業を始める。




