表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/83

第1部 7 由美と佐伯家⑦

 2011年7月、由美は、定年退職した夫を同年代の妻が殺害したという、一度報道されれば忘れ去られるような事件に注目した。

 拘置所で被告に会い、取材の意図を伝えた時、中山優子は、すぐには事情を飲み込めず、困惑していた。

 由美は限られた時間の中で、とにかく相手に信頼されるよう努めた。事件ではなく、あなたという人間に興味があると伝え、中山に手紙を書いてほしいと頼んだ。

 内容は、「結婚前と結婚後の自身の変化」「結婚生活について」の2点だった。

 二週間後、中山から受け取った分厚い手紙は、由美が仮説として考えていた記事の方向性にピタリと一致するものだった。

 そもそも、由美がこの事件に注目した理由は、取り調べで中山が発したとされる「夫婦に疲れた」という言葉だった。この事件をサンプルに、熟年夫婦に潜む色々なものを、描き出すことができるのではないかと考えていた。

 由美は別の企画の取材や執筆の合間を縫ってまとめた、『つまずいた女性』という企画書と、中山の事件に関する8ページ分の原稿をデスクの平井に提出したが、ボツにされた。理由は、「内容が『週刊プレス』の読者層にふさわしくない」というものだった。

 平井の判断に納得できなかった由美は、編集部のルールに違反することを承知の上で、企画書と原稿を編集長の富沢の所に持って行った。

「なんだこれは?」

 富沢の声に、皆の冷ややかな視線が由美に注がれる。それでも、由美は「読んでいただけませんか」と頭を下げた。

「平井が読んだんじゃないのか?」

「はい」

「ならそれが全てだ」

「それでもです。お願いします」

 由美はもう一度頭を下げる。

 椅子の軋む音がして、由美の手から企画書と原稿を取る。

 由美が顔を上げる。

 富沢は一番上の企画書に10秒ほど目を落とすと、すぐに原稿を読み始める。

 富沢は原稿を読むのがとにかく早い。A4用紙に印刷された原稿を一枚当たり15秒くらいで読み進めていく。

 読み終わった富沢が顔を上げる。

「うちの読者向けじゃないな」

「そうですか」と答えた由美は歯を食いしばる。

「一方で、このままでいいのかという考えもある」

 富沢の言葉を聞いて、由美は口にしかけた「ありがとうございました」という言葉を呑みこむ。

「中川がこれを載せたい理由は?」

 由美は身を乗り出す。

「犯罪白書を見ると、65歳以上の高齢者による犯罪は、その種類を問わず増加の一途を辿っています。そのうち9割が万引きなどの窃盗ですが、殺人、強盗、傷害、暴行などの犯罪も、国内での発生件数は減少傾向にある中、高齢者については、件数増となっています。女性の犯罪についても様々な傾向がありますが、今は割愛します。

 こんな数字を示したところで、読者は興味を示しません。読者が求めるのは、エピソードだからです。この企画では、今後迎えることになる超高齢化社会、世代間格差、ジェンダーで表面化するであろう様々な問題を取り上げることができます。しかも、こういったテーマは、テレビや新聞の大手メディアでは、スポンサー都合で深く掘り下げることができない。これができるのは、週刊誌だけです」

「平井」

 富沢が呼ぶ。

「はい」

「平井の判断は間違ってないと思うし、これは中川のワガママかもしれんが、この企画、俺が預かっていいか?」

「どうぞ」

「すまんな」

 富沢が頭を下げる。由美も倣う。

「さて、連載企画として検討するにあたり、確認したい点が2点ある。まず1点目、どの記事でもスポットライトを当てるのは女性だな?」

「はい」

「わかった。もう1点。これは要望だが、企画名についてだ。明日までに俺を説得できるものにつけ直せ」

「わかりました」

「次に原稿。これ本当はもっと長くできるだろ?」

「できます」

「4ページ原稿を4週分作れ。切り口は任せる。それで誌面を作る」

 由美は「ありがとうございます」と頭を下げた。

 こうして、“ある熟年夫婦の仄暗い関係”という題で連載の始まった『週刊プレス』が発売された当日、朝から編集部には抗議の電話がかかり続けていた。

――あの記事を書いた記者をクビにしろ!

――養ってきた旦那への恩も感じられない殺人犯を、あたかも被害者のように書きやがって。ふざけるな!

――こうしてますます女尊男卑に持っていくことで、この国を骨抜きにしたいのか。『週刊プレス』も下劣な左翼雑誌に堕ちたもんだ

 一方で、この号は売れた。特に、それまで『週刊プレス』には、ほとんどいなかった女性の読者からの反響が多く、由美は何通も手紙を受け取った。


 私は、これまでこういった雑誌を買ったことがありませんでしたが、新聞広告で記事のことを知り、初めて購入させていただきました。

 これまで私が触れていたテレビやニュースでは、定年後のセカンドライフ、ふさわしい最期など、そういった内容ばかりが取り上げられていました。

 決して口外こそしませんが、一部の高齢女性は、夫への感謝の気持ちを抱きつつも、絶対に許すことのできない屈辱的な扱いを受けています。ですが、それは誰かに伝えることなどできるはずもなく、私も胸の奥にしまったまま死んでいくものと思っていました。

 今回の“ある熟年夫婦の仄暗い関係”という記事は、私のような人間の気持ちを少しだけ代弁してくれました。

 誠に感謝申し上げます。

 記事の中で、「熟年離婚を考えた」という記述がありましたが、実際不満を抱えていても離婚という決断まで踏み切れる女性はほとんどいません。私のような女性がそういった決断をするには、あまりにも長い間、環境に依存してきました。

 また、離婚した場合も、「原因は薄情な妻」という見方が定着していますが、実情はそんな白黒はっきりとしたものではなく、もっと灰色なものだと思います。「離婚しない」ことと「満足している」ことは全く違いますが、長く生きていると、社会では時に灰色を、黒ではないということで白と考えたり、ある時は白ではないという点で黒と考えたりするのですね。

 そういった点でも、今回の記事は、灰色を灰色としてとても丁寧に描いてくださいました。ありがとうございます。


 中山に関する一連の連載で提起した熟年夫婦の関係に対する疑問は、同テーマに関する特集がテレビや新聞でも組まれる程に社会的に広がりを見せた。また、中山には支援の動きが起き、判決にも注目が集まった。

 2012年1月の第一審では、懲役10年の求刑に対し、懲役3年の判決だった。検察は判決を不服として控訴。現在、控訴審が行われている。

 その後も、由美は『オンナの末路』という不定期連載を通じて、様々なエピソードを取り上げ、深掘りしてきた。

 シリーズへの反響は大小様々だったが、一つ一つの積み重ねを通じて、由美は佐伯和昌の「娘」、佐伯玲の「妹」とは関係ない、中川佳織としての魅力を見出していた。


次の更新は2023/7/16の16時です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ